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後期浮世絵木版画に使用された色材の変遷に関する研究

大和あすか
[大学院 保存修復領域]

はじめに
 浮世絵木版画(浮世絵)は,江戸時代に発展した大衆芸術の1つである.木版画という性質から,使用される色材は植物染料由来の有機色材が多く用いられていると言われてきたが,非破壊による有機物分析の研究は長年発展を見せず,わずかに残る文献の記載から浮世絵に使用された色材が考証されてきた.近年では,非破壊分析法の開発や改良によって浮世絵色材の分析調査も進んで来てはいるが,報告例として以前少ないのが現状である.また,明治期の浮世絵の色材には,合成染料が用いられたという見解が一般的である.しかし,それらの具体的な色材名を記した文献は殆ど確認されておらず,先行研究においても,科学的な実証をもとに色材を明らかにした例はごくわずかである.
 本研究では,浮世絵に伝統的に使用された色材と合成染料が用いられたという指摘が最も多い,幕末から明治初期に使用され始めた新規の色材を明らかにするため, 制作年代の異なる複数の浮世絵に対して色材調査を実施した.

第1章 浮世絵木版画に使用された色材と調査方法
 文献から明らかになっている幕末以前の浮世絵に使用された無機色材や有機色材の歴史的背景をまとめた.そして,幕末以降の浮世絵に使用されたと予想される合成染料の発明年代や,それらの明治期の日本における需要状況についても調査した.有機色材を調査する場合には,試料から得られたデータを比較・検討するために標準試料を作製する必要がある.本研究では,天然動植物性染料由来の「紅花」「蘇芳」「日本茜」「インド茜」「西洋茜」「コチニール」「ラック」「鬱金」「黄檗」「棠梨」「槐」「藍」「露草」と,合成染料由来の「パラロゾール酸」「モーブ」「フクシン」「サフラニン」「メチルバイオレット」「アリザリン」「エオシン」「フロキシン」「エリスロシン」「ローダミン6G」「ローダミンB」から標準試料を作製し,三次元励起蛍光(EEM)スペクトル法と可視光反射(Vis-Ref)スペクトル法による測定を行った.

第2章 1830年以前に制作された浮世絵木版画の色材調査
 浮世絵にプルシアンブルーという青色色材が普及し始めたのは天保元年(1830)であった.プルシアンブルーは,1704年頃ドイツの化学者によって発見された顔料で,それまで浮世絵に使用されていた露草や藍よりもはるかに鮮やかで安価なそれは.導入後ただちに他の青色色材にとって代わった.
 本章では,プルシアンブルーが浮世絵に導入される以前に制作された浮世絵(役者絵)33点の色材調査を実施し,浮世絵に伝統的に用いられていた色材の解明を目指した.調査方法は,第1章でも用いたEEMスペクトル分析とVis-Refスペクトル分析の他,蛍光エックス線(XRF)分析やエックス線回折(XRD)分析など複数の非破壊分析法によるクロスチェックから色材同定を行った.本章で扱った作品は文政年間(1818-1830)中頃に制作された作品がほとんどで,それらの赤色箇所には紅花や弁柄,黄色箇所には鬱金や石黄,青色色材には藍と露草.緑色箇所には藍と石黄に混色や藍と鬱金による重ね摺,紫色箇所には紅花と露草の混色や紅花と藍の混色を確認した.それ以外にも天然染料由来と思われるが同定が不可能であった調査箇所も数点あり,今後の検討課題となった.

第3章 江戸後期から明治初期に制作された浮世絵木版画の色材調査
 開国後の日本には,海外の技術や製品が数多く輸入され,色材もその1つだった.舶来の色材は安価であったこと,色彩が鮮やかであったことから浮世絵には積極的に取り入れられ,従来の色材にとって変わったと言われている.実際に,晩期錦絵には彩度の高い赤色や紫色の色材が使用されている作品も数多く確認でき,江戸錦絵との彩色の判別が目視でも容易に行うことが出来る.晩期錦絵への新たな色材の使用は,もっとも早いもので元治年間(1860-1865)頃だとも言われているが,これについても目視による見解だと考えられる.
 本章では,広重美術館の所蔵品を借用し,幕末から明治期に制作された浮世絵56点に対し色材調査を実施した.結果,赤色色材は明治二年(1869)頃までは紅花や朱,弁柄などの江戸期の浮世絵と同様の色材を中心に使用され,その後アントラキノン系材が使用され始め,明治十年(1877)頃からは合成染料であるエオシンが用いられている事が分かった.紫色色材は,使用色材の推定が非常に難しくほとんど同定することが出来なかったが,メチルバイオレットのVis-Refスペクトルに一致する作品を数点確認した.他の色材は,青色色材を除いて江戸期に使用されていた色材が変わらずに使用され続けていた.

第4章 昭和期の摺師が用いた顔料の調査
 明治期に入ってからの浮世絵は,海外よりもたらされた他の印刷技術の発展により,大衆性,報道性,教育的な要素としての需要は低下し,明治三十年代後半には終焉を迎えた.しかし,新版画運動から始まる絵師,彫師,摺師の分業体制による伝統木版画の制作は行われていた.
 本章では,昭和期の摺師が実際に使用していた顔料38点の成分分析を行った.調査はXRD分析とFT-IR(フーリエ変換赤外分光光度計)を中心に行い,粒子観察ではマイクロスコープと走査型電子顕微鏡(SEM)を用いた.結果,顔料として使用されているものの多くは,明治期の浮世絵には使用されていない新規のものであることが分かったほか,江戸や明治初期頃まで使用が確認された天然染料由来の色材はほとんど確認出来なかった.赤色顔料にはアリザリンなどの合成のレーキ顔料や朱や弁柄やカドミウムレッドなどの無機顔料,黄色色材には石黄や黄鉛,青色色材にはプルシアンブルーやウルトラマリンや水酸化銅やインジゴ(おそらく合成),紫色色材はほとんど同定することが出来ていないがXRF分析によってモリブデン(Mo)やタングステン(W)が検出されたことから,合成染料由来の染め付けレーキだと思われる.他にも明治期までの浮世絵には確認できなかった橙色や緑色の中間色の顔料も使用されている事が分かった.

おわりに
 本研究によって江戸後期から明治初期までに使用されていた浮世絵色材をおおまかにではあるが明らかにすることができた.この結果を1つの指標とし,今後更なる研究の発展へと繋がるようにしたい.浮世絵は,文化財の中でも変褪色が起りやすい資料である.色材の研究がより展開することで浮世絵の画期的な色保存法が提案されることを願う.