歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-03-27

遷りゆく社会と土器作りの多様性によせて-技術・モノ・人

  女性が電動ろくろで植木鉢を挽く(CK村)

 3月10日(日)

朝、急きょ予定を変更。国境を越えてタイ・ナコンパノムに行くことに。相変わらず臨機応変というか、行き当たりばったりというか。

朝のFriend ship bridgeⅢはすいていた。ラオス側もタイ側もわずか10分で通過。ここはバスがないので橋の上を歩いて国境を越える人も少なくない。大勢がメコン川を眺めながら歩いている。車はラオスではシートベルトをしなくてもいいし、飲酒運転もとがめられない。しかし、タイに入るとそういうわけにはいかない。道もよくなるので、この橋一本でなんとなく気分が変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ナコンパノムから50km、シーソンクラムを目指す。目的のHP村に着いた。村入口の看板にオーン(水甕)やハイ(壷)の絵があり、さすが…と思い、聞き取りするが、焼き物の気配が感じられない。よく聞くと、ここはセメント製オーンがO-TOP(特産品)に指定されているが、焼き物は作っていないという。しかし、相当古い野焼きのオーンを使っており、パラーを漬けている見事な焼き締め陶器ハイ・パデックもあった。土器はサコンナコーン県のCK村産だとわかった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

早速、CK村を訪ねた。幹線国道22号AH15に面して窯を所有する一軒の工房があった。のぞいてみると、女性2人、男性2人がそれぞれ電動ロクロを回していた。聞いてみるとこの村はもともと女性の土器作り村(野焼き)だった。10年前に止めて、ロクロ成形、窯焼きに変わった。その時、女性たちはロクロ技術を習得して、ガターン(植木鉢)や伝統的なオーン、北タイスタイルのモーナム(水甕)といった売れ筋商品の生産にシフトしていったのである。胎土には土器で使用していた混和材チュアを用い、窯は使うがみな素焼きで赤い色をしている。あまたあった土器作り村が社会の変化とともに消えて行ったのに対し、CK村は新技術の導入と需要に見合う生産戦略で、生き延びた一つの例と言える。当時の経緯を聞きたいと思ったが、焼き締め陶器クロックを作っている村があるというので、先を急いだ。

 

途中、国道沿いでガイヤーン(焼き鳥)をたべる。隣のショップで涼んでいたら、店の女性が日本語で話しかけてきた。茨城県つくばに21年間住んでいて、日本人と結婚したが子供ができなかったので4年前に分かれて帰ってきたそうだ。いい思い出を語ってくれ、「日本はいいところね」と。つらいこともたくさんあっただろうに、救われた気がした。

 

タウテンという町に着き、大きな池を抜けるとP村があった。村の中を走ると何軒かの庭先に粘土が山のように積まれていた。ここは粘土採掘地(池)が近く材料コストが安いのが立地上のメリット。

 

 

 

 

 

 

 

 

ほとんどの工房は日曜日で仕事が休み。テレビの前でキックボクシングの試合に熱狂している(賭けているから…)。仕事中の1軒を訪ねる。男性が電動ロクロでクロックを作り、女性が石膏型ロクロで植木鉢を挽いていた。若干のヒアリングをし、改築中の窯づくりを見せてもらった。

いま窯は7か所あるがみな日干し煉瓦の地上式窯である。これは8年使った。昔はディン・ポーン(アリ塚)の窯だったよ。もうないけどね。

別の工房で話を聞くと、「森のお寺」の中に1基だけあるという。訪ねてみると、それは確かにお寺の境内にあった。「昔の窯」として保存しているようにみえた。ラオスでみた地下式穴窯に似ているが、煙道がやたら太い。この差はなんだろう?  

 

アリ塚窯の製品

この村は270軒中30軒で土器をつくる。古い回転台が朽ちて捨てられていた。昔は男2人がペアで手回しロクロを回す土器作りだったと。アリ塚の窯を使わなくなってもう14~15年はたつだろう。20年前まではハイ(壷)を中心に多様な焼き締め陶器を作っていたが、その後クロック(搗き鉢)中心に変化した。現在では植木鉢も作る。ラオス南部の10年前の変化がさらに10年早く起こっていた。

ラオスの焼き締め陶器生産地では、かつては農村の需要に応え、多種類の製品を作り、女性が作る土器と補完関係を保ちながら存在していたが、社会の変化を前にして、生産を止める産地があった一方で、燃料コストの低い窯構造を導入し、需要のみこめる特定器種に集約化することで存続した例がみられる。ルアンパバン・C村、タケークのNB村、アッタプーのTH村など。もちろん、タイでも同様の変化が起こっていた。北タイではムアングン、中部タイではコ・クレット、東北タイではダーン・クウィアンなど、外部からの職人・技術も受け入れ、そうやって一大焼き物生産地に成長した。

変貌する社会に翻弄されながらも、人々はさまざまな適応をみせて生きていく。変化の激しい社会に生きる村人たちの生きざまに教えらえることが多い。

 

アリ塚窯の前の池では女性たちが黙々と四手網漁を行っていた。

 

 

翌日、帰りの飛行機は黄色いくちばしのNOK-AIR。AIRーASIAもそうだが、LCCは離発着にも無駄がない。動き出したらあっという間に飛び立つし、着陸したらスピード出したまま、倒れんばかりの急カーブでターミナルに走る。

 

 

東南アジアはASEAN共同体の結束を強めつつある。2015年の経済共同体構築を期に、民間人もビザなしで自由に行き来できると盛り上がっている(写真:あちこちに加盟国の国旗が並ぶ)。さらにタイ高速鉄道(新幹線、2014着工)が5路線で計画され、中国昆明からラオス、イサーンを縦断して、バンコクへ向うルートができる。ますます人やお金が流動化し、怒涛のように中国資本や外来文化が入り込むだろう。タマサートやマイペンライの精神を持つひとびとが、これをどう受け入れ、拒絶し、したたかに生きていくのか。ラオス・タイ東北部の人たちの暮らしの変貌を伝統的な土器作り・利用者の目線から見つめていきたい。日本もあれから2年。震災後の社会の変化、変化しないもの、あれこれ考えながら家路についた。

 

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