歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-02-03

お台場とレインボーブリッジ

幕末、黒船の来航以後、各地で戦争に備えて砲台場(略して「台場」)が作られた。江戸の町をまもるために作られたのが、東京湾、品川沖の台場である。フジテレビのある「お台場」に国史跡に指定された「第3台場(写真中央やや左)」と「第6台場(写真左:レインボ-ブリッジの手前)」の二つの台場が現存する。

当初11基が計画され、実際には5基が完成したが、開国によって不要となった。史跡以外の3基は戦後、船舶航路の妨げとして撤去(第2台場)されたり、埠頭整備の埋めたて地(第1・第5台場)となって見ることができない。

1997(H9)年に第1台場の一部が発掘され、海中に石垣を築く当時の最先端の土木技術を知ることができるようになった。

今回調査しているのは第5台場跡である。昭和37年に品川埠頭の用地となり上部を撤去し埋め戻された。嘉永7(1854)年1月~12月、幕府が発注した民間JVによる請負工事でわずか1年で築かれた。近世初期の天下普請だったら、これくらいは数カ月で作ってしまうから、1年を早いとみるか遅いとみるかは微妙だが、資材確保の準備期間もなく、海中に石垣台を築く工事だったことを考えると急ぎ働きだったことは疑いない。

石垣石は江戸初期と同じで、伊豆半島の安山岩がメインである。しかし、江戸城の石垣と比べると、材を選ばず結構いろんなものを持ってきている。刻印の付いた江戸初期の残石、海に転落し波浪浸食された石、大きな玉石、海岸から手当たり次第取ってきたという感じだ。突貫工事だった様子がうかがえる。ほかにも裏込め用の石材や、波浪による地盤浸食を防ぐために石垣の前面に大量の捨石を沈めている。そして、圧巻は多数の木杭を打ち込んだ基礎工事や木枠工法である。石垣の裏込め(裏栗石層)には粒度調整の豆砂利が充てんされていた。

近世に発達した水濠の石垣や川除(護岸)、港湾工事などにより蓄積された伝統技術のノウハウがベースになったものとみられるが、詳細はわからない。今後の調査と研究に期待したい。

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