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伝統的な日本絵画修復におけるメチルセルロースの基礎研究

栁友里絵
[文化財保存修復学科]

第1章 序論
 本研究は、伝統的な日本絵画の修復過程においてメチルセルロース(以下MC)を使用する際に、作業目的に合わせてMCの種類と水溶液の濃度を選択しやすくするための比較実験を中心とした基礎研究を目的とする。
 掛軸や屏風などの伝統的な表装形式の日本絵画は、仕立てや修復作業の工程で、水で希釈した小麦澱粉糊を使用する。部分的に修復を行う応急修理の場合は、接着する際に、希釈した小麦澱粉糊によって作品の一部分にだけ過剰に水分が含まれ、局所的に紙、絹などの基底材が伸縮し、作品全体のバランスが崩れる可能性が高まる。このような小麦澱粉糊の欠点を補う可能性が考えられる接着剤にMCが挙げられる。この接着剤は、保水性があるため接着したい箇所以外に水分が浸透しにくい性質を持つが、伝統的な日本絵画を対象としたMCの基礎研究があまり行われていないのが現状である。そのためMCがより広範囲に活用されるよう種類の異なるMCの粘度測定、溶解速度を比較し、考察を行った。

第2章 メチルセルロースについて
 MCは、セルロースエーテルの1つである高分子化合物である。セルロースエーテルとは、木材、綿、麻などの植物の細胞壁を構成する主要な成分であるセルロースを原料とし、セルロースに含まれるヒドロキシ基をエーテル化反応によって置換基を化学的に導入したセルロース誘導体の総称を指す。

第3章 先行研究・修復事例
 現在の日本絵画の修復において、MCは紙の接着や顔料の剥落止めに使用されているが、東京国立博物館が刊行している修理報告書には、顔料の剥落止めとして使用されている記載以外は、修理報告書上はMCの使用は省略され、詳細な内容は伺うことができない。

第4章 メチルセルロース水溶液生成
 本研究では、文化財保存修復研究センター東洋絵画修復室にて使用してきた実績のある、信越化学工業㈱が製造するメトローズSMタイプを使用して実験を行った。粘度グレードの異なる6種類のMCに対し、1%ずつ濃度を変えた溶液を作成した。

第5章 メチルセルロース粘度実験
 粘度グレードが異なることで、同じ濃度のMC水溶液であっても、粘度に違いが生じてくる。加えて、メトローズなどのMC水溶液は、温度変化によって粘度が変わる性質をもつ。今回の実験ではMCを一定の温湿度環境ではなく、実際に使用する東洋絵画修復室内で粘度測定を行うこととした。各グレード、濃度の粘度値はメーカーが提供する粘度曲線データと同様の曲線を示すことができるかどうか確認することを目標とする。さらに修復作業の目的によって、求められるMCの粘性は異なるため、各グレードの濃度が可視化できるようにグラフ化することで、修復作業に合わせた溶液を生成できるようにする。粘度実験には、単一円筒形回転粘度計を使用し、測定した粘度値は、エクセルで散布図に表した。
 測定の結果、東洋絵画修復室内でも、全てのグレードのメトローズ水溶液の粘度値は、信越化学工業㈱が提供しているデータと同様に、濃度・粘度曲線を描いて分布することができた。

第6章 メチルセルロースの乾燥・溶解実験
 修復作業では修復材料に可逆性が求められる。そのため使用したMCは一旦乾燥した後にも、水分を与えて膨潤させ、容易に除去できるようする必要がある。この実験では、生成した水溶液をに乾燥させ、伸縮を観察するとともに、溶解しやすいメトローズ水溶液の粘度グレード、濃度を調べた。溶解実験の試料となる水溶液は、測定した粘度範囲4000~5000 mP・sに値を示す同粘度の水溶液に加えて、同濃度で粘度グレードが異なる場合の挙動も比較した。生成したすべての水溶液を10g、20gごとにシャーレにとり、常温乾燥器にいれて乾燥させ、シート状にした。溶解実験では、300mLビーカーに常温のイオン交換水を350 mL入れ、2.5㎝×2.5㎝サイズにカットしたシートをその上に浮かべた。10分間のうちに水が浸透していくシートの様子を目視観察し、その間インターバル撮影を行った。実験後は、シートの状態をピンセットで確認している間も、動画撮影を行った。この結果、同濃度であれば、高いグレードになるにつれ、溶解しづらいことがわかった。同粘度で異なる粘度グレードのMCは、高い粘度グレードの低濃度のシートと、低い粘度グレードの高濃度のシートは一部が溶けてしまった。中間の粘度グレードは、水に影響されず、安定的であることが示された。

第7章 結論
 本研究では、修復技術者が、現場で実際に作業を行うことを想定して、複数の粘度グレードのMC水溶液を比較し、作業場での粘性の保持が可能であるか、また乾燥した状態から再度水を加えた際の挙動を観察することで、技術者が実際にMCを修復材料として選択しやすい指標を提示できるよう2つの実験を行った。
 粘度実験では、温度によって粘度が変わるMCが、修復室内の温湿度環境下では、大きな影響もなく、全ての粘度グレードが製造元データと同じく、濃度の増減によって粘度曲線を描くことができることを証明することができた。溶解実験では、粘度グレードごとの溶解の進行速度と状態を比較することで、粘度グレードだけでなく、濃度もMC水溶液の溶解に大きく影響を与えていることがわかった。
 出版されている修理報告書などから確認する限りでは、日本でのMCを使った修復事例は限られている。しかしその小麦澱粉糊とはまた違った特性をあることからも、これからより積極的に使われていく可能性がある。今回は伝統的な接着剤である布海苔や膠、新海苔との違い、和紙、裂との相性などを考慮して実験を行うことが叶わなかった。特に修復で必要な接着力について言及できていない。これらとの関係性や優位性を見いだすことでさらに伝統的な日本絵画修復におけるMCの応用が期待される。