八戸藩庁日記狩猟関係史料集

  • 八戸藩

刊行にあたって

 一九八〇年代から保護の対象と考えられていた野生動物の生息状況が緩やかに変化しはじめ、繁殖個体の増加と生息域の拡大へと一転した。二〇〇〇年代に入るとこの動きが激しさを増し、二〇〇六年には日本国内で北海道のヒグマと本州以南に生息するツキノワグマの多発出没という現象が顕在化した。結果、この年のクマ類の捕獲数(駆除数)はヒグマ、ツキノワグマ合わせて五〇〇〇頭を超えた。こうした動きはニホンザル、エゾシカ、ニホンジカ、ニホンイノシシなどの大型獣、さらには外来種のアライグマ、ハクビシンなどの中小型獣にまで見られ、日本国内は野生動物の繁殖と生息域拡大期を迎え、農林業被害と人身被害が顕在化し、これを抑止する人間の生活空間を防衛する能力が問われることともなった。

 過去、日本国内では度々野生動物との軋轢が激化した時期があった。とりわけ元禄期に長崎県対馬で行われた陶山鈍翁らによるイノシシ殲滅作戦がその顕著な例として挙げられよう。陶山鈍翁による元禄一三(一七〇〇)年「猪鹿追詰覚書」によれば、対馬はイノシシとシカによる農作物被害が激烈となり、島民の食料が不足する事態に陥った。そのため陶山鈍翁が平田喬信とともに考案したのが島中のイノシシとシカを殲滅する計画であった。計画は、南北に延びる対馬を大垣という高さ六尺(約一,八メートル)の垣をめぐらし六区画に分け、各区画をさらに内垣という高さ五尺の垣で小ブロックに分け、このブロック内のイノシシとシカを残らず駆除するというものであった。八年の歳月を費やして実行され、人夫は延べ二万九七七〇人、駆除に当たった狩人は八三三人、動員された猟犬二万一七八〇頭、結果捕殺されたイノシシやシカは八万頭にのぼった。

 同じ長崎県の西彼杵半島には亨保七年(一七二二)年から半島を縦断する全長六〇キロにおよぶ猪留垣が築かれ、現在でもこの跡を見ることができる。そして、西海町中浦北郷には猪留垣の基点標石が残されており「亨保七□寅年」とある。この他にもイノシシやシカによる農作物被害に苦しんだ地域は多く、猪垣は、近世後半に南は沖縄から北は三陸沿岸にまで分布していた。

 今日、私たちに求められているのは「理想としての自然」ではなく、「現実の自然」を可能な限り理解し受け止め、私たちの日常の安心と安全をどのように構築しえるか、という問題に応えてゆくことである。『環境動態を視点とした地域社会と集落形成に関する総合的研究』が目指す、新たな集住空間の創出と理念構築というテーマもまさに「現実の自然」と向き合えるものでなくてはならない。 今回、本史料集を刊行するのは、過去この列島に生きた人々が直面した日常の問題点を一般の人々と共有し、かつて人々がこの問題にどう向き合ったのかを学び、考えるためである。

    
        研究代表 田口洋美