「山を読む、二日間」―よく聴くために、よく観ること。
2013/08/21
肘折温泉で8/10-11に開講した「山を読む、二日間」。大盛況でした。肘折カルデラをフィールドに、語る・描く・歩くという3つの体験から、人間と自然の根源的なつながりを捉え直す二日間。ゲストにお招きした田附勝さん、石倉敏明さん、KIKIさんの他にも、赤坂憲雄さんや6次元のナカムラクニオさん、大聖坊の山伏・星野文紘さん、世田谷美術館館長の酒井忠康さん他、各方面の先達にご参加いただきました。
初日のトーク「山を語る」のなかで、人類学者の石倉敏明さんが「自然の風景を楽譜のように捉える/唄の発生は言葉よりも古い」と発言されました。エチオピアからアボリジニまで、時空を超えてつながるそのお話を聞きながら、僕は、肘折で学生たちが描く肘折絵巻(ひじおりの灯)も、坂本大三郎さんが追いかける山々の世界も、このカルデラに溜まっている、ある種の原始的な気配への、言語以前の感応――(石倉さんの言う)唄なのかもしれないと、考えていました。
夜の濃い湯治場で、八角の灯籠を廻しながらヒソヒソと交わされる会話、法螺貝、酒杯の重なり、カジカ、下駄、拍子木、湯や川や雨が流れる音、これらが渾然一体となった「唄のようなもの」に、耳を澄ます行為・旅。暗い温泉街に楽譜のように連なる「ひじおりの灯」よって、現代生活では聴き取りにくくなっている、その「唄のようなもの」へのチューニングや感度が、高まっていくのだと。
そういえば、肘折と僕たちの縁をはじめに結んだ赤坂憲雄さんが、この地に関わりを持ったのは、今はなき葉山館に逗留して『子守唄の誕生』(講談社現代新書)を書いたのがきっかけでした。今年からはじまった「肘響」といい、このプロジェクトは、7年の歳月をかけて、ゆっくりと「観る」よりも「聴く」ことに、必然の道行きとして、深まっているようです。しかし、そのことは震災後の東北で、とても大切なことだと思っています。
良く聴くために、良く観ること。なぜならいま重要な声は、とても小さく、か細く、それゆえ僕たちは、都市の喧噪を離れて旅をし、声が反響する肘折のような場所へと、自ら近づいていかなければならないのです。「山を読む、二日間」に、あれほどたくさんの人々が集まったのは、(僕自身も気付いていなかったけれど)そういうことだったのだと、いまふりかえっています。
宮本武典
※以下のスナップは「山を読む、二日間」に参加してくださった、イラストレーターの中村菜都子さんがiPhoneで撮ったもの。彼女の旅の記録です。中村さんとは高校の同級生で、不思議なことに、肘折温泉で十数年ぶりの再会を果たしました。中村さん、ありがとうございました。