過去の作品

潮騒

浅野由樹
[文芸学科]

【あらすじ】
バイトを辞めた元フリーターの塚野右子はボーイズ・ラブ小説家を夢見ている。周りの人間と自分の差に悩んだ塚野は、自分を理解し肯定してくれる宇宙人のイマジナリー・フレンドを創造して自分を慰めていたが、中学の同級生・みどりに誘われ、同じく中学の同級生・眞冬と共にみどりの家でルームシェアを始めたことをきっかけに、厳しい現実を目の当たりにしていく。

【作中より一部抜粋】
 ふゆちゃんはマサキの家のスノードームの台座でマサキを殴った翌日、三人の家から姿を消した。置き手紙には「家庭の都合で実家に帰ります」とだけ書かれていた。あの日、虚脱状態のふゆちゃんを家に連れ帰ったのはツカノだった。みどりはアパートの廊下にも階段の下にもおらず、ふゆちゃんに聞くと「止めたけど聞かなかった」と本当に小さな声で一言返ってきた。それ以降、会話は無かった。もちパンを買う事無く地下鉄で帰路に着いたツカノとふゆちゃんは、そのまま自室に入り、食事を共にすることも無かった。みどりはその日の深夜に帰ってきたようだが、顔を合わせないまま、三人はそれぞれに夜を過ごした。
 ふゆちゃんの手紙を見つけたのはツカノだった。次の日、昼過ぎに起きて、飯を食べようとリビングまで出てくると、テーブルにそれがあったのだった。ツカノには、昨日の今日で本当に「家庭の都合」だとは到底思えなかった。見つけてすぐ、みどりに相談しようとみどりの部屋のドアを叩いたが、どれだけ呼んでもみどりは部屋から出てこなかった。警察に行くことも考えたが、昨日自分たちがやったことを思うと足がすくんでしまうのだった。それに、もしかしたら本当に家庭の都合でしょうがなく実家に戻っているだけかもしれない。すぐに、戻ってくるかもしれない。ツカノはそう考えずにはいられなかった。
 ふゆちゃんの母親からツカノの携帯に電話がかかってきたのは、その一週間後であった。仕事を無断欠勤しているらしかった。手紙のことを話すと、実家には帰ってきていないとふゆちゃんの母親は言った。そうなるとツカノは何も手がかりを持っていなかった。捜索届を出すことにする、眞冬から何か連絡が来たら電話してくれと言われ、ツカノは頷いた。
 みどりはツカノが自室にいる間に風呂に入ったり飯を食べているようだった。ツカノはツカノで、みどりが部屋から出ていると分かる時には自室から出なかった。そうした方が楽だった。
 大賞作品を読み終わり、ツカノは、これは自分には書けそうもないと思った。こういうものが評価される世界なのであれば、私は死ぬまで評価されることは無いだろう。
 向いていないのかもしれない。ツカノはぼんやりと天井を見上げながら、自分が書いてきた数々の作品を思い出していた。それらはキャラ設定も世界観も平凡で、ツカノの日常と地続きの物語だった。
「パロュトゥちゃん」
 パロュトゥちゃんの名前を呼ぶと、数秒経って、パロュトゥちゃんは哀川翔に似た声で「はあい」と愛らしく答えてくれた。あの忌々しい事件があってから回線の調子が悪く、繋がらないことが時折あったが、今回は無事に繋がったらしい。ツカノの乳首くらいの位置にある細長い目でツカノを見て、パロュトゥちゃんが笑う。見た所、以前会った時よりもぬめぬめが改善されていた。
 パロュトゥちゃんに大賞作品のことを伝えると、彼女はどことなく困惑した表情で「でも次があるよ、それにゆうこちゃんは優しいし」と言った。
 ツカノの書く話に所謂「スーパーダーリン」的な人間は出てこない。恋が実っても、日常に疲弊しているからすぐ喧嘩する。でも、だから何? ツカノは反論したかった。だって、現実ってそうじゃん。この国がそういう感じじゃん。だったらしょうがなくない? 何なんマジで? というか最近、恋人がいるということが上手く想像出来ない。法律違反のブラック企業できつきつに働いて辛いけど、帰ったら家事が出来てルックスの良い恋人が温かい晩御飯を作って待っていてくれて、「そんなに頑張らなくてもいいのに」なんて後ろから抱きしめてくれる環境ってどこにあるんですか? そんなことが現実にあるんですか? 「俺だけはいつだってお前の味方だよ」みたいなのが、本当に? 無いでしょ。無いじゃん。
 大体においてさあ、くっついた二人が別れる理由が相手の気持ちが信じられなくなったりとか、相手にはもっとふさわしい人が、とかそういう優しい気持ちが発端な時点で嘘なんだよ。本当はもっとちっちゃい、しみったれたことが原因になるんじゃないの? 混ざらないように自分は黒のソックス、相手は紺のソックスって決めたのに、相手が何度言っても片足黒の片足紺で会社行きやがるとか、カビるから風呂入る時は乾燥機かけろっつってんのにお前は一体いつになったら覚えんの? とか、いやまあ、潔癖症じゃない限りそれだけで別れるわけはないから、普通に気持ちが離れてるんだとは思いますけど。ていうか靴下ごときで恋人と別れるって随分豊かな人生ですねえ、私も恋人と別れたい。靴下なんて贅沢なことは言わない。恋人が事あるごとに大きな水晶玉を買ってきて、最近は風呂にも入らず水晶玉で身体を擦って綺麗になったつもりでいるから別れるとかでいい。恋人がいない。
 現実はこうだ。ただただ定時退社を思いながらバイトをし、へとへとになって帰って来たら郵便受けにはポスティング・バイトが突っ込んでいったチラシがぱんぱんに入っていて、それを抱えて玄関の扉を開け、灯りをつけて靴を脱ぐも脱ぎ散らかされた他の靴につまずき転ぶ。足をつけたその先にコンビニのビニール袋が偶然あり、滑る。結果として部屋の柱に頭をぶつけ、「殺す」と呟く。洗濯物は溜まっており、風呂などはもう絶対にやりたくなく、歯も磨きたくない。テレビをつける元気も無い。宮城の一人暮らしは夏であれば蒸し暑く、冬であれば極寒。家に人がいないので温かいご飯など待っているはずも無く、買いだめしていたはずの冷凍庫のアイスも昨日食べ切った。ひもじい。切ない。昨日発売の期間限定ハーゲンダッツが食べたい。

≪以上 抜粋≫