過去の作品

傘の上の住人

岩渕円花
[文芸学科]

【あらすじ】
 中学三年生の春。多川由香里は一つのいじめを知っていた。被害者は、右目に外斜視の症状を持つ同級生、佐伯晴海。加害者は由香里のいるグループでリーダーをしている棚橋咲と、その咲に手下のように扱われている大沢志津恵。誰よりも当事者に近い所にいながら、由香里は自分の身を守るため、見て見ぬふりで過ごしていた。しかし、修学旅行の班決めで、由香里、咲、晴海は同じ班へと割り振られてしまう。毛嫌いする晴海と同じ班になった咲が荒れて帰った後、由香里は偶然晴海と二人きりになった。雨の外へ出て行こうとした晴海へ由香里は傘を貸そうとするが、晴海は由香里を突き放して去ってしまう。この事をきっかけに由香里の保身の考えがぐらつき始める。だが、一歩が踏み出せないまま時は流れ、修学旅行の日を迎える――。

【コンセプト】
「いじめられっ子はいじめっ子より上の存在」
 成長するにつれて複雑化する人間関係に悩み始めるのは思春期だと思います。その絡み合って複雑な関係性を描きたくて、この作品を書きました。
 タイトルに使用した傘には、物語のキーアイテムである傘の意味だけでなく、核の傘の意味を込めています。核の傘とは、簡単に言うと「こいつに手を出したら力を持つ俺が動くからという牽制を周りにかけて、自分及び非力なものの安全を確保する」という、国々が働かせる抑止力のことです。今回、傘とは発言力の強い咲を指し、その庇護下に入っているのが由香里、誰の庇護も得ていない、傘を持たない者として、晴海を描きました。
 傘の上の住人というのは、その傘の持ち主にプレッシャーを与える存在であるという意味です。傘の外に居るので身を守ることは出来ませんが、傘の持ち主には負けない存在であるという事を意味します。そのため、傘の庇護がある由香里や、傘の持ち主である咲より、晴海を精神的に強く書いています。是が非でも一人で立とうとする、かたくなな少女です。

【作中より一部抜粋】
 街路樹から落ちた雫が、雨とは別に傘の上で跳ねた。
 もうすぐ交差点に突き当たる。由香里たちが今まで通って来た道とは違い、片側二車線の大通りと交わる道には横断歩道はない。かわりに、アメンボのように四方の道に足を下ろした歩道橋がかけられている。
 晴海が歩道橋の階段に足をかけた。左手で手すりに捉まって、確かめるように一段一段登っていく。クリーム色の塗装が剥げ、錆が浮いた手すりにかけた手は蒼白で、爪の根元だけが僅かに赤かった。
 慎重に階段を上がる晴海は、さっきよりもずっと遅い。開いていた間隔がじりじりと減っていく。咲が足を緩め、苛立ったようにピンク色の傘を揺らしたが、距離は縮まる一方だ。
 ついに由香里たちも階段を上り始めた。歩いていた時と同じように咲は由香里の右側に居る。志津恵は後ろだ。狭くなったせいで由香里たちの傘は幾度となくぶつかったが、由香里も咲も傘を少しだけ閉じるだとか、手すりの外に傾けることはしなかった。
 コンクリートが敷かれた階段は水はけが悪く、しっかり足をかけなければ滑って踏み外しそうで、由香里は視線を下へと向けた。縁が少し割れたコンクリートの段、すっかり濡れた自分のスニーカー、角に溜まった黒っぽい土と生えた雑草。確認しながら歩いていた由香里の視界に、白が掠めた。
 晴海の靴だ。
 由香里は視線を下に向けたまま、足を止めた。
 階段はもうすぐ終わる。だが、その残された数段を、じれったいほどゆっくり晴海は登っていた。持ち上がった足が動く、止まる、また動く。隣から咲の舌打ちが響いた。
由香里は傘を深く傾けた。上半分を覆われた視界から足が消え、姿が見えなくなる。雨粒が傘を叩く振動で、右手が少し動いた。
 くたびれたポリエステル生地、一枚。その上に透明な圧力がかかっていた。姿は見えないはずなのに、何をしたというわけでもないのに、晴海は由香里たちを押しとどめる。明確に、存在を訴えるのだ。
 最上段に由香里は上った。その時には、晴海は歩道橋の分かれた通路を歩き始めていた。由香里たちとは別方向だ。
 咲が清々したと鼻を鳴らし、足を動かした。狭い通路で由香里の横を何とか通った志津恵が、咲の背中を追う。握られた黄緑色の傘は小気味よく雨を弾いていた。
 由香里は二人を追う前に晴海を見た。
 ぴっとり頭に貼りついた髪に、下にきたTシャツの透けた白いセーラー服。一歩進めるごとにスニーカーはぐずついた音をたてる。惨めな濡れ鼠――だけど。
 晴海は傘の上にいる。

《以上 抜粋》