バン・ブットーン
午後3時を回ってようやく探し当てた村。集落に入るが人が少ない。中心部に行くとようやく人だかりが。それにしても賑やかで、ただ事でないことはすぐわかった。柵に囲まれた敷地の中は盛大なお祭りが。男たちは牛を腑わけしている最中。酒がふるまわれて、ごちそうが並んでいる。村の若者の結婚式だった。3日間にわたって行われ、今日は初日、まだ婿さんはこの場にはいない。
突然の異邦人に気を悪くされるのではと心配しつつ、村長さんに理由を話すと、大事な場を離れ、取材に協力してくれた。4人がそれぞれ村の歴史や生業暦、土器作り技術を分担して聞いた。
村は82軒、男312名、女235名と村長は即座に答えた。ブットーンは塩が特産品ということで塩田に行こうと誘ってくれた。塩田は村はずれの田んぼの中にあり、30軒ぐらいが1月〜4月にかけて掘っている。農閑期労働の土器作りと塩作りはシーズンが重なる。塩作りの工程や方法は興味深かった。竹かごに入った塩5kgが15,000kip(約150円)。
今日は結婚式でもあり土器作りをしている人はほとんどいない。土器作りの道具や器種を確認し、本調査に備えることとした。幸い、野焼き、コンロ作りをみることができた。
塩田から帰ってくると、飲めや歌えの大宴会。自前で蒸留した強烈なラオ・ラーオをコップで交換しながら、地元の料理を味わった。日が落ち辺りが暗くなって、名残惜しく村の人たちと別れた。
温かい気候のせいか、大みそか独特のそわそわした気分を全く感じない。
朝7時、トラックの荷台に乗ってホテルを出発、国境の町ムクダハーンを目指す。陸路での国境越えは始めてでわくわくする。途中、スピード違反で捕まる。大型バスも帰省ですし詰めの車もどんどんつかまえる。走っている車は一網打尽という感じ。その場で200B(約600円)払ってハイさよなら。運転者は点数が累積するわけでもないのでアンラッキーとしかいいようがない。
国境はそれなりに賑わっていた。最近日本の援助でできたフレンドシップ・ブリッジ2(1は首都ビエンチャンの南)でメコン川を渡る。橋の手前にあるタイ側のイミグレーション(出入国審査)を通過し、バスでラオスに入る。
ラオスは農業国で東南アジアでも一番貧しい国といわれる。その分ゆったりした伝統的な暮らしが今も息づいている。ラオスの空気や環境、時間の流れに安らぎを感じるのはそのせいだろう。イミグレの警備もゆるく審査官もにこにこしてやさしい。ラオスにきたなという実感がわく。
国境の町、サワンナケートに入り、ホテルを探す。コテージ風のシックなホテルを選び、土器作り村への車と運転手を探す。町はベトナム系の人が多く、建物や店は中国系がめだつ。
村の名前をたよりに、目的地を探す。周辺の景観はイサーンに近いが、地形に起伏があり水田区画は小さい。基本的には天水田の1期作だが、灌漑できるところでは今、苗代を作っており、早いところでは田植が行われていた。田の中にはたくさん木があり、畦は細い。畦に木を植えるウボンあたりとは違う。
道の悪さはラオスならでは。国道から一歩入ると凸凹の悪路、橋は鋼材を組み鉄板をはったもの。木の橋も少なくない。車は飛ばそうにも飛ばせない。それは悪路のせいもあるが、時々道端にいる牛・ヤギ、鶏や犬が横断するせいでもある。クラクションを鳴らしてもゆっくり、ゆっくりで、急ブレーキをかけても間に合わないと・・・・・グシャ・・・。牛は車がやられるのでさすがに気をつけてやり過ごす。
今日は午前中はじめてのOFF。ウボン郊外にある鉄器時代初期バン・カン・ルアン遺跡を見に行く。3mほどの深さに調査時のまま甕棺などが露出展示され、臨場感いっぱい。国立博物館に行くがお休み。朝から暑い日で、しばらく昼寝をした。午後2時から村にいく。
今日は、プアンさん、シラーさん、ジャンタさん、ワナさん4姉妹と一緒の食事会だ。タイでは伝統的に男性が女性のところに婿に入る。だから、姉妹の各家庭は近所に集まっている。ここでも4軒が仲良く暮らしている。男は外から来たせいかどこでも肩身が狭そうに見える。
イサーン(タイ東北部)の田舎料理をふるまってくれた。蒸したもち米が主食。8月に収穫して保存(蒸して袋にいれておく)しておいたタケノコをメインとした料理。トウガラシ、炒めたにんにく、プラー(小魚を漬けたもの)、マクサンで作ったナンプリック(タイ料理には欠かせない辛子味噌)。イサーンでは「ジャオ」という。田圃の池でとれたなまずのような魚のスープ煮(レモングラスやジンジャーがきいている)、そしてみんなが一番好きなソムタム・ラオ(青パパイヤのサラダで蟹入り)。トウガラシがたくさん入っていてとびっきり辛い。などなど。そして、田圃でみんながとる蟹(プラー)はタケノコ料理にもはいっている。田んぼでとったおけらのような虫を炒めたもの。カエルとコガネムシは出てこなかった。
次女のシラーさんには3人の娘がいる。長女ガイと次女コイはバンコクで働いており、いまお正月で里帰りしている。3女クンは17歳でまだ高校生。村にいる。末娘が家を継ぎ、お母さんと暮らすのが一般的だ。ちなみにタイでは正式なニックネームをもっておりこれで呼び合う。
村の中には、人と同じくらいたくさんの犬がいる。飼い犬もいれば野犬もいて、まったくよくわからない。人と牛と鶏と犬がいい具合にからみながら生活している。シラー家では、米袋の上をねぐらにしているミン(足の裏でかゆい目をかく特技をもっている)、顔がよく見えないチョクン、甘えん坊で何事にも動じないルーという3匹の犬がいる。
夕食の後に記念写真を撮って村を後にした。
朝5時20分、黄色のポロシャツ(月曜日は王様の誕生色―黄色を着る日)を着て宿を出た。外はまだ真っ暗。6時に村につくと、ようやく空が白んできた。
長い一日のはじまりだった。
ポター(土器つくりの女性)の朝は早い。着くなり、4人がアシスタントとともに村に散った。Nさんの家をたずねると待ってましたとばかりに粘土を踏み出す(一晩水浸けした生粘土にシャモットを混ぜる)。
それから、夕方6時過ぎまで、一人のポターに一日つきっ切りだった。ポターが休憩したのはわずか20分ほど。こっちはその間も道具の実測があるので忙しい。いいとこ見せようと張り切ってくれているのかもしれないが、重労働である。とはいえ、通りかかった人と大声で話しながら愉しそうに仕事をする。正月でバンコクから帰ってきた息子たちと話をしたり、時折現われては奥さんの仕事の手伝いをしていく夫と会話する。こっちもつられて暑いなか一滴の水も飲まず、トイレに行くのも忘れていた。朝ごはんと昼ごはんはタイ式の弁当を買ってもらい、5分たらずで食べ干した。おやつはだんなさんが差し入れてくれたマンゴーとみかん(家の前を通ったみかん売りをつかまえて水甕1個と3kgのみかんを交換)。
奥さんは20個の土器を素地作りから高台付けまで一日でやってしまう。熱帯モンスーンのタイならではだ。
朝から晩まで4器種20点の土器づくりをじっくり観察、記録した。昨日までの生業調査もスリリングだったが、やはり本命の土器作りには嬉々としてしまうわが性(さが)を改めて顧みることができた。
明日は土器調理の調査だ。そして明後日からはラオスへ。
またどんな出会いがあるのかわくわくしてしまう。
村にいるといろんな食べ物をすすめられます。
今はつらい稲刈りが終わり、日本でいう秋休みの時期。でも家族で過ごす正月のごちそうに欠かせない食材集めの忙しい時期にもなっている。
田んぼでは掘り棒をもったお母さんたちが、一生懸命カニや蛙をとっている。田んぼに放牧している牛のふんの下には大きな食糞性のコガネ虫がいる。ため池には牛ガエルがいるし、魚もいる。マンゴーの木には赤アリの巣がある。おいしそうな卵が採れる。みんなが思い思いに食材を集めている。
おばあちゃんたちは口を真っ赤にしてビンロウを噛んでいる。味見してみたけど苦くて酸っぱい、なんとも言えない味。「医者から止めろと言われてるんだけど、止められないんだよね」とルー・シィーソム婆さん。
余談だが、各家庭ではよく赤貝を蒸して食べる。なぜわざわざ買ってまでそんなに食べるのかと不思議に思っていた。縄文土器のように、赤貝の貝殻でふたに文様を描くポターもいる。
実はビンロウと関係あることが後でわかった。赤貝の殻を七輪の炭火で焼いて、これを水につける。そうすると溶けて白いペーストが出来る。ビンロウは葉に身を包みこのペースト(市販されてもいる)を塗ってかむのである。
この数日、村の内外を歩いて12月の生業を教えてもらっている。稲刈りが終わった水田では女性や子供たちが食糧の採集活動をしている。お父さんたちは、藁を運んだり、畦に植えた炭や野焼きの材料を伐採していた。
タイのイサーン(東北部)・ウボンラチャターニーという町に来ています。
タイは今は乾季。なかでも12月から1月は1年で一番涼しい季節です。とはいえ、日中は30℃を超えるのですが、昨日今日は朝晩、肌寒く感じる天気です。現地の人は寒い寒いと長そでを着ています。そして昨日はなんと小雨が降りました。12月の雨はめったにないことだそうです。
小学校では運動会が終わりました。各学校の子供たちはピックアップの荷台にすしづめで帰っていきます。最後に歩いて帰るのは一番近い、サオトン・ヤイ(大)小学校の子どもたち。田んぼの畦を歩いて2kmの道のり。サオトン・ノイ(小)は、ドンチックの人たちが粘土を掘りに行くところです。
私たちはピックアップトラックの荷台に乗って、村まで片道45分。さすがにこの二日間は寒さに震えました。
午前中は村歩きをした。家の周囲は樹木や竹で囲まれ、無造作にレモングラスが生えている。マンゴー、パパイヤ、ココナッツを筆頭にビンロウ、カティン、パンヤなどなど、生活に有用な植物に満ち溢れている。菜園にはたくさんの野菜が植えられている。ペットポーンさんの庭(写真)では14種もの野菜等が整然と植えられている。村一几帳面で土器作りもうまいと評判のお母さん。さすが畑も性格がよく出ている。
午後からチュンポーン先生(県教委のえらいさん)がウボンの焼き物村を案内してくれた。ウボンを流れるムーンリバー(東に流れメコン川に合流)流域には良質の粘土が産出し、河川に沿って焼き物の産地がある。フアイバンノンはロクロと穴窯で植木鉢などを作っている。この村の家の塀にはクロック(ソムタム作りに欠かせないすり鉢)を積み上げたものがある。焼き物産地ならではの景観だ。ターコンレックは昔は野焼きの土器作り村(かつて土器を作った婆さんが3〜4人いる)だったが、今は型で七輪を作っている。籾殻で七輪を野焼きしている(写真)。籾殻で七輪を焼くのはラオスでも見ることができた。
夕食はオープンテラスのレストランでタイ料理。以前訪ねたスコータイの村で作っていた土鍋が使われている。下には七輪が置かれ、炭を燃料としている。実は炭は火が強く土鍋と相性が悪い。村でも今、調理にはアルミなべと炭が普及し、土器は水甕や祭事用(寺のタンブン)、消し炭入れなどの用途に限定されてしまった。
朝、雨がぱらつくという珍しい日に遭遇した。こんな日はお母さんたちはあまり土器を作らない。土器作りにとって重要な「乾燥」が思うようにいかないからだ。こっちはおかげでゆっくり村の中を歩くことができた。
まだ夜が明けない朝6:00にドンムアン空港を発つ。機内から日の出をみてほどなくウボンの空港に着く。早朝7:00というのにVIPが乗っていたらしく、大勢があつまり出迎えのセレモニー。先発隊と合流し、朝食を食べて村に向かう。食堂の前ではとぼけた犬が出迎えてくれた(下の写真)。
ドンチックはウボンの北約40kmあまりにある180戸の村。タイではたいがいの村に寺と小学校があり、ここも例外ではない。ドンチック小学校からは賑やかな歓声が聞こえてくる。今日から3日間、周辺の9つの学校があつまり連合運動会を開催中。
今日は村の全体像を把握するために一日ぶらぶら歩きまわることにした。土器作りはまだ本格的ではない。つらくて長い稲刈り、脱穀などの農繁期が終わり、休養の時期なのだ。土器作りが本格化するのは1月から。
とはいえ、早い人はもう土器作りを始めていた。詳しく観察したい衝動を抑えながら村のあちこちを見て回った。土器作りや野焼きは昨年行ったマハサラカム県モー村と共通する部分が多い。
村の回りは田んぼ。田の中や畦には木がたくさん植えられている。ラオスやイサーンの田はこの木の落ち葉や放牧している牛の糞が有機肥料となる。またここでは畦が極端に広く、その上にはユーカリやゲーなどの木がたくさん植えてある。そして畦上にはあちこちに炭窯が作られている。萌芽再生能力の高い木を植えて炭材や土器燃料とし、持続的資源利用をはかるのである。
今日は睡眠不足だったがあっという間に1日が過ぎた。夕食を済ませた後、町の中心部にある屋台街にいった。そこで地元の看護学校の学生たちにあった。ジャージの背中のプリントが気に入ったといったら嬉しそうに写真におさまってくれた。
田圃の中の老木はずいぶん減ってしまい、見通しがよくなった。それでも畦には燃料となる木々が植えられ、持続的な木材の資源利用が図られている。牛は刈り終わった稲わら、ひこばえの青草をたべ、糞を田に落とす。乾いて見える田土のなかにはカエルやカニやネズミ、コガネムシ、おけらなどたくさんの生き物がいる。田の一角を深く掘り込んで作ったため池には魚や貝がいて、スイレンなども生えている。自分の田でとるもの、どこでとってもいいもの、用益権はそれとなく決まっている。乱獲することはない。
24日、成田発のタイ航空バンコク便はすいていた。12月初めに起こったバンコクの暴動、空港占拠の影響がまだ尾を引いているようだ。予定より早く成田のカウンターに着いたら自分の乗る飛行機の1時間前の便があいているからと変更を勧められた。おかげでバンコクでは観光する時間ができた。これまでバンコクは5回ほどいったが、実は観光は一度もしたことがなかった。
地下鉄でファランポーン駅まで出て、トゥクトゥクで王宮・ワットプラケーオをみにいった。排ガスとカーチェイスの様な走りは相変わらずである。行ってみると王宮は15:30までとのことで、明日また来いという。しかし、あしたはないので、警備兵に頼んでみるとあっさり門の中まで入れて
くれた。奥まではいけなかったが満足して帰ることにした。
路上の夜店でにぎわう周辺を散策、屋台で飯を食べ、ライトアップされたワットプラケーオを見てホテルへの帰路についた。
地下鉄ホイクワン駅を降りて、混雑する道路を渡ろうとしたとき事件が起こった。バンコクの道路を渡るのはかなりしんどい。猛スピードの車とバイクの波を乗り切るのはタイミングが勝負だ。中国で覚えたのは現地の人が渡るのを盾にして自分も渡るという方法である。
片側3車線の道をもう2、3歩で渡り切ると思った瞬間、自分が盾にしていた人が、突進してきたバイクにはねられた。人とバイクが一瞬のうちに飛んでいった。しばらく現場で凍りついてしまった。恐るべしバンコク。正月3が日タイでは交通事故で300人死んだそうな。