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紙の伸縮挙動─装潢文化財に用いられる紙の基礎研究─

李哉炆
[文化財保存修復学科]

第1章 序論
 掛軸、屏風、襖など日本の書画を総称して装潢文化財と呼ぶ。この装潢文化財は、紙・糊・表具裂など複数の異なる材料が組み合わせられた構造からなっている。2017年度学部3年次の演習授業にて二枚折屏風「唐子遊図」の本格解体修理を行った。その修復作業の中で、湿りの入った本紙や、糊が塗布された表具裂など、それぞれの材料が水や糊などの湿りが入ることにより大きく伸縮することに興味を抱いた。これは装潢文化財の作品を修理する上で、各材料の伸縮挙動を理解することが重要であることを意味する。そこで、装潢文化財の修理において重要な材料である紙に注目し、水や糊による膨張収縮の挙動に着目することとした。特に紙の繊維の原料や繊維の方向性と加湿時の紙の伸縮の関係を理解することを目的とする。

第2章 理論・先行研究
 JIS日本工業規格による紙の定義は“植物繊維その他の繊維を絡み合わせ、こう着させてつくったもの”である。すなわち、植物繊維のセルロース同士が水素結合し多数の繊維を積層させ、シート状としたものを総称する。特に製紙方法により異なる方向性を示すなど繊維組成としての特徴を有する。また異なる繊維の配列方向により繊維伸縮に大きく影響を与える。手漉き紙の場合は、簀桁を揺する方向と回数によって、繊維の方向性が生じる。機械抄き紙の場合は、抄紙機でパルプを一定方向に流しながら製造されるため、進行方向に繊維が揃いやすく「紙の流れ目」ができる。この流れ目は手漉き紙の繊維方向と同様に考えられる。また、セルロース(C6H10O5))繊維は、水素結合され繊維中に入る水や湿りによって、繊維自体の膨張が起こり紙の変形が生じるなど繊維の伸縮が働く。また水分の増減により繊維間空隙率が小さいほど大きく伸縮する特徴を持つ。このような湿度変化による紙全体の伸縮は、個々の繊維の膨張収縮が繊維間結合を通じて全面に波及し、繊維間空隙体積が増加することによって生じる原理である。そのため伸縮は繊維による違いや紙の特性などと密接に関係していると考えられる。

第3章 紙の伸縮実験
 装潢の基本的な材料である紙の湿りによる伸縮に着目した。特に装潢と装潢分野以外で使用される紙試料(全40種類・試験片840枚)を用いて繊維方向性と繊維の種類による紙の伸縮実験(実験1.~9.)を行なった。繊維方向性に関しては、繊維方向を縦方向(X)、そしてその90度交差した横方向(Y)と表現した。実験環境はデータロガーによる温湿度測定の結果、平均温度23.4℃、平均湿度(R.H)53%というデータ結果を得た。そこで、本実験を行う試験場所は「JIS Z 8703:1983.試験場所の標準状態の許容差」により、標準状態の温度が23℃、その級別が温度1級、標準状態の湿度が50%、その級別が湿度5級とし、23±1℃・50±5%、又は23(1)/50(5)と表記し、試験場所の標準状態として実験を行った。測定方法は、100×500㎜の大きさのマイラーシートを2枚用意し、試料の寸法(50×300㎜)に合わせて星付きを用いて切り込みを入れ基準線を設けた。10-1㎜まで測定できるルーペ(PEAK社製 SCALE LUPE ×10)を用い目視で採寸し、伸縮の変化を記録した。
 実験結果、「実験4. 紙の種類による伸縮率」については、紙の種類を問わず、横方向は縦方向に比べて加湿乾燥時の伸縮挙動が大きかった。また加湿時の紙の伸張が大きいほど、乾燥時の収縮の値も大きくなることが確認された。特に機械抄きトレーシングペーパーは、横方向の場合、手漉き楮紙に比べて4%(12㎜)以上の差が生じるなど著しく変化した。なお、手漉き紙は繊維密度が高い雁皮紙、竹紙、宣紙、石州紙の順に伸縮率が大きかった。また「実験5. 紙の湿した後撫ぜ刷毛による伸縮率」は、試料の重量対比100%の水分量を与えた後、さらに150%の水分量を加えると0.1%(0.3㎜)ほど伸縮率の変化がみられなかった。一方、撫ぜ刷毛を使用すると、宣紙は最大約0.5%(1.5㎜)伸長するなど大きく変化した。すなわち、水分量の増加による伸縮率の変化はみられなかったが、撫ぜ刷毛など試料に対し物理的な力を加えることにより、紙の伸縮率が大きく変化することが分かった。

第4章 裏打ちによる伸縮変化
 装潢文化財の分野で行う本紙修理時、新しい紙で裏打紙を打ち替える作業がある。そこで裏打ち作業後、湿った本紙を乾燥するとき行われる代表的な方法が仮張り作業である。仮張り乾燥とは、仮張り板に湿った状態のシート状のものを周囲だけ糊で固定して(張り込んで)乾燥させる方法をいう。そこで、紙の方向性と繊維の種類に注目し様々な条件下で実験を行なったことから、仮張り時の伸縮挙動を理解することで、実際修理作業時に行われる仮張り作業の役割について改めて知ることを目的とした。実験結果、試料に湿りを与えた際の伸縮挙動は、先行研究の結果と同様に、繊維の横方向が縦方向より伸長した。その後、撫ぜ刷毛を用いて本紙を平らに伸ばし、裏打紙の裏面に薄めた糊を塗布して裏打ちを行った。裏打ち直後、本紙の繊維方向に問わず全体的に伸縮率がほぼ変わらなかった。裏打ち後、本紙の周囲のみ糊を塗布し、仮張板へ張り込んだ。この仮張り作業により、全体作業の中で伸縮率のピークに達した。仮張りした状態で一週間ほど乾燥させて、仮張りから外す前に測定したところ、仮張り直後より収縮していた。すなわち、同じ繊維方向で裏打ちをした本紙は、異なる繊維方向で裏打ちした場合よりも本紙の伸縮差は大きくなることが確認された。こういったことは仮張りの期間などでも違うのか、仮張り時にどこまで伸長させたかでも変わるのか、実験する余地がある。

第5章 総括
 本研究では、紙の原料によって紙の膨張収縮による伸縮挙動の違いが現れること、繊維方向により異なる伸縮挙動を示すことを確認した。また装潢文化財に用いられる紙試料だけでなく、機械抄き紙を含め洋紙など装潢文化財の分野で使われていない一般的な紙についてもその伸縮率の基礎データを蓄積し、その伸縮挙動が紙の種類により大きく異なることを検証した。そのため今後東洋絵画修理時、裏打ち作業を含め本紙修理時の湿り具合など必要な技術と各材料が持つ伸縮特性と材料の知識について知ることができた。本研究における紙の伸縮挙動の基礎研究情報が今後の修復材料の選定などにも役立ち、また紙だけでなく、表具裂や糊など複合的な構造からなっている装潢文化財を理解する上で活用されることを願う。