展覧会後の「声」
2012/11/22
展覧会「記憶の声」は、「声」を発してもらうことをプロセスの第一歩としておりました。
展覧会終了後に集めたみなさんの「声」は、次のフェースに向けた第一歩ということで、
私たちはとても大事に思っています。
今、感想レポートや展評など、みなさんの「声」をじっくり受け止めているところです。
学芸員の授業では毎年、展評(展覧会レビュー)を課題に出しています。
展評とは、個人の感想文ではなく、批評する眼識をもち、自分なりの評価分析を伴うものを言います。
文芸学科でも「創作演習」という授業で、レビュー記事が課題として出されていました。
ここに、いくつかのレポートの抜粋を紹介したいと思います。
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このプロジェクトは、これまでの私の展覧会のイメージを覆すものだった。展示会場に足を踏み入れさえすれば、視覚的に入ってくる展示物から何らかが得られる、と以前の私は展覧会を受動的な鑑賞の場としてとらえていた。しかし今回は違った。壁や椅子に張られた無数のQRコードを見ても無機質で、読み取らなければ展覧会は始まらない。また、寝そべりながら声を聞く「記憶の風景」のエリアでは、ハンモックに乗って揺られるからこそ体感できるものがあった。鑑賞者が常に能動的でなければならない。さらに展示期間中は固定された空間としての会場ではなくなっていた。むしろ、時が流れ、人が集い、声が交わり集積されていく、という動的な空間となっていた。鑑賞者である学生をつなぐ役割を担う、coiceという学生スタッフがこのプロジェクトに多く関わっているという点においても、新しい展覧会であった。
(美術科1年)
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「声」そのものを展示する、というのはなかなかな珍しい例である。様々な博物館を訪れたが、現代芸術としての「声」(ジョン・ケージなど)や、歴史博物館における重要な証言の展示を除けば、前例をみないものであった。それだけに「声」を展示することの難しさは容易に想像でき、展示方法によっては鑑賞者にとっても難しい展示になるのでは、と訪れる前に考えていた。一体どのような展示がなされているのか、期待と興味を持って訪問した。
実際に展示室に着くと、驚いたことにエレベーターホールの照明が落ちていた(暗くなっていた)。そこには天井から吊るされたサビキ状の電球と、その下に椅子が置かれていた。音声が流れているが、東日本大震災の証言が多く流されている。ビジュアル的にも強い印象を与えたが、社会性をもつメッセージは、ドクメンタでみた現代芸術作品群を思い出させた。
(中略)本学関係者の「声」を録音して保存されたものに、様々な媒体を通じつながることができる今回の展示は、トークショーという「生の声」との対比が重なり、興味深いものとなった。3回訪れたトークショーはどれも中身は違っていた。保存されており個別に存在している不変の「声」と、目の前でリアルタイムに発生する「声」は、この展示の幅を広げる上で、重要なものだったに違いない。
(美術科2年)
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創作と鑑賞によって精神の充実体験を追求する文化活動、という定義の中にさまざまなアートが存在している。私たちはどのように文化活動を行っているのだろうか、人が芸術を通して行う活動自体に興味を持った。
椅子を使った屋外ワークショップに参加した際に感じた経験が、今回の展覧会の趣旨をつかむきっかけとなった。椅子に座るという普段きにかけない行為が、いつもと違う環境になった途端、私の記憶にインプットされた。紅葉が綺麗で少し肌寒い秋だったと。声に出して記憶を語らなければ創造されないもので、記憶は形のないまま自分の中に留まってしまう。交流という人間同士の活動によって、記憶は声となった形を成すのである。ワークショップを通じて行われたのは、まさにこの活動であって、いかに創造物を生み出す大事な活動かということを考える機会になった。
(美術史・文化財保存修復学科2年)
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大きな特徴が2つある少し変わった展覧会である。一つ目は「声」と「記憶」という形のないテーマを見せる展覧会である、ということだ。二つ目は、多彩なトークイベントと、7階の展示会場、屋外の広場での学生主体のワークショップやインスタレーション、この3つが展覧会の軸となっている点である。一般的な展覧会でもワークショップやトークイベントはよく行われるが、ここでは生の声を用いた展示として需要視され、ほぼ毎日行われていた。内容もスタンダードなトークスタイルから、詩の朗読や舞踊など幅広く、私は何回も会場に足を運び、そのたびに新しい発見があった。
(中略)詩の朗読の際に、生の声が発する「音」としての凄さを感じた。紙に印字された文字としての詩は抑揚もなく平坦だ。しかし山田先生と朗読ジャム(学生チュートリアル)の語りで声に出された詩は、リズムがあり、音としての振動があり、言葉の強さが伝わる立体的な表現だった。草野新平や宮沢賢治の詩を知っていたが、朗読を通じて、今まで感じたことのない豊かさを味わった。しかしここで感じた場の記憶を記録することはできない。朗読イベントが行われたことをアーカイブとして残すことはできても、私の個人的な感動は記録することができないものである。
「声」を再生可能な記録として残すことはできても、「記憶」は残すことができない。しかし「声」の記録を再生することで、「記憶」の引き出しは開くことができるのかもしれない。
(美術科3年)
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会場内を見渡すと、強く訴えてくる作品があった。「記憶の森」である。これは誰でも参加可能なインスタレーションで、2つの質問に対する回答を「言の葉」に書き、参加者自身が記憶の樹につけていくため、作品が日々変化し、何度訪れても興味深い。また、見えないもの(声)を参加者自身が可視化していく、というプロセスは本作の魅力のひとつといえる。狼に食いちぎられた小鹿の屍が姿を消した後、この「記憶の森」には再び平和が訪れ、今起きた悲劇や恐怖の記憶はやがて忘れられてしまうだろう。狼という災害と、その被害にあった小鹿、記憶の樹から芽生えたは散りゆく葉は、日本を震撼させた東日本大震災を彷彿とさせた。黒く塗られた変わらない事実と、白い葉に記された変わりゆく記憶で構成された世界。時の流れが如実に感じられた。
(美術史・文化財保存修復学科2年)
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展示を通じて感じることは、すべての空間はあくまで受容的であり、他者への訴えではない、ということだ。TwitterやSNSを通じて呟かれる何万という言葉も、目と目を合わせ、呼吸を感じながら紡がれる言葉も、等しく、存在の意思を証明している。それらは見るものを攻撃することもなく、何も考えずに聞き流してしまうような言葉かもしれない。しかし「生きている」ということが未来へ繋がってゆくための最も大切な手段なのだということを語っている。
震災という大きな困難を体験し、今の日本が向かうべき方向は攻撃ではなく、目の前の現実と、過去から引き延ばされてきた課題に向かってゆく姿勢なのだということを、人々の声を紡ぐことで、静かに表現している。国を動かす支配力を持つ者は一部の人間。しかし大声でマイクを使ってスピーチする政治家ではなく、小さく語りかけるようにつぶやく民衆ひとりひとりの声はその力となりうる。「記憶の声」の展示は、過去と向き合い、未来へ向かって生きようとする力を携えている。そしてその「声」は確かに明日を創る私たち一人ひとりの心の叫びなのだろう。
(文芸学科2年)
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被災者として一番悲しいことは事実を忘れること。忘れられてしまうこと。人にせよ、モノにせよ、悲しいことだけを忘れ、記憶を美化してしまうことで解決できる問題なのだろうか。実際、誰かに目を向けてもらい、何かを聞いてもらうこと、そして会話することは心の支えとなった。そのことに目を向けられたこと、この企画は多くの人が何かを感じる機会を秘めていると思う。
(中略)声を交わすということは日常の行為だが、ゆえに重要性、声の役割、というのを気にしていないだろう。それを気づく機会があった展示だった。人と人が話すのは、今の声を伝えることであるし、それを本館前広場の椅子のインスタレーションが実現させ、そこにある生の声を聞くことができる。声にもたくさん種類があって、それが持つ意味は異なる。実際に外の椅子に座り、たわいのない話をした。そして椅子の配置が変化することで、話す内容も変わっていく、という体験をし、展覧会の意図を実感することができた。
(美術史・文化財保存修復学科1年)
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ここに挙げたのはほんの一部に過ぎません。
参考意見もたくさんありました。
これらみなさんの「声」をしっかり受け止め、次の展開へ繋げていきたいと思います。
和田菜穂子(キュレーター)