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東北地方の切子玉の研究
―日本列島東北部の切子玉の特質

福島明恵
[歴史遺産学科]

 切子玉とは古墳時代後期に全国の墳墓から出土する玉の一種である。水晶製であり、形態は多角錐台(概して六角錐台)を底面で接着した形を呈し、長軸を中心に孔を穿つ(大賀2009)。装飾品として利用されていたのだと思われる。切子玉が盛隆する古墳時代後期になると、前期には全国に散見されていた玉工房の遺構は見られなくなり、綿々と玉作りを継続するのは殆ど出雲のみとなる。畿内にも玉工房は散見されるが古墳時代後期には衰退が始まっており、生産量は出雲に大きく劣る。そのため古墳時代後期の玉作りは出雲の工房の殆ど専業のようなものだったと考えられ、よって全国の大多数の切子玉は出雲から流通してきたものと捉えて相違ない。
 古墳時代後期における玉研究は、生産地が出雲の一元である事から出雲界隈に視点を置いたものになり、生産地周縁に目を向けたものは殆ど無い。今回の研究では従来されてこなかった古墳時代後期における東北地方の独自の玉文化を切子玉から見出すことを目標に掲げた。元々東北地方から出土する玉には東北以南より埋葬時期が遅れることや、一遺構から出土する玉の量が膨大であるといった異色点があることは明らかであった。今回行う東北地方の切子玉を詳しく調査することによって更なる古墳時代後期における東北地方玉文化の特色が見いだせる可能性がある。それが今回証明できれば全国の文化が統一されつつある時代の統一されているように見える文化の中にも地域性が介在していることの証左になる。
 本研究が行う調査方法は大きく2つである。第一は、東北地方各地から出土する切子玉の法量の計測を行う。切子玉の法量には幅がある事が大賀克彦氏の研究(2009)によって明らかになっている。ここから東北の傾向を捉えようと考えたものである。第二は、東北地方各地から出土する切子玉の使用痕の観察を行う。本研究の使用痕観察で求めるものは簡便に述べると使用痕の進行程度であり、要は資料が製作後に受けた損傷の累積程度または強弱である。(以下からは使用痕を便宜的に損傷と称する場合もあるが、本稿で両者に差別は無く全く同一の意味で扱う。損傷が強くなる・累積するほど使用痕が進行しているという意である。)なお、玉の使用痕に関する研究は先行例がなく、本研究では玉の使用痕研究が今後の玉研究の発展に有意義であることを確かめることも目的の一つである。
 また、切子玉を独自に取り扱った研究は殆ど皆無であり、先行研究で挙げることが出来るのは大賀氏(2009)のもののみに留まる。切子玉の研究資料は不足しており、東北地方の資料を調査し独自の文化を探ろうとて比較対象がない。よって、東北地方の資料との比較資料として、生産地である山陰地方(島根県・鳥取県)と東北地方と山陰地方に挟まれた関東地方(群馬県)の資料も収集することにした。
 法量を地域ごとに比較すると、各地域ごとに傾向が異なることがわかった。各地域の傾向を簡潔に述べると山陰地方の資料の最も普遍的な全長は約1.0 ~ 2.0㎝、関東地方の資料は全長が約1.5 ~ 2.5㎝、東北地方の資料は全長は約2.0 ~ 3.0㎝である。断定することは本研究の資料数では不足で憚れるが、結果を巨視的に見て生産地から北上するほど大型指向が強まる傾向が認められるようである。年代ごとに検討しても、結果は変わらず全年代を通して法量の差異は認められる。以上から出雲では切子玉は同時期に大小様々な切子玉を製作しており、その中でも小型品は主に生産地界隈で消費され、大型品は生産地周縁にされていたと推測できる。つまり、切子玉の法量は地域で趣向が異なっていたと考えられる。
 特に東北地方と山陰地方の差は歴然であり、山陰地方で最も普遍的に使用される小型品は東北の需要は殆ど無く、逆に東北地方で最も普遍的な大型品は山陰地方での需要は殆ど無い。また、他地域では僅少である全長3.0㎝以上の特大品も東北地方では少なくなく、このような特大品は主に東北地方に流れていた可能性も考えられる。この点を含め上記した東北地方と他地域の法量の比較においても、東北地方には他地域とは一線を画した強烈な大型指向があったことは明らかである。
 使用痕の進行を地域ごとに比較すると傾向に偏りが見られた。総体的に見て山陰地方と関東地方の資料はほぼ同程度の損傷具合である。一方東北地方の資料は山陰地方・関東地方より強い損傷を受けていることがわかった。更に東北地方内での結果を俯瞰するとおおよそ漸北に損傷は強くなる傾向がある。しかし精査すれば同市内に所在する2 遺跡から出土する資料の損傷の程度が両者では大きく異なる、最北の青森県の遺跡よりも秋田県の資料の方が総体的に損傷が強い等の齟齬が見られた。
 次に年代を絡めて検討した。年代ごとに統計したところ、今回収集した中で最も年代が降る6 世紀後半の資料から最も年代が新しい8 世紀の資料まで年代が新しくなるほど次第に損傷が強くなることが分かった。また、比定される年代が一致するなら3 地域共々の損傷の程度はほぼ同等である。以上から切子玉の使用痕の進行は年代と強く相関していることが明らかとなった。
 東北地方が山陰地方・関東地方よりも強い損傷を受けている要因は切子玉が副葬される墳墓の造営盛衰年代の相違にあることが推測できる。東北地方の墳墓の造営年代は東北以南よりも遅れ、東北以南で墳墓造営が衰退・終焉する時分に東北地方では墳墓造営が盛行する。よって切子玉の副葬さる年代も東北地方は山陰地方・関東地方よりも新しいため、東北地方の資料が総体的に強い損傷を受けていたのである。東北内で漸北し損傷を強く受けていた要因も墳墓造営年代にあると考えられ、東北北部は東北南部よりも古墳の造営年代が新しい。
 また、東北地方の切子玉の埋葬が始まる7 世紀後半以降は東北以南で玉文化は衰退し、出雲の玉作りも終焉、切子玉の製作は既に終了している。よって東北地方から出土する資料は7 世紀後半以前に製作された玉を伝世させ有していたと考えられている。ここから東北地方の資料の損傷が激しい要因は長期間の用によるためと推測できる。東北地方では古くに製作された玉を伝世させながら長い間使用を継続したのである。加えて、東北地方の資料には破損しているものも多数ある。その破損面を観察すると明らかな使用痕を受けていることが分かった。破損が大きいものでは残存率が約1/2 程度しかない資料もある。つまり、東北では玉に紐が通せる状態ならば破損しても破棄せず使用したことも判った。
 東北地方では玉文化(切子玉)の伝播に遅れがある。東北以南では玉文化が衰退し、出雲の玉製作も既に終了した7 世紀後半に東北地方では切子玉の使用例が増加し、以降綿々と8 世紀まで玉文化が継続された。東北地方では7 世紀後半以前の古くに製作された玉を伝世させながら長期間使用し続けたために損傷が著しく激しい。また、破損した玉も構わず使用していたところを見ると生産が終了して切子玉の総数が限られている故の強い執着を感じるようである。加えて、東北地方には切子玉に対して強い大型指向であることが認められる。また、東北地方の異色点として一遺構から出土する玉の量が膨大でることも挙げられ、大型指向である事と加味して考慮すると東北地方は玉を誇示するよう華美に装飾する趣向があったのだと考えられる。以上が本研究で迫ることが出来た東北地方における玉文化の独自性である。
 切子玉は生産地が一元で、全国で出土が見られる玉であるが、東北の人々は己の趣向に合わせて選択・受容していた蓋然性が高いことを証明できたのではないだろうか。
【参考文献】 大賀克彦 2009 「山陰系玉類の基礎研究」『出雲玉作の特質に関する研究』