歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2011-01-09

のんびりしたバスの旅

5:20、まだ夜が明けないうちにホテルを出る。13・14日が村まつりだというので、とても名残惜しい。残留組に託す。

バスターミナルに着くと、運転手と3人のスタッフが準備中。スタッフの一人の女性はバスの中で化粧に忙しい。終わるとバスのフロントと地面に線香を立てて道中の安全を祈る。パクセー、サバンナケートを経由して、これからビエンチャンまで、いったい何時間かかるんだろう。

6:15バスが出発。ところがずっと人が歩く速度で徐行。外を見るとスタッフが外を歩いている。沿道の家から荷物を預かり、その都度バスに積み込む。バスは荷物運送、宅急便の役割も兼ねている。もちろんお客さんも随時乗り込んでくる。
7:00やっと走り出す。人家があるとクラクションを鳴らしてバスが来たことを告げる。人がでてくるとそのたび止まって客を拾う。パクソーンに着くまでバス停は3か所あったが、基本的にどこでも乗り降り自由。とても便利なバスなのだ。
7:30 最初のバス停、朝食売りにくる。もち米と水牛のジャーキーを買う。
8:10 2番目のバス停、出発まで35分も休憩、なぜ?
9:50 3番目のバス停は市場の前、売り子の女性や子供がバスの中でねばる。大賑わいで出発まで20分。
そして、今度は突然、人家のない道端にとまったと思ったらトイレ休憩。みんな草むらにちらばっていった。
パクソーンに近づくと広大なプランテーションが見えてくる。沿道の家はどこも庭にコーヒー豆を干している。

バスはその間、陽気な音楽をかけ、ひたはしる。アッタプーからパクセーまで信号はひとつもない。
車窓の風景や乗り降りする客をみてれば決して退屈な旅ではない。ただし、急ぐ旅でなければだ・・・・

11:45パクセーの町に入ってきたが、ここでまた徐行運転が始まった。人・荷物を積んでは降ろし、降ろしては積む。
実はこれほどバスの時間がかかるとは思っていなかった。いよいよ出国時間に間に合うか不安になりあせりだした。
12時過ぎにバスを降り、トゥクトゥクで国境行きのバスが拾えるところまで行く。それからミニバンに乗り換えて、1時まえにやっと国境につく。かえりのイミグレーションはすいていた。僅か10分で通過。
ここからはまた車の旅。ウボンで徳ちゃんとオーさんをおろし、ひとりコンケーンに向かう。7時前に空港についた。去年は国境のムクダハーンからバンコクまで10時間走ったが、今回も都合13時間ほど車に揺られたことになる。
離陸して感じたのは飛行機の離陸角度が日本とは全然違うことだ。障害物がないためか機首がぜんぜん上がらない。気がつくといつの間にか水平飛行。

バンコクのスワンナプーム空港は正月明けで相変わらず混んでいる。預け荷物を減らすため着込んだらやけに暑い。手にはむき出しのモーサオロー、背中にはS村でもらったモーエンナム(村長の奥さんが頭の上にのせてた土器)。いつもながら、カウンターや手荷物検査の係の人は笑ってくれた・・・・

2011-01-08

カプーン

Aさんちの2階で土器と道具の実測をしているあいだ、村長は横でつききりで見ている。そのうちうつらうつらしてきた。昨晩は娘の出産で寝てないらしい。腹を出したまま昼寝。

そのうち庭の臼で近所のお姉さんが米を搗きだした。何するのかなぁと思ってみてたら、カプーン作りだった。タイではカノム・チンという米粉(うるち)の麺である。何度も食べてはいたが作るのをみるのは初めてだった。週2〜3回は作るよ、と。

Aさんちの床下と倉にはたくさんの土器がある。大型の土器は種籾入れだ。ひび割れ等で売れないものを使っている。倉には全部で10個、床下にも4個ある。大事な種もみを土器に入れ、高床倉庫にあげるのはネズミ対策。床下のものは口に布をあてて紐でしっかり縛ってある。口頸部の突起はひもで縛るためのもの、日本の先史・古代の土器にもたまにある。

夜は最終日恒例のパッキング。今年から空港の預け荷物の制限が厳しくなったので入念に対策を立てる。

 

あすは県道に近い新村で建ち前がある。その料理のために、ため池からとってきた魚をモー・カン・プラに入れる。奥の陶器には壷酒の「たね」が入っている。アルコール発酵していて酒の匂いがプンプン漂う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011-01-07

夫婦

Aさんは村長の義理のおかあさん。ポターたちのリーダーだ。今日は夕方、土器でご飯を炊いてくれるというので訪ねてみた。
去年の乾季は、コーヒーのプランテーションに行ったので土器は作らなかった。故郷を離れての農園の労働は、さぞ辛かったろうと訊ねてみると、否、とっても楽しかったと。お金もいいし、仕事が楽しいので、また行きたい。土器作りは汚いし疲れるよ。でも、今年は早めに帰ってきて土器は作るよ。
夫は妻が出稼ぎに行ってる間、毎日一人で食事を作っていた。わびしそうな顔でそういった。
この村では婿入り、嫁入り両方あるが前者が多いらしい。夫は婿入り。そのせいでもなかろうが、どうみても家を仕切っているのはAさんだ。

 

Aさんいわく、子供は6人(男3、女3)いるよ。5人は結婚して家を出たね。でも、みんな村の中に住んでるよ。未婚の末娘W(15)だけが夫婦と同居している。タイやラオスの婿入り婚文化圏では、末娘が母親と暮らす例が多い。末子が家や屋敷の財産を相続するらしい。 壷酒造りを見学する。
蒸したカオ・チャオ(うるち)と籾殻、麹を混ぜて壷に詰める。あとは3〜5日間発酵させるだけ。水を足してストローで飲む。吸うと籾殻や米も少し口に入るので吐き出す。なくなったらまた発酵させるだけ。現在はタヒーン産の陶器の壷が主に使われている。
炊いたお米(カオチャオ)からもお酒を作る。食べ残しを天日にさらして乾燥させ、これを水に漬けて発酵させる。同じようにストローで飲む。これも継ぎ足し継ぎ足し飲む。
一つの壷を回し飲みする一体感がいい。
Aさんは3年前、レファートさんが来た時に撮ってくれた写真をみせてくれた。後ろにいるのは息子か。Tシャツの胸にはあの「イ・ヨンエ」のチャングムが。
Aさんが持つのは瓢形のナムタオという器種。こんなにでかいのはめったにない。

2011-01-06

村をあるく−動物・こども・カオチャオ

C村へはアッタプーの町からダートを40分ほど走ると着く。背後にはプールアン(ビッグマウンテンの意)という神々しい山がそびえる。かつては山のふもとに村があったが、1969年に今の場所に移ったという。村は豊かな森に支えられ、土器作りの技術もこの森と深い関係がある。

村に入ると高床の籾倉に土器が並ぶのが見える。水甕も現役だ。

いつものように、地図作りが始まった。ここも番地がないので、木炭で一軒一軒、入口に仮番号を書き、地図と照合できるようにする。2班に分かれ、1日かけて大まかな地図が出来上がった。私とNAMの班には村長がついて回ってくれた。もう1班にはカンパソーンという青年がついてくれた。Oi語とラオ語の通訳もかねて。

村長Pさん(42)によれば、ポターはいま60人ぐらいいるそうだ。3年前、アメリカの人類学者レファートさんたちが来てからなぜか増えたという。土器は自ら売りにも歩いたが、もっぱら外から買いに来た。S村の人たちが丸木船にのってこの辺りまで売りに来るのと比べると、販売にはそれほど熱心ではない。自給的な側面の強い土器作りだ。S村とは直線で60kmほど。
土器を作るのはS村と同じく3〜5月の2か月余り。5月に雨が降りだすと田んぼをやる。耕運機はなく、耕作には水牛が活躍する。村には人と同じぐらい水牛がいる。役牛であり財産でもある。田圃は151ha。すべて直播きで、コメはカオチャオ(うるち米)が90%以上。カオニャオ(もち米)がほしい時はラオのP村で交換するよ。
電気はこのあたりは来ていない。学校のまわりの県道沿いにはあるよ。
土鍋(モーフンカオ)がアルミ鍋に変わったのは1980年ごろから。モーヌンカオアルミニウムはラオ酒作るとき使うよ。もち米を蒸すのに。土鍋は田んぼで今でも使う。土鍋ご飯の方がおいしいから(アルミ鍋は盗まれる恐れがあるからか)。

乾季はかつては薪とりを生業にしていたが、いまではベトナム民間資本が経営するパクソーンのコーヒー園、アッタプーのパラゴムノキ(車のタイヤなどになる天然ゴムを採取)のプランテーションに家族そろって出稼ぎに行くそうだ。もう50人ほど行ったよ。確かに空き家になっているところもある。プランテーション行き出したのは5年前から。
村長は7人の子供がいてその世話で出稼ぎにいけない。この二日後に今度は娘に子供ができた。

ベトナム戦争後にスプーン、ラオのソムタムやラープが入ってきたがそれまではカオチャオを手食していたという。明らかに食文化が違っている。

野焼きは広さ10?、深さ1mもあるような大きな穴の中でやる。燃料は木の皮だ。上には藁をかける。マイボッ(ク)とマイ・プアイだよ。森の中からとってくるよ。ナクラダオとおなじ。1人〜数人分まとめて焼く。夕方火を付けて朝取る。土器は200個ぐらい入るんじゃないの。

夜、徳ちゃんが合流。ルアンパバンからパクセーへ来て、そこからバスで5時間かけてやってきた。  手押しポンプは1999年3月にできた。それまでは川の水を汲んでいた。昔は飲料水は水田にあった大きな素掘り井戸だったが、今はコンクリート製の枠のある井戸が村はずれにある。
年寄りは壷を頭に乗せて運ぶが、今の若い子はバケツに汲んで天秤棒マイ・カーンで運ぶよ、とAさん。山のふもとに住んでいた時もこの場所に水を汲みに来ていたよ。 村長んちの子犬。兄弟の中で一番痩せていて、歩き方もヨチヨチしている。人恋しくてだれかの足元にいることが多いが、たまに踏まれて痛い目にあう。村長の息子にさりげなく寄り添う。 この「たいまつ」ガボーンは村の特産品で、1年中作っている。パラゴムノキ(国有林)の枝のチップとバイ・ポーの葉を混ぜて、バイ・トンコン(の葉っぱ)で包む。1日5時間つけて、1週間持つという。1本5,000kip(50円)だ。
電気がくるといらなくなってしまうのだろうか。

2011-01-05

再びアッタ・プー C村と出会った〜。


6時に起きて、朝飯前に博物館から借りた土器の実測をする。

博物館に土器を返却に行き、再度、展示品を熟覧する。

早朝にとった実測図を博物館に展示してもらうことになった。光栄だ。2階に展示してあった52体の仏像が入った土器はチャンパサックの古代都市でトングリスが掘ったことが判明。18世紀のものだという。サバンナケートのブッドンのモーナムとよく似ている。

11:20博物館を出て、再びアッタプーに向かう。調査対象をS村に決めたからだ。そのまえに今日は郊外のC村をみておくことにする。

出発が遅れ、セーコンの近くで遅い昼食を食べていると、車のタイヤのパンクに気づく。暗くなる前にC村に着かないといけないのに・・・。パンク修理屋を探してなんとか走り出す。ラオスの道はダートが多いので車にとってはかなりハード。パンクも多いのだ。

もう暗くなった18:00前にやっとC村に着く。
家の前で夕食中の家に飛び込む。偶然にも村長Pさんがその場にいた。ここはいとこのpさんの家だった。鍋の蓋をあけてびっくり!大きなヘビだった・・・・。ここもOiの村だ。

水甕置き場に土器が5個ずらっと並んでいる。S村のモーエンナムと似ているが、ここではみな高台が付いている。
暗くてよく見えないが土器がたくさんありそう。ポターも50世帯以上いそうだということで、明日からの調査地を急きょ変更する。

宿を探すがなぜかどこも満室。やっとあったと思ったらお客が誰もいないゲストハウス。おばちゃんがあわてて電気をつけだしたので遠慮させてもらう。
最終的にはベトナム人が経営するホテルに泊まる。ラオ語がしゃべれない夫婦が経営していた。そして夕食を食べに行った食堂もメニューから従業員まですべてベトナム語にベトナム人。この町ではそれでやっていけるベトナム人コミニュティーが出来上がっているようだ。ラオス経済は中国やベトナムが牛耳っているという話を聞くがここでもそんな気配がぷんぷんしている。





ラオスでは食堂のテーブルの下に犬がうろうろしていることがある。食堂で飼われている犬ばかりでない。客のおこぼれをもらって生きている。たまには誤ってこぼしたものを掃除してくれる。
タイヤには大きなネジ釘が刺さっていた。スペアをはいて近くのパンク修理屋にいくが、結構荒っぽい直しで、後日再修理を余儀なくされた。
フラッシュ撮影すると砂埃が飛んでいるのがわかる。ラテライトの真っ赤な砂埃だ。







2011-01-04

世界遺産”ワット・プー”の修復現場

今日は休日。

そこでパクセーのチャンパサック歴史博物館と世界遺産ワット・プー(アンコール・ワットと同じクメール時代の遺跡)を見学することとする。

朝、開館と同時に博物館を見学。ガラスケースの中に土鍋を発見。熟覧させてもらう。近代のものとみられるが、現代の土鍋に通じる技法・形で興味深い。
2階は戦争とレジスタンス、解放と発展の歴史。この国の現代史を垣間見た。

博物館を出て、ワット・プーを目指す。




台船の橋げたのチェーンブロックを操作する男の子。そして、お客さんにお菓子を売る少女。なかなか手ごわい。
同じ年頃か。

対岸にはお土産物売りの少女が手ぐすねを引いて待つ。世界遺産の風物詩。


メコンの渡し場につく。
台船は6台あって、順にでていく。車が脱輪する事故はよくあるそうだが、何年か前に台船が沈没する事故もあったそうだ。時刻表や車運送料の定価はない。満車になったら出港する。たくさん乗れば安くなるし、急げというと高くなる。交渉だ。人は無料。行きは車満載で30万kip、帰りは50万kipだった。しっかり足元見てる。

川を渡るとまず、5〜10世紀の城壁に囲まれた古代都市の遺跡がある。発掘したトングリスが裏話もまじえて説明してくれる。現在、この遺跡を迂回して大規模な道路工事が行われている。パクセーから陸路でワットプーに来る道である。一昨年40kmを2時間かけて走った道である。いまのほうが人が過剰にこないのでいいと思うが、この道ができるとどうなるのだろう。世界遺産公害にならなければいいが。

ワットプー博物館(日本の支援)にあいさつし、公園前で昼食。現在、建造物を修理しているのはインド隊、フランス隊、イタリア隊の3チーム。それぞれテーブルで昼飯をたべている。博物館の出土品整理にはフランス・パリ大からギィヨム君、オーストラリア大からネオ君(もう6年もラオス・タイにいるらしい)が参加している。国際的だ。博物館のバックヤードで出土した土器や石造仏をみせてもらう。

今回は明るいうちに石切り場をみるのが目的だった。本堂に登る途中で、イタリア隊の現場を見学させてもらう。イタリア人の院生とタイ人のトンサイさんが基壇と建築の関係を説明してくれる。

本堂背後は巨大な岩盤で転石が転がる。割り付け線のある石材。点状の矢穴列をほったもの。断面三角の矢場取り溝をほったもの。この矢場取り溝の底に列点状に矢穴をあけたもの。さまざまな作業段階ものが点在している。
ワニの彫りこみ(いけにえを備えた…?)や象のレリーフ、階段や建築材の半製品もころがっている。石切りの作業場を彷彿とさせる現場がそのまま残されている。

最初で最後の休日は、こうやってあっという間に過ぎて行った。

沈下した石材を元に戻すため、発掘して基礎構造を確認中。フランス隊の門の修理でも発掘して遺構が露出していたが、考古学的な調査はどれほど行われているのだろう?
これらの修理はみな建築の専門家が行う。日本でも10年前までは石垣修理は建築・土木の専門家がやっていて、考古学的調査が組み込まれたのはそう古いことではない。ここでは修理現場が公開されているのがいい。一応、柵では囲まれているが。

左から二つ目の山の頂上にある突起がリンガ(男根、シヴァ神)。Lingaparuata プーカオ山だ。
背後の山を御神体にワット・プーは作られた。







2011-01-04

ORC歴史班研究会

研究会のお知らせです。

平成23年1月10日(月・休日)に東北文化研究センターで取り組んでいるオープンリサーチセンター整備事業の研究会を開催します。
今回は、東文研PDの中村只吾さんにより「近世から近代にかけての漁師の知について─飛島の漁師の生業にみる─」と題してご発表いただきます。
飛島は、民俗・考古・歴史各分野が調査を進めているフィールドです。
調査に参加した方はもちろん、これから参加したいと思っている方も、ぜひ研究会に来て、いろいろご意見をいただければとおもいます。
詳しい時間やプログラムは以下の通りです。
よろしくお願いします。

___________________________

第5回歴史班研究会

【日 時】平成23年1月10日(月)14:00〜16:30

【場 所】東アジア民族文化アーカイブ研究センター

【趣旨文】
 近年の近世漁業・漁村史研究においては、当時の漁師たちが魚の生態や自然環境などに関する知識を有し、それらが漁場争論などにおいても活かされていたことが解明されてきている。そうした研究動向をふまえ、本報告では、飛島(近世の大半は庄内藩領、現在は酒田市の一部)の漁師を対象に、近世の漁師たちが有した生業(特に漁業)に関する知や技術の検討をさらに深めてゆく。その際、それらは近代への移行に際していかなる様相を呈するのか、村・地域での立場や階層などによる差異は存在したのか、について特に注目してゆく。

【プログラム】
 趣旨説明(14:00〜14:10)
   入間田宣夫(東北芸術工科大学教授)
 
 報告(14:10〜15:10)
   中村只吾(東北文化研究センターPD)
 「近世から近代にかけての漁師の知について
             ─飛島の漁師の生業にみる─」
 
 質疑応答(15:20〜16:30)

2011-01-03

データ入力の一日


昨晩、下見を終えてパクセーに戻ってきた。
今日は終日、たまった調査データの入力の日だ。
朝から、ホテルロビーのデスクを借りて仕事をする。
昼食後、眠気さましにパソコンを持ってシヌーク・カフェへ。結局、18:00までカフェで仕事をした。ネットも使えるし、お姉さんも優しい。そして、さすがシヌークのコーヒーはおいしい。

MIMがチェンマイからバスで帰ってきた。強靭な体力の持ち主だ。みんなそろって活気がもどってきた。

2011-01-02

倒立技法の村


昨晩は北上してサラワンに宿泊。
まずは2009年の正月にいったBY村

この村では現在、池からの灌漑で2期作をやっている。今は田植えのシーズンで土器は作っていない。来週あたりからという。ポターは減ってもう一桁になってしまった。
一昨年お世話になったリーダー格のNさん(75)は、体の調子が悪く今年はもうやらないという。だんなさん(80)とともに寝込むことが多くなったと弱気になっていた。二人並んだ写真をプレゼントすると精一杯手を握って喜んでくれた。

次いでND村に行く。
ここもBY村と同じ倒立技法だ。ポターはもう5人しかいない。小学校の隣の家で作っていたTさん、Sさん姉妹の土器作りを見学する。
粘土には砂を混ぜずに紐を伸ばしながら積んでいく。叩き板はなく、へら状具と削り用の竹輪がある。最後に小学校裏の粘土掘り場を案内してもらう。スィヤムで小石が混じらない1mほど下の粘土を掘る。池端の国の土地だ。

夜、バンコクからNAMが帰ってきた。





2011-01-01

Oi族のS村をめざす

6時に起きる。今日も朝日がまぶしい。

朝一、トングリスがアッタプーの県知事に調査許可の書類を出しに行ってくれる。ラオスの役所は正月は2日間休みだそうだ。知事も昨夜(朝)から酔っ払っていたとのこと。

しかし、庶民にとっては(ラオス暦では)1月の終わりごろ。季節暦ではソンクラーン(4月半ば)を新年の始まりとして大々的に祝うので、いまは特別な日でない。平穏だ。

昨日の情報はまちがいで、やっぱりS村へはセーコン川を船で渡り、かなり歩かないといけないらしい。意を決して、渡し場を探す。川を渡る前に一つの村に入る。
そこには不発弾注意の大きな看板。改めて自分の居場所を知る。ここはベトナム国境の町。35年あまり前、アメリカの爆撃にさらされたところだ。反米・反サイゴン政権勢力が、南ベトナム解放民族戦線(親米の日本ではベトコンとよばれた)を支援するためラオス・カンボジアに設けた物資の補給ルート(ホーチミン・ルート)にあたる。土器作りの聞き取りでも画期としての戦争や内戦時代の記憶は新しい。

このKK村で珍しいモーエンナムに出会った。見たこともない長胴丸底の水甕だ。そして、弥生土器のような球胴の土器モーサナン。乾燥させた煙草の葉を貯蔵する。ここでS村から来たというBさん(43)に会う。乾季の生業である煙草栽培の苗を買いに来たという。Bさんによれば、S村にはポターは100人以上いるという。そんなバカな!と思ったが、後になって意味がわかった。とにかく、見ないわけにはいかない、そう思わせる村だった。

渡し場で丸木船に乗る。マイ・タヴェンをくりぬいて舷側板と波切板をつけたもの。走行性はいいが、左右のバランスが悪い。座っていてもひっくり返りそうになる。川を渡ると岸には煙草畑。炎天下、船頭さんの娘フェンらの案内で30分あまり森を歩く。突如、放牧中の水牛の群れと出くわし、緊張が走る。 森を抜けると、広大な水田地帯。航空写真でみたように、ポツン、ポツンと家が点在する。典型的な散居村。
家は住居と倉からなるが、日本の散居村のように「屋敷」はない。田の中に家を建てたといった感じで、宅地と農地を区切るものはない。農地に立てた出作り小屋的なあり方である。
そして高床住居の床がやたら高い。籾は竹で編んだ大きな籠に入れて貯蔵する(写真左端)。右端は網んでいる最中のもの。  道はない。田の中を歩いたところが道だ。グリーンベルトは雨期に水が流れるところ。

田は雨季単作でうるち米主体。もち米主食のラオ族とはちがう。ここは少数民族Oi(Oy)の村。
3つの村があって、全体で550世帯2788人。村長のいる北の村は265世帯1403人。世帯当たりの耕地所有面積は小さい。 村長さんの家を訪ねると、新年のセンサス(人口調査)の最中で男たちが集まっている。奥ではまかない料理の最中。突然の来客を怪しまれるが、受け入れてくれる。一緒に昼食を食べながら、生業や土器作りの取材をする。
乾季はタバコ栽培と薪の採取が主な生業という。豚・鳥などの家畜飼育もある。電気はまだ来ていないが、村長の家では発電機があって、これでテレビをみる。耕運機を所有する世帯もある。 台所では竹の子と魚スープの調理中。途中で、唐辛子と塩とオタマ1杯分の味の素を投入。最後にレモングラス。ラオスの高床の住居ではどこの家にもこんな囲炉裏がある。ゴンサオの上で調理するが、土鍋を使う家はほとんどない。
土器作りは乾季の2〜3カ月だけやるよ。何人ポターがいるかって?女はほとんど作るよ・・・・(沈黙)
中の村のBさんが「100以上いる」といった意味がわかった 土製のモーエンナム水甕はどの家にも置いてあるのが見える。しかし、同時に最近入ったと思われる真新しいプラスチック製の濾過装置付き注水器も置かれている。この道具はこれから村で受け入れられていくのだろうか。

さっきの竹の子スープとうるちご飯で昼食を食べる。

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