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金剛峯寺蔵澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃の用途について
-意匠の考察を中心に-

奈良美咲
[美術史・文化財保存修復学科]

はじめに
 平安時代漆芸品の名品として和歌山金剛峯寺所蔵の沢千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(以下、本作品と省略)がある。本作品は寺伝で「仏具類を納める」との記録はあるが、具体的な伝来や用途は明らかでない。先行研究で法量や様式から用途の考察は進められているが、意匠・図像解釈から用途の考察は殆どされていない。本研究ではこれまでの研究結果を再検討し、意匠の考察から本作の用途を明らかにすることを目的とする。

作品概要
木製黒漆塗唐櫃/1合・法量(センチ)…30.5×39.9、高さ30.0・制作時期…12世紀初頭
四脚の唐櫃。蓋はわずかに甲盛があり塵居を設けた合口造である。正面の錠金具や背面の鉤金具、脚の上下端の飾金具には魚々子地に宝相華唐草文を線刻するなど精妙を極める。蓋は取り外し可能。
総体黒漆塗に金と青金の研出蒔絵で文様を表す。淡い平塵地や州浜の蒔暈しの表現など全体に奥行きを感じさせる構成となっている。
蓋表と各側面に燕子花や沢潟の咲く水辺に千鳥の群れ集う様を描く。鳥や花の一部は螺鈿で表す。蓋裏には龍胆・楓などの折枝と鳥・蝶を散らす。
身内部には懸子を具える。その見込には13個の金銅製宝相華円文透彫金具を襷状に嵌装、その間に螺鈿唐草文を飾る。

先行研究
 本作品の用途について考察している研究を紹介する。
 小松大秀氏は平安時代の蒔絵表現について、現存作品から装飾技術の進歩の経緯や技術面での特質を整理し、平安時代の漆芸品の制作背景とそこから導き出される性格(用途)を考察している。本作品と片輪車螺鈿蒔絵手箱の2つは同時代の中でも群を抜いて装飾的なことと法量から当時流行していた装飾経を納める箱である可能性を示す。
 河田貞氏は12世紀の史料・九条兼実の日記『玉葉』から「法華八講の際に、経櫃の懸子に経巻をのせ、講師に一巻ずつ配る」という記述と、懸子を具えた文明7年(1475)銘の小唐櫃が摂津河辺多田院の法華八講用の経櫃として調進され伝存していることを踏まえて、本作品の装飾と法量から法会や儀式用の法華経経櫃である可能性を示している。
両者とも図像解釈は行っていない。

経櫃としての検証〈様式〉
 本作品の法量から経巻を三十巻ほど納められると推測した。また、本作品の正面・背面に付き蓋が取り外し可能という特徴は神護寺一切経経櫃と同じ形式、懸け子を備える形式は摂津河辺多田院と同じ形式をとっている。そのため、法量・形式から見ると経櫃としての可能性が高いと言えよう。

経櫃としての検証〈意匠〉
 『落窪物語』巻三「蒔絵の箱。蒔絵には経の文のさるべき所々の心ばへをして一部づつ入たり」経巻を納める箱には経典の心ばへ(経意)が意匠化されている。経櫃であるなら法華経の中から主題が選択されているそこで各モチーフと法華経経文中の照合を行なった。
⑴ 千鳥
 賀の歌や言祝ぎの歌では「八千代」と鳴くことから、仏の無量の寿命をとく「如来寿量品」の一節を連想できるのではないかと考えた。また、法華経「如来寿量品」においては仏が霊鷲山に常住し説法をしていることも述べており、同時に霊鷲山説法を象徴しているともいえる。そのため、本作品に表された天と地を行ったり来たりする小さな鳥は衆生が霊鷲山から虚空会へ行き、また霊鷲山へ戻ってくるという法華経の世界を示していると言えよう。
⑵ 州浜
 海辺の場景を表すと同時に、神仏が宿る聖域としての意味を担わされていた。そして、州浜台が用いられる造り物においては場を聖化する仕掛けであり、神を招く小さな神仙郷であった。そのことから、州浜がどのような世界を表しているかは州浜の上にあるモチーフが重要となるであろう。そこでカキツバタ、オモダカなどの湿地の植物が表されていることから、本作品に描かれている州浜と流水の表現は「不染世間法 如蓮華在水」の蓮華の水を喩えているのではないだろうか。
⑶ 湿地の植物
 カキツバタは《平家納経「見宝塔品」紙背》に、オモダカは《竹生島経》に表されているおり法華経美術の意匠として選ばれている。仏教と無関係な四季の景物が表されたことは「存在するものはすべて真実の姿」とする「諸法実相」の世界を見たためであろう。諸法実相の考えが表された作品は平家納経以外にも装飾法華経においてしばしば登場する。そのため、カキツバタやオモダカが咲く水辺に千鳥が群れ集う意匠も法華経の世界を表しているとみることができよう。また、カキツバタは《華厳五十五所絵巻》の毘目瞿沙仙人の場面で描かれる。また、カキツバタと似た花が《談山神社本・金字宝塔法華経曼荼羅》の一部や《中尊寺蔵金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅》の全体に描かれる。そのため、カキツバタは蓮池の傍らや荘厳された仏国土に咲く花という連想ができる可能性がある。
 オモダカに関しても竹生島経の意匠として選ばれただけではなく、葉の形から宝塔を示す可能性がある。
また、湿地の植物が表されていることから州浜と流水の表現は「不染世間法 如蓮華在水」を表している可能性を示したが、となると地面から生えるカキツバタ・オモダカは弥勒菩薩から「無量無邊の諸仏の所に於て、諸の善根を植ゑ、菩薩の道を成就し、常に梵行を修せり。(法華経より)」と判断された地涌の菩薩を示す可能性がある。

まとめ
 各モチーフの考察を総合して考えると《霊山変相図[宋版法華経変相図]》(清凉寺)で表されるような法華経の霊山会と虚空会を合体する図相と見ることができ、法華経全体を象徴しているともいえる。このように、意匠から見ても法華経の「心ばへ」し、経意を象徴的に表現してると見ることができ、本作品は法会や儀式用の法華経経櫃であった可能性が高い。