こんにちは、歴史遺産準備室です。
今回は2年生の授業である考古学応用演習2をご紹介します。以前の記事にも書きましたが、この演習では9月に発掘が行われた飛島蕨山遺跡の出土遺物を整理しています。
今日は洗浄と注記が行われていました。
・洗浄
出土した遺物に付着した土などを洗い落とす作業。これが終わらないと注記や実測ができません。土器などは水分を含むと壊れてしまうこともあるので、注意が必要です。
先週までは2年生全員でこの作業を行っていましたが、今日は先生と上級生だけで作業をしていました。
・注記
出土した遺物に遺跡の名前や日付、出土した地点などを記録します。この作業で気をつけなければならないのは注記を書く場所。土器だったら裏面、石だったら加工痕がない所など遺物に残された痕跡の上に書かないようにしなければなりません。
注記については以前の記事でも触れているので、興味がある方はご覧ください。
本日の演習のメインは注記。
2年生と飛島の発掘に参加した考古学ゼミの上級生で作業をしていました。注記がある程度進んだら遺物の実測も始まるそうです。
考古学に関して門外漢なためこれ以上、内容に踏み込んだ作業の説明はできませんが、その代わりに写真にて演習の様子をご紹介します。
今日のチュートリは、土器作りの後、来週やる炊飯調理の実験について口から泡を飛ばしながら熱く議論しました。ぼんやりしていた実験の目的と方法がだいぶクリアになってきました。
自分たちで情報を集め、考え、企画する。そして実行してみる。さらに計画を検証し、フォローアップしていく。卒論、就活にも通じる作業です。
1年でだいぶ成長しました。来週の野焼き場が楽しみです。
ある日、文化財保存修復センターの歴史遺産研究室を覗くと、1人の学生が何やら作業をしていました。
近づいてみると、出土した土器片に小さく文字を書いているようでした。
この作業は注記といって、出土した遺物に遺跡の名前や日付、出土した地点などを記します。
注記をしておくと、出土した土器片を合わせて接合した場合でも、個々の破片が遺跡のどの地点から出土したのか一目瞭然。また、他の遺跡から出土した遺物に混ざってしまっても注記を見ればどこで出土したものなのかわかります。
遺跡からは膨大な量の遺物が出土します。その一つ一つに注記をしていく作業は時間も人手もかかります。そのため、埋蔵文化財センターなどの大きな施設では自動で注記する機械を使用している場合もあります。
考古学=発掘というイメージを持っている方も多いと思いますが、実際は出土遺物の整理作業や報告書作成など室内で行う作業も多くあります。
現在、考古学応用演習2では9月に発掘が行われた飛島蕨山遺跡の出土遺物を整理中。注記の他にも洗浄や実測などの作業が行われているそうなので、次回はその様子をご紹介したいと思います。
こんにちわ、お久しぶりです、あべちゃんです。
10月22日から23日まで秋田県にススコゲ調査に行ってまいりました。今回のメンバーは北野先生、4年生の神先輩、アンジー先輩、2年生のしし座の女、ともぞう、むらっちゃん、私の7人です。ススコゲ調査フルメンバーです。
朝8時30分に大学に集合し、やはり異様なテンションで4時間ほど車に揺られ、秋田県秋田市にある秋田城跡調査事務所へ到着しました!今回ススコゲを調査したのは、後城(うしろじょう)遺跡から出土した土器です。この遺跡は8世紀前期から9世紀前期の遺跡です。調査事務所のI藤さんにご挨拶した後、さっそくにらめっこ開始です!
今回観察した土器たちは火災などの二次被熱を受けており、どれが調理時についたススコゲなのか判断するのがとても大変でした。個人的に、私は7月の調査以来3ヶ月弱のブランクがありましたので・・・。はい、精進します。しし座の女はもう3回場数を踏んでいますので、腕が以前よりも上がっていました、さすがです。しし座の女だけでなく、2年生の面々は徐々にススコゲ調査のレベルが上がってきているようです。・・・しかしまだまだですね、やはり!めざせススコゲマスター!!!!
初日は5時30分まで作業しまして、秋田といえばきりたんぽ!ということできりたんぽ(&しょっつる鍋)を食べに行きました。本場のきりたんぽは違いますね、うまい!!!調査によりススコゲーズ・ハイに入った2年生は、お店で出てきた土鍋のススコゲを観察し始めました。おそるべし、ススコゲーズ・ハイ。
2日目、調査事務所にいったら驚きの出会いが!!!駐車場の端っこでカモシカさんが草をはんでいるではないですか!!!!一気にテンションが上がった私たちはカモシカさんをパシャパシャ。近づいていっても逃げていきません。I藤さんのよると事務所の周辺はカモシカさんのお散歩コースになっているらしいです。人なれしたカモシカさんだったんですね。帰りにも別のカモシカが駐車場にいました。
一気にススコゲーズ・ハイならぬカモシカーズ・ハイになった私たちは残りの土器をなめるように観察し、突然被熱に関する議論を始め、二次被熱と格闘しながら作業を進めました。被熱、火熱、比熱、ヒネツ、ひねつ・・・奥が深いです。
秋田なのに長崎ちゃんぽんというお昼を食べた後、秋田城跡の近くにある収蔵庫(展示室)で展示品を3点ほど土器を観察しました。そしてI藤さんの案内の下、秋田城跡を見学してきました。
秋田城というと近世のお城を想像する方がいらっしゃるかもしれませんが、今回行った秋田城は古代のお城です。ここからは驚きのものが発見されました。水洗トイレです。古代の水洗トイレです!!!!(大興奮)奈良時代の後半のものだそうです。秋田城遺跡のようなトイレ遺構はほかでは発見されていないそうです。都になかったかもしれないものが、秋田にある。秋田、古代はすごいところだったのかもしれませんね。
秋田城跡の中で、地元の子どもたちが遊んでいました。地元の人の生活の中に、遺跡が自然と入り込んでいました。子供たちは、遺跡がどんなものかまだわからないかもしれませんが、遊んだことを成長してからふと思い出し、遺跡のことを考えてくれるきっかけになったらいいですね。遊んでいる姿を見ながらそんなことを考えていました。
I藤さんとお別れした後、一同は山形へ向かいました。途中で横手焼きそばを食べ、またまた異様なテンションで車に揺られて帰宅しました。しし座の女・・・どんまい。
ススコゲについてだけでなく、遺跡整備についても勉強になった2日間でした。成長・・・できたでしょうか。次はどこにススコゲを観察に行くのでしょうか!
以上、長くなりましたがあべちゃんがお送りしました。
久しぶりに野焼き場に活気が戻りました。
絶好の野焼き日和。「弥生飯プロジェクト」の予備実験を行いました。
精白したうるち米と玄米をそれぞれ土器で調理。精白米は吹きこぼれを待ってゆっくり蒸らしへ。ちょっと水分が多めでしたが、上から下まで均一に炊き上げました。土鍋炊飯もだいぶ上手になりました。側面加熱(蒸らし)のコゲが形成されるためにはもっと強火の蒸らしが必要だと分かりました。
玄米は沸騰しても煮汁が吹きあがらず、水分がなくなったところで再注水して炊き上げる(とあるHPで玄米の炊き方を紹介していた)と香ばしくおいしくできあがりました。手食するのにいい炊きあがりです。弥生時代に2度炊きしたとは思えませんが、精米度の低いコメの炊き方にヒントが見つかりました。来週からの本実験の条件設定に参考にしていきます。
カマドではもち米(紫米)の蒸し調理をしました。蒸し器はタイのファット。すぐれモノです。土製甑のように蒸気が下からくるだけでなく、竹の網目全体から上がってくるので早く蒸し上がります。もちろん手食で食べます。
今日はチュートリと考古学ゼミ合同でやったので、1年生から大学院生まで各学年が集いました。
いつのまにか主役は2年生。4年生はそろそろ引退?。というわけにはいかない学生もいますが。
この子たちはきっと日本で一番、だれよりも土器鍋・土器ご飯を食べた学生でしょう。自慢にしてください。
陽気に誘われ、考古学ゼミのシナリオライターこと、Kくん(福田ゼミ)が俳句をよんでいました。
2句あったはずですが、駄作なのでおぼえていません。
チュートリで「弥生人の飯炊きを復元しよう」プロジェクトがはじまった。1・2年生の精鋭10名が三チームに別れて実験土器を製作している。
弥生人はどうやってお米の調理したのか?
この問題を実験考古学的に解明しようというプロジェクトである。発掘資料に見られるスス・コゲのパターンから炊飯方法の仮説をたてて、条件を変えながら、実験を繰り返していく。
実験用の土器は、先月、考古資料の使用痕を観察した弥生中期の青森県垂柳遺跡、弥生早期・前期の福岡県下月隈C遺跡のものをモデルとした。先に紹介したように、東北と九州では、痕跡からみる限り、かなりお米の焚き方がちがう。まずそれを復元しようというわけだ。それから、なぜそんな違いが生まれたかを解釈していく。同じ水田稲作といっても地域によって農具や祭祀の受容形態が違うように、米の調理方法も伝統や環境適応によって変異をみせたのだろうか・・・・
今日は、それぞれフォルムをチェックする型を作り、班ごとに土器を作り始めた。実験に向けて想像が膨らむ。
2009年9月、国の「選定保存技術(文化財石垣保存技術)」に認定された団体−文石協(文化財石垣保存技術協議会)の技能者研修会で小田原に行ってきた。
この研修は、城郭などの文化財石垣の修理に携わる中堅技能者等に対して、広い知識の習得と資質向上をはかることを目的とし、専門家が講義をしたり、熟練技能者による実技指導などを行う。石垣修理にたずさわる行政、設計監理者、ゼネコン、技能者、城郭研究者が協力してこの団体を作り、自らが文化財石垣の保存・修理に知恵を絞っている。
今回は小田原で5日間の研修が組まれている。この日は講義2日目、朝9時から20名の方々が真剣なまなざしで講義を聞いてくださった。
講義がおわってから小田原城や小田原合戦の石垣山一夜城などを歩いた。石垣山のある早川周辺は伊豆半島東海岸に群在する江戸城関連石切丁場の北端部にあたる。近年発掘で注目を集めた早川丁場関白沢支群を歩いた。大型の角石ばかりを切り出した丁場である。緊急調査で移動を余儀なくされた石の一つが一夜城の一角に置かれていた。1個、8トン余りという。農道の脇にはもらい手の見つからない角石用石材が多数並べられていた。もったいない・・・・。
観光や磯釣り場の海岸線にも矢穴石が点在する磯丁場がある。ミカン畑に開かれた山腹には段々畑の石積みに混じって刻印石がみられる。城普請に沸いた当時の活況が偲ばれる。
小田原には後北条氏の中世小田原城、大久保氏らの近世小田原城、豊臣秀吉の石垣山一夜城など、スケールの大きな著名な城跡がある。一般に、城下町から発展した地方都市では、住民がかつての城主へ強い思い入れをする。地元びいき、お国自慢は地域で暮らす原動力にちがいない。
小田原ではどうなんだろう・・・。と関係者に尋ねてみると、複雑だという。特定の人物に思い入れしない。冷めている。盛り上がらない・・・。文化財担当者としてはちょっと歯がゆい面があるのかもしれない。
駅前には北条早雲の銅像が立っていた。小田原は始祖をシンボルとしているようにみえる。早雲は玄人好みの人物といわれる。歴代、城主がたびたび変わった譜代の城下町や、敗者となった武将の都市ではそんなことがあるのかもしれない。かく云う私の故郷も一向一揆、真宗が骨に染みついた土地だ。織豊勢力に蹂躙された記憶がどこかに残っている。
まちづくりや行政が地域アイデンティティーをコントロールするような場面に出会うとちょっと抵抗を感じてしまう。根拠のないお国自慢を暴走させないように、みずからが歴史を見つめる目を鍛えていくことが必要なのだと思う。
こんにちは、歴史遺産準備室です。
約2ヶ月の夏休みも終わり、今週から後期の授業が開始しました。
今回は昨日と今日行われた演習の一部をご紹介します。
考古学基礎演習2(1年生)
この授業では、失われてしまった先人の技をとりあげ、遺跡から出土した遺物や遺構、民俗誌などをもとにその技法について仮説を立て、実験を通してそれを検証していきます。
この日は初回ということで、演習の説明と班分けが行われていました。次は実験をやっているときにお邪魔しようと思います。
民俗・人類学応用演習2(2年生)
民俗学、人類学の調査研究手法を修得するため、地図やスケッチの使用方法と使用目的、映像の活用方法を学ぶための授業。
卒業研究の発表で動画や航空写真を使用する学生が増えている今、こういった授業はとても重要なのではないでしょうか。
考古学応用演習2(2年生)
考古学野外演習などで行った発掘で出土した資料を観察・分析して記録する授業。
今日は飛島の発掘で出土した土器などの洗浄をしているらしく、先生や考古学ゼミの上級生による指導のもと作業が行われていました。
考古学応用演習2の写真撮影の後、文化財保存修復センターの前に歴史遺産学科の4年生を発見。これから田口ゼミの合宿に出発するそうです。
目的地は先生の出身地でもある茨城県東海村。卒業論文執筆のため、毎年行われている恒例行事だったりします。
田口先生、4年生の皆さん、いってらっしゃい。
世界遺産を目指す佐渡金銀山の委員会に行ってきた。今年度、日本の暫定リスト入りが確実視されている。以前は石見銀山とセットでという条件だったが、今年6月14日の文化審議会で単独登録の方向となった(追記:10月6日、日本政府は「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」の暫定リスト入りを決定)。
朝8時に出た現地見学は、やっぱり、どしゃぶり雨だった。
午前中、西三川の砂金山の遺跡(東西8km、南北3km)、鶴子(つるし)銀山の発掘調査、坑道掘りや露頭掘りの跡を見学した。最近、城石垣の石切丁場の調査で広い遺跡には慣れているつもりだったが、佐渡の鉱山遺跡の広がりや内容、時代幅のスケールは想像を超えていた。それだけに、調査や保存には難しい問題が山積している。砂金流しというと細々とやる原始的な方法と思いがちだが、近世〜明治初期に行われたそれは大規模に山を崩し、何キロも水路を開鑿、貯水池を作り、これを維持するだけでも多大な労働力を要する。周辺が金を含む熱水鉱床の風化・再堆積によってできた地層からなるため、このような方法を取っている。鉱脈のあるところでは露頭掘りや坑道掘りとなる。地層などの環境条件に適応して方法が選択されるというわけだ。
戦国末期から近世初期、戦国の世で稼ぎを得ていた雑兵たちは平和の世を迎えて新たな稼ぎ場を探していた。
彼らは各地のお城や城下町建設を働き場とし、佐渡のゴールドラッシュに沸いた。鉱石をすりつぶす臼を切り出した石切場には、城郭石垣の石切場と同じ矢穴列が群在する。城石垣作りが活況を呈した慶長や元和のころ、石切り職人たちはここでも活躍していたのだ。
5年前までは学生たちとよく佐渡に来ていた。合宿して窯跡の分布調査などもした。あのころはまだ金山遺跡しか脚光を浴びていなかった。しかし今は違う。関連遺産の見直しによって、膨大な資産が浮かび上がってきた(今は整理の真っ最中)。その後の変容には驚くばかりである。
文化遺産やその価値は時代が、社会が再発見していく。現代社会では価値相対主義の傾向が強い。だからこそ、文化遺産を現代に引き継ぐための文脈・ストーリーが必要となる。そして、それは研究によってのみ明らかになる。
世界遺産運動の功罪がいわれるが、佐渡は今、大きなムーブメントのなかにある。その中に身を置いて、自治体や地域のかたがたから教えをこおうと思う。
こんにちは。
歴産ブログ初挑戦、福田ゼミ3年のN×2です。
タイトル真似ました↓スンマセン。
先生に、「ブログアップして」と言われ目がテンになり…
それはさておき、前置きは先にりぼん氏がしてくれているので、早速本題とまいりましょう。お見苦しいところはご勘弁を…
日付を遡ること9/1、北海道は礼文島に行ってまいりました。
香深港到着後、まずは礼文町資料館へ。
礼文町教育委員会、藤澤先生に館内を案内して頂きました。
サロベツ国立公園の一部である礼文島には高山植物が300種類自生しており、わざわざ高山へ行かなくともここで観察出来るという事もあってか、ご年輩の観光客が多いそうです。
さて、勉強をすれば当然お腹が減ります。という訳で
本場のイクラ丼を注文。
奮発してしまった…節約せねば。
お腹がふくれた後、日本最北限のスットコトン、もといスコトン岬へ行きました。
もとより“日本最北限”をウリにしているのでしょうが、売店からトイレから“日本最北限の〜”。
日本最北限の大学生は、日本最北限のトイレに寄りました。
あ、そうそう、こんなの見つけましたよ↓
日本人ってこーいうこと好きなんだよな〜
最終日9/5には小樽市の隣町、余市町にあるフゴッペ洞窟に行きました。
足を踏み入れると、一瞬、高松塚古墳を思わせる様な、厳重な温湿度管理体制。当然の事ながら、フラッシュ無しでも写真撮影禁止。岩面にびっしりと、刻画が描かれていました。
「刻画が遺された洞窟」と聞くと、つい神秘的な何かを探してしまいます。彼らはどこから来たのか、船が描かれているのなら、漁撈民族なのだろうか、何故翼や角を持った人が描かれているのか、ここで何かしらの儀式が行われていたのだろうか、思いは尽きません。
かつてここに住んでいた人々がここまでして込めた願いや祈りは何だったのか。
文明など無くても、彼らはずっと豊かな精神世界を持っていたのかもしれませんね。
ここまで読んで下さった方へ、ありがとうございました。
旅行でお世話になった方々にも、感謝申し上げます。
合掌。