歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2014-01-15

真新しいフレンドシップブリッジ4を越える

12月21日 いよいよメコン川を越え、怒涛の北ラオス紀行が始まる。

 今月11日に開通したばかりのフレンドシップブリッジ4を渡る。近所の住民の話では、車の国境通過申請書に貼る印紙が郵便局でないと買えないらしい。今日は土曜日。郵便局は閉まっている。別の店でも買えるよという情報があったので朝から探すがどこも閉まっているか「ないよ」。まあ国境に行けはあるだろうとたかをくくって行ってみる。ところがイミグレーションの係官に聞くとないよ!もしや月曜日までここで待機か・・・・

 

 ボーダーで1時間ぐらい右往左往していたら、困った様子を見ていたドライバーがたまたま余分があるやるよ、と印紙をただでくれた(20B×10枚)。いつも国境を行き来しているドライバーらしい。困った時、必ず助けてくれる人がいる・・・。

 出国手続きを終えて、さあ出発とタイ側のイミグレーションを出たら同行のタイ人が宿に忘れ物をしてきたと。その旨告げると係官は即座に「じゃあ、行って来い」。車はUターンして30分後にまたボーダーにもどってきた。この辺の対応が臨機応変でありがたいのがこの国だ。

 

 橋の手前で車は右側通行に変わった。フレンドシップブリッジ4は中国とタイの援助ででき、イミグレーションの建物も中国の援助でできている。ダイヤモンドをかたどった立派な記念碑が建っていた。すでに供用されている1~3に関わったオーストラリアや日本、イタリアに比べ自己主張が強い。中国の南進にかける強い意欲が感じられるモニュメントだった。(どこだったか、日本の支援で建てられた小学校の小さな看板がひっくり返って放置されていた・・・)

 

 

 ラオスのイミグレーションを抜けたのが11:00。やはりここにも自転車で国境を越えてきたファランがいた。彼らはいったいどんな体力をしているのだろうか。

国境の町ファーサイで昼食をとり、180km先のルアンナムターを目指す。

 

 

途中食堂のおばさんから教えてもらった土器作り村(NT村)を訪ねる。中国から南下してきたタイルーたちの村だった。20年前に土器作りは廃れ、最後のポターは5年前に止めたという。回転台を使う格子叩きの平底モーナムが特徴的だ。Sさん(54歳)ら元ポターから話を聞いた。村の中に残っている土器も少なくなってきた。やがてそんな伝統があったことは忘れ去られるのだろう。

 

 

 ファーサイからルアンナムターまでの道路は雲南省・昆明から続くアジアハイウエー3号線。中国の援助でつくられた素晴らしい道路だ。アップダウンやカーブの連続だが、コンクリ打ちの側溝があり路盤がしっかりしているので穴ぼこはほとんどない。ただ山の中では時々崖から落下した大きな角礫が転がっているので危ない。2連式のフルトレーラーや大型コンテナを積んだトレーラーが時々のろのろと坂道を登っていく。これらを追い越しながらいけば時速70~80kmでは走れる。おそらくラオスでは最も整備された道路のひとつだろう。

途中、昆明発ルアンパバン行きの国際バスとすれ違う。ビエンチャン行きもあるそうだ。3日かけていく。通行する車の数は少ないが、「云」ではじまる中国雲南省ナンバーの車と何台もすれ違った。

 もともと点在していた山村の中を高速道路が突き抜けていくような感じだ。道端で無邪気に遊ぶ子供たちや路肩を延々と歩く薪運びの女性たちの姿が印象的だった。そして一番驚いたのは、山々の斜面が軒並みゴム林のプランテーションにかわっていたことだった。おそらく昔は多様な作物を移動しながら栽培する焼畑地だっただろう。10年前にルアンパバン県北部の村を訪ねた時は確かにそうだった。ゴムは6年ぐらいたつと収穫できるが、大半は収穫前の若木だった。

 その夜、中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムターに着いた。中国式のゲストハウスや食堂、カラオケ・・・・。ファランが多いせいか目立たなかったが、よく見ると中国資本の店だらけ。その傍らにはマンキャオやジンジャーなどの農産物、工芸品を売るアカ族の女性たち。ここはゴールデントライアングル。かつての麻薬覚せい剤の密造地帯だ。

 

 

 

 

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