歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2014-02-02

ハーナーディーの故郷をもとめて

早朝のバンコク・ドンムアン空港 

 

1月5日(日)

朝7:00、お気に入りのエアアジアでウボンラチャタニーに飛ぶ。キャビンアテンダントの制服がカジュアルなジーンズにかわっていた。

チェンマイからウボンまで一晩で約800㎞移動した。

 

9時前に空港で合流した1名と郊外のD村に行く。D村は2008年に集中調査した村でその後毎年通っている。当時40名余りいたポターは10数名に減ったがまだ活発に作る人がいる。まず、一番お世話になっているUさん家。長く具合の悪かったばあちゃん(78歳)がずいぶん元気になって土器作りを手伝っている。Uさん、去年までパァ・コム(丸口縁)しか作らなかったのに今年はパァ・ベン(平口縁)ばかり作っている。聞くと苦笑い…ええええっ!

以前鉄砲で鳥を撃ってたおやじ、今年は家の前の田にカスミ網を仕掛けていた。

 

 今年来た目的は、ハー・ナー・ディー(イサーンではハー・ティーディン・ディー)したポターの故郷をたどること。ハーナーディは良田探しとも訳されるように東北タイの農村の人々が良い土地(田)を探して、集団で移住を繰り返す習俗である。戦争が終わる前までは活発に行われていたという。彼らにとって「定住」は仮の姿なのだ。人口拡大社会、末娘が家を継ぎ「男は鍬を、女は米を持って旅をする」

 

 昨年、ラオスのサワンナケート南部で訪ねたP村のポター(3名いた最後のポターも数年前に引退)たちが50年ほど前、タイから移住してきた人だとわかった。そして彼女たちの故郷が私が通っているD村の隣村だと聞いて驚いた。

 P村の土器はサワンナケート周辺の器形や技術とは違っていて、タイのD村のモノに近かった。しかし、50年前にはD村にはない器形が取り入れられている。その疑問を解明したくて彼女たちの故地を訪ねた。

 Bさん(60歳)、Nさん(78歳)の写真を持ってSN村を訪ね歩くと、ほどなくNさんの親族が見つかった。60歳以上の人はまだ当時のことを記憶していた。先に行っていた親族を頼って10軒ぐらいが50年前にラオスに旅立ったと。いろいろ話を聞いて分かってきたのは、ハーナーディは決して行きっぱなしではないということ。行きつ戻りつする。いまでも農作業が忙しい時はラオスから親族の田の手伝いに来る人がいるそうだ。こちらの思い込みが思考の幅を狭くしていた。

 それからSY村で土器作りの取材をする。おばあちゃんたちの代はみんな土器を作っていたが、今ポターは5人ほどになった。「昔は土器を叩く音で昼寝ができないほどだったよ!」

静かに話を聞いていた小柄のTさん(80歳)はポターのカリスマ的存在。最近は体調が悪く寝込むことが多い。しかし、今でも注文に応じでカボチャ型のモー・ボクーを年10個は作る。集まってきたおばあちゃんたちから土器作りの歴史と技術をうかがう。むかしの振り売りの苦労や物々交換でゲットした品々の話で盛り上がる。多かったのは鶏や野菜、綿・・・・。Sさん(69歳)はガボームという蒸し米をさらす重厚な木製鉢を自慢そうに見せてくれた。水壷エンナム2個と換えたそうだ。ちょうど60年前の品である。エンナムは30年ほど前まで1個1Bというから、これはお買い得だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰りにD村で世話になっているSさんの家に立ち寄る。3人娘の長女が赤ちゃんを抱いていた。あれ結婚したのと聞くと、バンコクに行ってる次女の子どもだという。夫婦で出稼ぎに行き、子供を故郷に置いていくという働き方は珍しくない。高齢のポターが孫守りのために土器作りを休止するパターンである。

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