歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-03-16

10年ぶりに甦ったNLCの土器作り

3月5日 ワンプラ(仏日)

ようやく熱い太陽が戻ってきた。今日はお正月に訪ねたNLC村。焼き締め陶器の村だったが、10年前に土器作りは途絶えてしまった。当時の製作者はもう2人しかいない。お願いして10年ぶりに土器を作ってもらった。 

製作者はBさん(63歳)とTさん(60歳)。Bさんは奥さんが、Tさんは兄の娘が回転台を回す。夫婦協業が基本のようだが、Tさんは長く師匠のHさんの補助をしており、それだけではなかったようだ。

 

事前に採掘し、用意した粘土で、エンナム、ハイパデック、ハイパソムの3点を作った。10年のブランク。その間1度も土に触っていないという。戸惑う場面もあったが、一連の成形プロセスを記録させてもらった。土が柔らかくて、エンナムは乾燥中に潰れてしまった。Tさんは強面の職人で、決して表情を変えない。どこからみても眼光鋭いパテト・ラオの戦士だ。さすがにこの時はプライドが傷ついたのか、粘土の乾燥状態を悔しがっていた。血が騒いだようだ。後から聞いた話だが、Tさん、来年土器作りを復活したいと言ってたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

お昼、村の食堂でフォーをたべていると、おばちゃんが店の前のブッドン産モーナムからおいしそうに水を飲んでいた。店の中には冷蔵庫もあり、ボトルの水も買っている。20ℓ=45,000kip(500円)だ。「どうして良く冷えた冷蔵庫の水を飲まないの?」「タマサートだからよ」タマサートとは自然と共にあろうとする生き方でラオス人の規範意識にもなっている。お客さんにはボトルで買った水を出すが、自分たちは井戸水を土器に入れて飲んでいる。ビンに漬けたパラー(小魚に塩や糠などを加えて発酵させた魚醤、半年ほど漬ける)。うまそうだが、日本人はやめたほうがいい、とタイ人に言われる。それは4年前、実証済み。2日間吐き気が止まらなかった。なんでそん時言ってくれなかったの・・・・オーさん!

 

 

 

 

 

 

 

 

午後からTさんの案内で15~20年前の窯跡、粘土採掘場を歩いた。窯場は村から2km離れており、この付近に20箇所の窯跡がある。窯は共同で使い、1~2年、長くて3年で作り変える。覆い屋がないアリ塚の窯は雨季に水が入るのと、天井が落ちやすいのだそうだ。順次築窯で2基併存することもある。直立煙道の地下式窖窯である。ブッシュをかきわけ、5基の窯跡を見て回った。2基並列が2か所、すべて天井は落ちていたが煙道は残っていた。

土器作りは乾季の副業(ラオス暦1~5月)であり、その間、窯場近くに立てられた工房住居トゥーで夫婦が生活する。最盛期は10世帯ぐらいがここで土器を作っていた。歩くと森の中に工房跡があり、朽ちた回転台やエンナムの破片が散らばっている。

う~ん。これ窯業遺跡じゃないの・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

実は別の場所に、天井が残った窯跡が1つだけあるという。10年前、廃業直前まで使っていた窯だ。職人3人が10日かけて掘った。まだ記憶に新しい。

森を開発して作った田んぼの中に大きなマンゴーの木があり、その根元に開口した窯が1つあった。焚口と煙道から土砂が流れ込み燃焼部や床面はすべて埋まっていたが、天井は表面が剥落し、ヒビが入りつつもなんとか残っており、原形を窺うことができた。

この窯跡をみて黙ってはいられない。むずむずと血が騒ぐ。明日の作業は決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 帰りがけにTさんがマンゴーの小枝から小さな実のついた房をとってくれた。青臭いがしっかりマンゴーの味がする。額に滲む汗をふきながら、齧ってみるとさっぱりした味わいだった。

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