歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-01-19

おばあちゃんと3姉妹-移住の思い出

1月6日

朝、市場で朝食。もち米おにぎりカオチーを買う。ラオスではナンプラーを塗って卵につけて焼くが、イサーンでは塩味が多いらしい。

 

K村

ラシー・サライという町に来た。コラート郊外にある焼き物町ダーン・クウィアンから技術が伝わって、土器作りが始まったとされるK村を訪ねるためである。陶器村から技術が伝わった土器というところが引っ掛かっていた。

 

田園地帯を走るとホンデンという紫小玉ねぎを満載しトラックが行きかう。トムヤムクンなどタイ料理のスープには欠かせない食材だ。シーサケット県はホンデンの一大産地で、畑には水撒きや収穫に忙しく働く人たちの姿があった。村の入り口のお宅で、娘と二人でホンデンの出荷作業をしているPさん(39歳)から話を聞く。K村は3つの集落合わせて約300世帯があり、うち10世帯で土器作りをしている。

Pさんは9人兄弟、4姉妹の末娘。娘たちはお母さんに習って全員ポターだった。11月~6月に土器作りをするが、ホンデン作りもほぼ同じ時期。80日~90日で収穫できるわ。いまやってるのは10月に植えたの。ホンデン作りが始まったのは10~15年前。現在では乾季の貴重な現金収入源となっている。

向かいの家では長女のKさん(56歳)がお母さんのSさん(81歳)と一緒に作業をしていた。Kさんによれば、5年前からホンデン作りがとても忙しくなり、それで土器作りをやめてしまった世帯が増えたという。3姉妹はここで土器作りをしているが、3女は結婚して他の村にいったので土器は作っていない。

Sさんは11歳の時(70年前)に3家族でここに来た。第2次大戦のあとのようだ。「ダーンクウィアンじゃないよ」「アンプー・ノンスーンのバン・ポッポウという村だよ」「2家族は帰ってしまったけどね」「母親はポターだったよ」「いきなり、ここに来たんじゃないよ。途中、ウトンポンピサイという町に住んだんだよ」「汽車に乗ってきたよ」「田んぼを探しにきたんだよ」「旦那は早くに死んじゃった(Mさんが15歳の時)」

 

3世帯に囲まれた空き地に野焼きをした跡がある。昨日焼いたモーナムをポットショップの主人がピックアップで取りに来ていた。お店の人と一生懸命積んでいたのは、次女のMさん(49歳)。水甕モーエンナム(モーナム)83個、1個40Bで売る。こんなにたくさん積めないのではと思っていたら、ポットショップのおやじはさすがに慣れたもの。土器の間に藁を挟みながら上手に全部積んでしまった。Mさんは週1ペースで野焼きし、1回30~40個焼くそうだ。旦那さんが薪集めや野焼きを手伝う。昔は俺がクエン(牛車)で3日ほどかけて売りに行ったんだよ。今は電話注文で、車で取りに来てくれるから楽だよ。

 Pさんの成形道具を計測し、叩き板や当て具の使い分けを教えてもらう。ここではチュア:粘土が2:1と前者が多い。耳を疑い、混合する際のバケツの分量を確認したが確かにチュアが多い。土器の断面もチュアだらけである。K村の土器作りは紛れもないコラート起源の技術であり、典型的なイサーンタイプだ。なのに,コラート近郊にある有名な陶器村ダーンクウィアンを引き合いに出してルーツと伝承するところが面白い。ただし、当のおばあちゃんは一言もダーンクウィアンと言っていないはず。

 

ポットショップのおやじ曰く、シーサケット県にはもう一つ土器作り村がある。カンタラロームのポンサイという村だ。K村から技術が伝わったって話だよ。昨シーズンは作ってたけど、今年はどうかな?

いかねばなるまい・・・・・

 

 

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