歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-12-10

たかはた石鳥居調査完了!

12月8日。毎年、最後のまちあるきはうっすら雪化粧をした風景を見ながら歩く。

この日も明け方に降った雪が、里山の木々を軟らかく包んでいた。

 

今回はこれまで集めたデータの補足調査が中心だった。1年生から卒業生まで多彩な顔ぶれが揃った。これまで頑張ってきた4年生が締切りまで2週間足らずという卒論の追い込みで出られないのはしょうがない(そんな中、朝8時に参加する気満々で来た4年生がいた。あなたの心意気を忘れません!)。

 

 

私の班は唯一未調査だった市街地の新規鳥居を調べて回った。

2つの興味深い事例に接した。1つ目は個人宅で祀っていた稲荷神を家主が亡くなった後、町の鎮守とは別に近所の人たちが自分たちの神として祭祀を受け継いでいる例があった。2つ目はかつて地主の個人宅にあった鳥居と祠が、その土地が料亭に売却されたことを契機に移転し、それを町内の鎮守として祀っている例である。元は木製の明神系鳥居だったが、改築に際し、祭神に合わせ石製の神明鳥居に変わった。ちなみに石材は高畠石ではなく安価な外国産御影の加工品が用いられている。

神社や鳥居もこうやって社会の荒波にもまれ変遷していることがわかる。

 

 

かつて村々にあった八百万の神、請われて田舎に引っ越してきた神。逆に大きな神社には諸事情で合祀されるようになった神が集っている。人が作りだした神様ゆえか、そうやって人の都合で右往左往させられもしてきた。

神社とそこに集積する石碑の数々は、自然を畏れ、その恵みに感謝し、人と人のつながりを大切に生きてきた地域の信仰の証である。現代社会に暮らす私たちは先人たちが伝えてきたこの信仰と「装置」をどう受け止め次の世代に渡すのか。半年間、たかはたの石鳥居を歩きながらそんなことを考えてきた。

 

 

 

愛宕山神社の鳥居。手元の写真を見てみたらしばらくの間に随分姿をかえていた。

上:2009年

中:2011円震災後 貫が折れ額束落ちる。右の木鼻がトラックにぶつけられ破損脱落

下:現在 2012年に貫・木鼻が木材に

最下:愛宕山山頂の勝軍地蔵堂

 

 

 

 実は愛宕山鳥居のすぐそばにもうひとつ別の鳥居があったことは余り知られていない。

明和年間の銘を持つ薬師堂(羽山)の鳥居と同工品でKさんの庭に立つ諏訪神を祀る鳥居(八角柱で台輪も八角)だ。90度向きが異なり羽山の方を向いていたという。30年あまり前にここから現在地に移築された。おばあちゃんが現地で往時のことを語ってくれた。

 

 

 

この3年間のまちあるきの中で、そんな小さな変化をたくさん見、そして記録してきた。

静的な事象を記述するのではなく、変化するコトやモノが束になって、ストーリーとなってはじめて今の高畠らしさが描きだせるのだろう。途切れることのない地域の暮らしの歩みから醸し出される個性。移りゆく社会に翻弄されながらも土地に根付きひたむきに生きてきた人々の足跡をもう少し追いかけさせてもらおう。

 

 

 

 

 

 

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