舘山城下町の復元的考察 ─舘山城の空間における構造とその範囲について─

舘山城下町の復元的考察 ─舘山城の空間における構造とその範囲について─

須貝慎吾
[歴史遺産学科]

1.研究の目的
 本研究は、戦国期に建設された舘山城下町の具体的な構造と町の広がりを検討したものである。舘山城跡は、米沢城から西へ4kmの距離に位置し、戦国期において南東北地方を統治していた伊達氏との関連のある城館跡だ。
 これまでの舘山城は、伊達政宗の「天正日記」から舘山城に御舘(平城)と城下町が存在していたことが、想定されてきたが、文献による研究が主体であったため、具体的に伊達支配期(1548~1590年頃)の城下町の構造や町場の範囲は明らかにされてこなかった。そのため本研究では、歴史地理学と考古学の視点から、主として明治期の地籍図と地名、発掘成果や現地に残る遺構を検討し、舘山城下町の景観を復元していくことにした。

2.先行研究
 舘山城の先行研究としては、郷土史家の間で伊達支配期における舘山城の位置及び、米沢を本拠とした際に本城説であったといった事が論点となっていた。それらを文献史学的な視点から論述したのが中村忠雄氏と小林清治氏であり、「伊達冶家記録」を整理し舘山城は現在の山城とは別に平城が存在していたとし、本城は現在の「米沢城」と同位置にあったことが共に論証されている。
 最近の発掘成果及び上記で述べた研究成果をまとめたのが市教育委員の『舘山城発掘報告書』である。舘山城は、天正期には舘山において伊達氏の城館として「たて山御たて(舘山御舘)」=平城と「要害」(城山)=山城が存在し、併存している時期もあったことを明らかにし、さらに「たて山町(舘山町)」があったことも認められ町場も併せて舘山城と位置付けている(宮田2015)。これまでの舘山城研究史で断片的に表れていた舘山城の空間構成が具体的に整理されたと言えるだろう。
 しかし史料からでは具体的な舘山御舘と町場の位置関係及び範囲というのは判然せず、概してこれらの実態が掴めずにある。

3.研究方法
 織田信長が築いた、小牧城下町(愛知県小牧市)を復元した方法論(千田1993)を参考とし、城下町想定地区の地籍図119枚を法務局より入手し、トレース・合成を行い明治期の地割を復元した。
 地籍図は、明治30年(1897)に作られた公図で、図は小字単位で分けられており、この地籍図から得られる情報は、基本的に小字名と地目が記載され、地名から町場を推定する場合と、地割の区画線から町場や土塁跡を推定することが可能である。この地籍図から得られた情報をベースに、現地踏査を行って微地形を観察し、考古資料や空中写真に照らし合わせ舘山城下町の景観復元を行った。

4.地籍図による地割の検討
 近世絵図に描かれる舘山町よりも以北に延びる並松土手(惣構)を鑑みれば中世の町場が、上杉期の舘山町をそのまま踏襲しているとは考えにくく、更に北側に広がっていたという仮説を立て、地籍図から地割の検討を行った。
 街路を分け、東西路で確認できる(Ⅰ~Ⅳ)の街路を中心とした町割りは、絵図と小字名から、上杉期に整備された町場と位置付けた。伊達期の町場があったとされる、上杉期の町場よりも北側は、南北路(A~D)を基準に長方形街区が形成され、各街区に短冊形地割がまとまって両側町の形を呈していたことが地籍図から復元することができた。
 
 町場の範囲として、基本的にこの4本の街路を中心に伊達期の城下町の地割が確認でき、東西路で認められる近世の町割は、伊達期の町割の後に上杉氏が入り、整備したと考えられる。

5.遺構の検討
 舘山町の発掘成果として、試掘データも含め悉皆的に収集したが、長方形街区が認められた舘山町北側では、発掘調査は行われておらず、現在の舘山町中心部で14回の調査が行われていた。この発掘データが得られた地区は、舘山御舘(平城)があったとされる地で、近世には重臣の屋敷地があてられ方形の土地区画が認められる場所である。
 舘山御舘及び地籍図で確認した町場に対し、微地形を検討するためQuantum GISから、舘山町の航空レーザー測量の陰影図を取得し、3つの河岸段丘面を確認した。舘山御舘があったとされる場所が、最上部にあたり「一ノ坂」・「二ノ坂」といった地名が残る。
 この微地形を地籍図に写し、更に発掘調査区の遺構配置図に合わせたところ、濠跡が検出された位置は崖側の側面に意図的に延び、段丘最上部には井戸や建物跡があることから、屋敷地が少なからず存在していたことが認められた。また地籍図に微地形を写した検討から、北側の長方形街区は段丘最上部から北側に1段目と2段目の段丘上に築かれていることが微地形に現れ、その後の現地踏査も含め、段丘面の北端、木場川付近は微地形として土地標高が下がり、水田地帯となるため町場は認められないと判断した。

6.並松土手の考察
 惣構は戦国期における城下町では、城の本丸及び町場を包摂する、外郭ラインとなる防御施設で、舘山城下町の並松土手がそれにあたる。これを地籍図の地割を昭和22年と昭和51年の空中写真で土塁と水濠の遺構が映し出されている痕跡を読み取り、この位置を推定することにより舘山城の外郭を復元した。

7.研究結果
 伊達支配期における米沢舘山城の推定範囲としては、舘山城から並松土手まで東西1.4㎞あり、舘山御舘から北端の並松土手までが1.2㎞の範囲となった。町場の位置については、舘山御舘の段丘から下がった南北にかけて長方形街区が形成され、そして町場より高い段丘を利用し土塁及び水濠の惣構(並松土手)が防御を呈していた景観が想定できた。
 つまり舘山城は、山城とその周辺の北館からなる根小屋(家臣屋敷)と御舘(平城)を核として、北側に城下町が広がり、それを惣構えで囲むといった、小牧城下町にある織豊系城下町の空間構造がみえてくる結果となった。

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~森の語り~

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田屋ほたる
[美術科 洋画コース]

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stratum、作品13

stratum、作品13

三浦航
[美術科 彫刻コース]

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暦灯

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木村萌乃
[美術科総合美術コース]

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class×暮らす─公共のネットワークで開く住宅地─

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砂庭陽子
[建築・環境デザイン学科]

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拡散 diffusion

拡散 diffusion/h2>

田澤京子
[グラフィックデザイン学科]

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The Arche

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川田陽亮
[映像学科]

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殺陣教室サムライズム THE Lecture

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土田貴子
[企画構想学科]

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油彩画表面に発生した劣化生成物の分析と発生メカニズムの考察 —《村川家肖像画(仮)》《天華岩》《風景(仮)》を対象に—

油彩画表面に発生した劣化生成物の分析と発生メカニズムの考察 —《村川家肖像画(仮)》《天華岩》《風景(仮)》を対象に—

佐藤瑠璃
[美術史・文化財保存修復学科]

○緒言
 本研究は、《村川家肖像画(仮)》〔図1〕を中心に、高橋源吉作《天華岩》《風景(仮)》の油彩画三点に共通して見られた劣化生成物の自然科学的分析による同定と発生メカニズムの考察を目的とした。油彩画表面に発生した劣化生成物に関する研究は発展途上であり、作品によって発生物質や予想される原因物質は様々である。よって、発生物質の同定とともに、対象作品の特徴をふまえた発生原因の考察が必要と言える。

○蛍光X線分析(XRF)による使用顔料の推定
 作品の使用顔料を推定するため、XRFによる元素分析を行った。《村川家肖像画(仮)》では、画面全体から亜鉛(Zn)、カドミウム(Cd)の検出が多かった。したがって、劣化生成物の原因として、下地に使用された亜鉛を含むジンクホワイト(ZnO)が考えられる。しかし、カドミウムイエローが全体に使用されていると仮定すると、絵具に含まれる硫化カドミウム(CdS)及び硫化亜鉛(ZnS)が原因である可能性も示唆される。《天華岩》《風景(仮)》の二点は、全体から亜鉛が検出されたことから、地塗りに使用されたジンクホワイトが原因として考えられる。

○採取したサンプルの分析と同定結果
 採取困難だった《風景(仮)》を除き、《村川家肖像画(仮)》からは、色や形状の異なる劣化生成物4種類〔図2〜5〕、《天華岩》から1種類サンプルを採取した〔図6〕。また、先行研究で発生例の多かった、硫酸亜鉛7水和物(ZnSO4・7H2O)と硫酸亜鉛アンモニウム水和物((NH4)2Zn(SO4)2・nH2O)の試薬を標準試料として同様に分析を行った。分析方法と使用機材は、マイクロスコープ、XRF、エックス線回折(XRD)、走査型電子顕微鏡(SEM)、エネルギー分散型X線分光器(EDS)、フーリエ変換型赤外分光分析装置(FT-IR)である。

 各種分析の結果、《村川家肖像画(仮)》のサンプルは、それぞれ硫酸亜鉛7水和物、硫酸亜鉛1水和物、硫酸亜鉛アンモニウム6水和物の三種類である可能性が高く、《天華岩》のサンプルは硫酸亜鉛アンモニウム6水和物である可能性が示唆された。XRFおよびEDSより、採取したサンプルからはいずれも亜鉛と硫黄の検出が認められ、かつ、XRD及びFT-IRによって、標準試料の回折線及びスペクトルの比較を試みた結果、標準試料と近似した結果を得ることが出来たためである〔図7〜8〕。しかし、標準試料と比較してEDSによるナトリウム(Na)やマグネシウム(Mg)の検出、またFT-IRのピークが標準試料と完全に一致しているとは言えないため、同定物質以外にも検出されにくい状態で他の物質が混在している可能性がある。

○発生メカニズムの考察
 本研究で確認された硫酸亜鉛の水和物及び硫酸亜鉛アンモニウム6水和物を構成する亜鉛イオン、硫酸イオン、アンモニウムイオンの由来は、それぞれ先行研究と推定使用顔料から三作品ともに下地および地塗りに使用されたジンクホワイト、空気中の二酸化硫黄(SO2)、人の汗などが予想される。また、《村川家肖像画(仮)》に関しては、全体からカドミウムの検出があることから、カドミウムイエローに含まれるCdS及びZnSの可能性もある。いずれにしても、原因物質に関して想像の域は出ない。

 結晶の発生と結晶成長については、相対湿度変化による水分移動が作品内部で起こり、亜鉛イオンと硫酸イオンを含んだ水分が表面で水分を失うことで塩を析出させたと考える。しかし、作品内部を破損せず表面に付着するように発生している状況をふまえると、作品表面で溶解と再結晶が繰り返され成長した可能性がある。特に、硫酸亜鉛水和物は風解性(空気中で自己の結晶水を消失する性質)、硫酸亜鉛アンモニウム水和物は潮解性(空気中で自己の結晶水に融解する性質)を持ち、どちらも水に溶けやすい性質であるため、作品表面で結露などが発生することで溶解と再結晶が起こり易い。また、風解によって結晶水量の異なる塩の生成や、温湿度変化による潮解と再結晶が起こることが考えられる。

○おわりに
 本研究より、標準物質との比較から発生物質は硫酸亜鉛の水和物と硫酸亜鉛アンモニウム水和物であると同定できた。また、発生物質の持つ風解性と潮解性、水溶性から、表面での溶解と再結晶による結晶成長の促進を指摘できた。しかし、原因物質に関しては使用顔料などの内的要因と温湿度変化などの外的要因が考えられたが、解明には至らなかった。したがって、今後の展開として、ジンクホワイトの二酸化硫黄暴露試験や、機械的な温湿度変化による強制劣化実験、カドミウムイエローを用いた強制劣化実験など、細やかな再現実験を重ねることで、原因物質を解明していく必要がある。また、本研究や先行研究で同定された以外にも、複数の物質が混在して発生している可能性があるため、同用の事例において、引き続き自然科学的な分析がなされることを期待する。

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米代川流域、米沢盆地、信濃川流域における三脚石器の地域性と影響関係についての一考察

米代川流域、米沢盆地、信濃川流域における三脚石器の地域性と影響関係についての一考察

亀山絵莉香
[歴史遺産学科]

1.はじめに
 「三脚石器」とは、接地する三足の脚部を持つ立体的な打製・もしくは磨製石器のことで、脚部の先端を接地させるために下部に抉りを作り出していることがこの石器の大きな特徴である(図1・2)。出現時期は縄文時代前期から後晩期と幅広く、現在までに北海道から富山県まで日本海側を中心に多くの遺跡で出土が確認されている。その中でもまとまって多量に出土している地域が、秋田県の米代川流域、山形県の米沢盆地、新潟県の信濃川流域とされる(図3)。

2.研究目的
 三脚石器は近年の出土資料の増加により分布の傾向については明らかになりつつあるが、機能・用途、伝播をはじめ多方面において未だ解明されていないことが多い。本研究においては三脚石器の形態的特徴に着目して、各地域の資料を観察・分析し、それらのデータを比較することによって三脚石器の地域性を明らかにしたいと考える。さらに分析結果をもとに、周辺地域・遺跡の出土例等も踏まえながら地域間における三脚石器の相互交流・影響関係、その有無について一考察を加える。

3.分析方法
 分析対象とする遺跡は、三脚石器が多量に出土している秋田県の伊勢堂岱遺跡、山形県の窪平遺跡・成島遺跡・台ノ上遺跡、新潟県の清水上遺跡である。図4には分析対象遺跡のほか、参考とした遺跡の位置も記している(図4)。上記の遺跡を対象に以下の内容の分析を行なった。㈰法量(長幅、厚さ、重量)の計測・分布図作成・分析 ㈪各地域における使用石材の集成 ㈫自然面の部位と有無:各地域の三脚石器の素材の傾向を分析する。㈫形態分類:脚部の形状に焦点を置いた6形態の分類を作成。さらに各地域の三脚石器の形態的特徴には、技術的な面も反映されていると考え、技術面にも考慮した分析を行なう。

4.結果と今後の展望
 各地域の三脚石器資料は『三脚石器』と一括りにされていながらも、その様相は形態面・素材・技術的側面などあらゆる面において各地域の特色があらわれていることが分かった。また、それらの形態的特徴は素材選択が大きく関係している。各地域の特色があらわれている一例として、各地域の三脚石器の長幅分布図を図5〜7に示した。図5が米代川流域、図6が米沢盆地、図7が信濃川流域である。
 米沢盆地・信濃川流域間においては、縄文時代中期前葉から中葉に三脚石器を含む文化的交流があった可能性は大いに考えられる。今までは分布状況や同時期に隆盛期を迎えたということからその可能性が蓋然的に述べられてきたわけだが、今回その裏付けとなる事例を示すことが出来たと考える。今後の展望としては、今回具体的な根拠を以て論じることが出来なかった他の地域間における地域交流やその有無について更なる検討を加える必要があると考える。これらの地域間の影響関係や伝播などを想定する上では、出現した時期の幅が1つの問題となる。時期幅と時代背景を考慮しながら、それに対応した出土遺跡の情報を得る必要があり、伝播を想定するならば今後の三脚石器研究においては乗り越えていくべき重要な課題である。

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