12月29日
今日は男が土器を作るNB村でハイやモーウナムの成形を見た。
この村で伝統的な土器を作れる男性はもう2人しかいない。Gさん(53歳)とTさん(62歳)である。内戦中、男たちの多くが村から離れ、土器作りは衰退した。Gさんはこの村で生まれ、戦後、父から土器作りを習い19歳から仕事を始めた。若いころは何度も出稼ぎに行き来し、村を離れた。タイにも行ったさ。
いまは田んぼが終わったばかりで、家を建てたり、窯を掘っているので成形は始めた所。男性助手が回す回転台でハイを作っていた。粘土紐を20本ほど積んでから内外にコテをあてて水挽きする。
今焚いている窯があるというので案内してもらう。アリ塚の窯が2基あった。タイミング良く、閉塞間際の窯焚きを見ることができた。最後には太い丸太を押し込み、青草を詰めて閉塞する。チャン村では草は閉塞操作の時に熱いからだというが、ここではその水分が表面を黒くすることと関係するという。煙道は閉塞しないのはチャン村と同じだが、ここでは焚口は入念に密閉する。窯出しした製品をみるとやっぱりしっかり還元がかかり焼きしまっている。銀化したものよりも紫(~緑)がかったのがいいという。窯焚きは一晩あぶって、1日半焚く。一窯で大小クロック1,200個、20,000Bの収入。薪代は1,000B。
窯の設計・掘削の寸法は「身体尺」を使う。肘から指先までの前腕の長さソーク(45cm)が単位だ。窯づめ中の窯に入らせてもらって実測した数値をあわせてみるとピッタリ。
焼き締り具合の見方や火止めのタイミングは?接するように並べたハイが収縮する隙間をみる。火前は焚口からみるし、奥は煙道から覗き込む(炎を避けるための盾がある)。
昔は女性は窯の中に入れなかったよ。精霊が怒るから。いまは産業的になっているから大丈夫だよ。
ここでは人間の身体や自然知を駆使した伝統的な窯焚きがよく残っている。
午後はTさんの成形をみる。今年はまだお米が終わったばかりでまだ仕事を始めていない。Tさんは13歳から作り始め、15~33歳まで軍隊にいた。22歳で初婚、今は4人目の奥さん。急きょ回転台を設置し、昨年の粘土を使いデモをしてくれた。
野焼きする土器と窯焼きの陶器とでは粘土が違う。土器にはチュア(もみ殻と粘土を練って焼いたシャモット)を混ぜる。成形は紐積みで原形を作り、水挽きする。息子が粘土紐を用意し回転台を回す。強弱、留めるタイミング、二人の息がぴったり合わないといけない。夫婦であれ、親子であれ、そこには無言の会話がある。小さい頃、親父の夜なべ仕事を一緒にしていた時のことをふと思い出した。
この村は先に陶器を作っていたところに、後から土器が入ってきたらしい。定かでないがタイのほうから来た女性が持ち込んだという伝承がある。野焼きを見ることはできなかったが驚くべき方法だった。100個を横倒しにし、50個×2列、うなぎの寝床式に置き片側から焼く。樹皮と稲藁による覆い型野焼きである。まったく同じ方法は北タイのチェンライ近郊の村にあるというし、ベトナム南部にも似たような方式がある。
NB村の陶器はかつて、大型水甕ハイ・パクワンや醸造発酵食品用の狭口壷ハイ・ラオやハイ・プラデックなど、基本器種をすべて作っていたが、他産地のものやセメント製品に押され、現在は消費量の多いクロック専業にシフトしつつある。電動ロクロが入ってきたのは20年前、小物の時だけ使うようにしていると。
不思議なことに、現在は土器の水甕モーウナムがよく売れるそうだ。これは利用が一定量あるのに生産者が減ってきたため、ということもあるがそれだけでない。理由はあとで。
消費生活が大きく変動するなか、生産者は村の置かれた伝統や環境に応じて、それぞれ工夫しながら土器作りを営んでいる。多様な土器作り村のあり方を教えてくれた。