過去の作品

中山間地における多機能用水の利用史
-山形県西置賜郡小国町五味沢集落を例に-

松田和之 Kazuyuki Matsuda
[歴史遺産学科]

1、研究目的
 本研究では、中山間地である五味沢集落の水・水路に関する生業並びに生活利用に関する事例を研究対象にし、近代から現代にかけての五味沢集落での用水のサスティナブルな利用史を明らかにする。そして年代を経て利用が変容をしていくプロセスを導き出し、どのようにして変容をしていったかを明らかにする。

2、五味沢集落と水
 五味沢集落は、豊富な水に恵まれた集落である。荒川、5つの沢が集落へと流れている。5つの沢は、五味沢沢、三明沢、沢ノリ沢、ジンタケ沢、石渡沢である。この5つの沢があることによって五味沢集落が大きく開けたと言っても過言ではない。豊富に水があったことにより多くの戸数を抱え、村を開くことが出来たと考えられる。
 飲料水の変遷では、昭和20年代まで水路・沢を利用してきた。各家には、ミジャヤフネと呼ばれるシンクを作り、水を取水していた。本家筋の家は、特定の沢を利用し、その他の家は、水路から取水をしていた。その後昭和30年代に井戸が普及し始めた。昭和40年代になると、基盤整備・消火栓設置に伴い簡易水道化した。

3、利水と水路
 五味沢集落では、木材運搬をするため河川・水路を使っていた。木材運搬は、木地の木材と薪であった。木地は、上杉氏の奨励があり、江戸時代から始まった。昭和10年代までお椀の製作から塗りまで一貫し生産をしていた。伐採地は、針生平から角楢小屋付近であった。伐採地から沢を使い流し、水路を通して集落へ運ばれた後、各家庭で荒型作りをした。荒型が作り終わると水力式の轆轤で削られた。その後昭和30年代に電力式の轆轤に変わっていった。ちょうどそのころから木地椀の使用の減少並びに用材を集めることが困難化した。木地は、昭和30年代に終焉を迎えた。
 薪の運搬をする際は、組という共同組織で行われ、伐採は、すべての組で行った。組組織は、斎藤家・佐藤家・舟山家3軒が混ざりあった組分けがなされた。これら組は、薪流しだけではなく、ドウ場・冠婚葬祭などもこの組で行われた。薪の伐採地は、徳網集落奥の場所であった。伐採の後、11月まで棚積みして保管した。10月下旬になると薪流しの準備を行い、11月下旬に薪を集落まで流した。薪は、昭和30年代まで水運で集落まで運ばれ、その後トラックでの陸上運送へ変わっていった。薪の使用では、昭和45年度から囲炉裏から薪ストーブへ変わり始めた。昭和50年代にかけて燃料革命がおこり、薪から石油へと変わっていった。現在では、数軒のみが薪と石油ストーブを併用して使っているのみだ。

4、田んぼと水路
 五味沢集落は、44haの田んぼが広がっている。五味沢集落の基盤整備は、昭和47年から3年間で行われた。基盤整備以前は、個人の田んぼへは、個人の水路のみを使い畝越しに配水していた。基盤整備によって、規格化された田んぼへと変わり、灌漑用水である水路も三面コンクリートで舗装された。そして、田んぼへの取水は、1つの田んぼに1つの取水口が取りつけられていった。田んぼの技術では、昭和20年代まで水苗代を作り、水を豊富に使用していた。昭和20年代以降、保温折衷苗代が作られるようになった。保温折衷苗代が入った頃から、テーラーなどの農機具が導入されてきた。昭和60年代になると、パレット式保温折衷苗代へと移行し、乗用式田植え機に対応した苗代作りへと変容をしていった。

5、生活と水路
 五味沢集落では、沢水や水路から水を取水し、生活用水として使用をしてきた。取水した水は、トヨと呼ばれる樋をつたい、ミジャヤフネと呼ばれるシンクに水を溜め、流れている状態で使用されてきた。ミジャヤフネで使われた水は、各家にある沼に流れ、沼で飼われている鯉がゴミを食べ、浄化して水路へと戻された。
 五味沢集落に流れる沢、水路などには、様々な生き物が住み着き、それを獲り、食料としても利用がなされてきた。利用がなされてきた生き物は、タニシ、ドジョウ、コイ、イワナ、マスであった。
 集落では、ミジャヤフネや水路でワラビ・ウド・トチノミ・フキのアク抜き、山菜・マス・イワナ塩戻し、マメ・乾物山菜の水戻しなどを使ってきた。現在でも水路での山菜の塩戻しやアク抜きなどの利用が残されている。

6、結論
①水からつながる周辺環境と集落
 観察していく中で、五味沢集落での沢・水路に関する利用は、非常に多岐にわたっていたこと、そして生業と深くつながりを持っていた。これら事象を見ていくと、水を核にして循環しており、持続可能なシステムを持っていたことが見て取れる。つまり、集落にとって沢・水路は、生活をする上でなくてはならないものであり、生活の大動脈であった。そして里山・奥山との生活的交流・交通がなくては生活が成り立たなかった。沢・水路は、集落の中で完結するものではなく、周辺環境と深くつながりを持っていったと言えよう。
②変容した水利用と集落
 生活と深くつながっていた沢・水路は、社会システムが変化するにつれて、利用体系も大きな変化を遂げていった。社会システムは、自然環境にも影響を与え、その環境を変化させた。そして社会システム・自然環境の変化は、集落における水利用をも変えていった。沢・水路の利用は、少しずつ失われていき、生活とのつながりも希薄化していった。そして集落にとっての生活の大動脈であった沢・水路と関係は疎遠となり、沢・流水を通して集落と周辺環境と深いつながりも少なくなっていった。

(2010年度 歴史遺産学科最優秀賞作品)