9月25日から9月28日にかけて2年生の歴史学資料演習で山形城三ノ丸調査を行いました。(東側)の紹介でもあったように昔の城郭絵図資料を頼りに当時の三ノ丸にあった城内への入り口である口と土塁、水濠が現在の何処にあったのか、班ごとに実際に歩いて目で確かめ検証していきます。山形城の三ノ丸は全国的にも広く、11つの口があったとされ、またそれぞれの口の近くには稲荷神社が設けてあり、それも調査の対象として巡りました。
現地調査では当時の土塁跡などの遺構も少なからず残っており、それらの寸法の計測を行いました。そうした情報は後々現在の地図におとす上でも非常に参考になるのです。また発見のひとつとして城から西の小田口付近の稲荷神社には当時の小田口を絵に描いたものが奉納されており、その発見で当時の口が桝形虎口であって神社の位置も城内にあるという推定もたてることができました。
それで絵図もよく確認すると他の口の形態は、ほとんどが桝形の口で、入口がコーナーを描きそれに土塁、水濠も曲がった造りになっている事に気が付きました。桝形虎口でも二ノ丸の口と同様に三ノ丸の口も「外桝形虎口」と「内桝形虎口」の両方の造りがあり、そういった観点にも今回の調査では視野に入れ考え、それに伴った道のカーブも現在の道から発見することができました。桝形虎口は当時の近世城郭では多くみられる造りであり山形城では、ほとんどの口にそれが採用されています。また外からは城内が見えないことから権威の象徴としての役割も兼ね備えていたとされ、それら広大な三ノ丸に廻っていた立派な防御施設であることが今回の調査で改めて実感し、調査で丸2日かけて三の丸一周したこともあり...たしかに奥羽最大の城と言われる由縁もわかる気がしました。
財部稲荷神社に奉納されていた、当時の小田口の風景と思われる絵図をトレースしたもの。
画像下の小田口は「外桝形虎口」で、左の北側、下条口と肴町口は「内桝形虎口」