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硫酸イオンが紙の劣化に及ぼす影響 ─温湿度による硫酸イオンの挙動変化の検証と礬水の技法調査 ─

千田梓
[美術史・文化財保存修復学科]

第1章 緒言
 1950年代、アメリカの修復家のW.J.Barrowが産業革命以降の洋紙の酸性紙問題を指摘して以降、にじみ留材による紙の劣化は注目されてきた。その一方で、和紙は高い保存性を持つと考えられてきたが、近代以降の紙や技法の変遷によりにじみ留剤から受ける影響大きくなっている可能性が危ぶまれる。
 本研究では、近代以降の日本画作品の支持体としての和紙を対象に、劣化の一因となっている礬水の実態について調査するとともに、湿度によって礬水に含まれる硫酸イオンの働きの変化を、加水分解(図1)と繊維の角質化(図2)の2つの劣化に着目し、実験的に検討した。また、それらが鑑賞性、取り扱い性などの点で絵画作品の支持体へ与える影響を明らかにすることを目的とした。

第2章 技法調査
 日本は明治初期に西洋文化を積極的に受容するが、明治10年代後半には国粋主義が起こる。これに先立ち、新たな技法を取り入れた「日本画」教育が行われ独自の発展をとげていく。近代以前の日本の絵画作品と、近代以降の日本画の違いが、今後の作品の保存にどのような影響を与えるか検討する必要性があると考え、文献による技法調査を行った。調査は、39冊の日本画を始めとした技法書に記載された日本画用紙の種類と、礬水の分量比を対象とした。
 文献調査の結果では、礬水に含まれる明礬の量は作家によって10倍以上の差があった。また、0.5%、1.0%、1.6%付近に頻度が集中する、ある一定の傾向がみられた。この傾向はいずれも、にじみ留剤として機能的に最適かどうかに準拠しているものではなく、慣習的な面が大きい可能性が高いことがわかった。

第3章 異なる湿度環境下での紙の加速劣化試験
 実験では、近代以降の日本画作品を想定し、にじみ留剤に含まれる酸性物質が支持体に与える影響を明らかにする。試験試料は、一般的に絵画支持体として用いられることの多い「雲肌麻紙」と、長期的に保存可能な書画用紙として制作された「大濱紙」を使用した。試験試料には、にじみ留剤に用いられる明礬と、比較のため希硫酸とクエン酸をいずれもpH=4に調製した後に塗布した。(図3)
 1000mL密閉ビン内に3cm角に裁断した試験片を各資料4枚吊るし(図4)、飽和塩法(JIS B 7920:2000)等によって各瓶内の湿度を設定した。高湿度劣化では、塩化カリウム飽和水溶液を用いて80%RH前後に湿度を設定し、低湿度劣化では23℃ 50%RH下で密封し相対湿度を5%程度まで低下させる方法をとった。

3-1可視紫外分光法による色の測定
 ほとんどの試料で、硫酸、クエン酸塗布試料は同程度の反射スペクトルの低下がみられ、明礬塗布試料の変化が大きい結果となった。また、低湿度環境下よりも高湿度環境下で変色が大きかったが、湿度と塗布物質の相互の影響によって変色が促されるような結果は得られなかった。これから、アルミニウムの変色作用やカリウムによる影響が、ミョウバン塗布試料の変色を促進させている可能性が高いことを示唆している。硫酸イオンの有無や湿度環境との相互作用による、反射スペクトルの有意な変化は見られず、硫酸イオンが紙の変色に関与している可能性は低いと考えられる。

3-2エックス線回折による結晶化度の測定

 X線回折法による測定の結果、雲肌麻紙の測定では繊維斑のためか芳しい結果は得られなかった。一方で大濱紙は、繊維も比較的均質であり比較的ばらつきの少ない結果を得ることができた。大濱紙ではクエン酸塗布試料と無塗布試料では高湿度劣化時の結晶化度が、低湿度劣化時の結晶化度を上回ったが、硫酸塗布試料と明礬塗布試料に関しては、低湿度劣化時に結晶化度が上昇した。これは、低湿度時に濃縮された硫酸の脱水作用により結晶領域が増加したものと考えられる。

3-3粘度法による相対重合度の測定
 粘度測定の結果、無塗布試料、クエン酸塗布試料、硫酸塗布試料、明礬塗布試料の順に相対重合度の低下が見られた。クエン酸塗布試料と硫酸塗布試料の下流速度は大きな開きが無いのに対して、明礬塗布試料の流下時間がその5分の1程度と非常に短く、明礬塗布試料の分子量の低下が著しかった。これには、明礬が持つアルミニウムやカリウムの影響が考えられる。
 湿度同士の比較では、低湿度よりも高湿度条件で劣化を行った試料の下流時間が短く、加水分解による影響が考えられる。しかし、湿度環境の違いによる重合度の違いよりも、同湿度における明礬塗布試料とその他の試料の重合度の差異が大きい結果となった。

第4章 総括
 礬水の分量比の傾向は、にじみ留剤として機能的に最適かどうかに準拠しているものではなく、伝統的に継承されている可能性が高いことがわかった。今後の日本画の保存性を考えるにあたり礬水として機能する最低の明礬含有率の分量比を検討し、普及を促すことで、礬水による紙の劣化を最低限に抑えることができるのではないかと考えた。

 実験の結果から紙の変色はアルミニウム(カリウム)の影響が大きく、硫酸イオンの有無が関与している可能性は低く、結晶化度は硫酸イオンの存在に影響を受ける可能性が示唆されたが、重合度の低下は、酸による加水分解の影響よりもアルミニウム(カリウム)の影響が大きく作用している可能性があることが判明した。
 また、今回の結果を踏まえて、以下のことが今後の課題として挙げられる。

・礬水として機能する最低の明礬含有率の分量比を検討する。
・紙への影響が少ない礬水の製法を作家へ提案する。
・アルミニウム(カリウム)が紙へ与える影響をより詳細に検証する