大型の土器・陶器に遺体を埋葬する習俗は東アジア各地に存在する。一般に「甕棺」と呼ばれている。日本でも土葬地域で戦後まで残っていたし、火葬の国タイでは骨を土器に入れて埋める例が現在も続く地域があるように、甕棺、土器棺は時代や地域を越えて用いられてきた。
先週、韓国で三国時代の大型甕棺(4〜6世紀)の製作・焼成技術に関する国際セミナーが開かれ、日本の甕棺と実験研究について発表してきた。 日本では、人一人がまるごと入る大きさのものは、弥生時代、北部九州の甕棺や、古墳時代の埴輪円筒棺がある。
しかし、韓国のものは規模が大きい、大型品は高さ2mぐらいある。東新大学でみたものは口径約90?、高さ約230?、重量600kg以上。一人で担いで運べるものではない。5世紀末ごろの大型品は厚さ3cm程もある。
日本の弥生甕棺は大きくてもせいぜい高さ1m、50〜60kgあまり、野焼きで焼く。韓半島のものはさすがにこれだけ大きいので、窯で焼く。
羅州市の五良洞窯跡群は大型甕棺を焼いた窯跡である。ゆるい傾斜面に半地下式の大型窯がたくさん並んでいた。現在、国立羅州文化財研究所が継続的に発掘調査を行っている。
同研究所では地域の個性的な甕棺文化を研究するためのプロジェクトが進行中だ。甕棺専用工房や実験窯が作られ、継続的に実験が行われている。その充実した施設はうらやましい限りだ。
ちょうどセミナーに合わせて窯づめが公開された。どうやって運搬したのであろうか。現在、五良洞窯跡群の目の前で道路建設の事前調査で発掘をやっている現場があった。見学はできなかったが、車の轍が何本もでているそうだ。荷車にのせて運んだらしい。
韓国はあいかわらず開発、開発・・・・。道路工事は多いし、「革新都市」という名の大規模都市開発が各地で行われている。緊急調査体制整備のために各地で調査法人が整備され、現在は100あまりあるという。羅州の革新都市開発ではたくさんの土器窯跡・工房集落が調査されていた。国際セミナーの翌日にその成果発表会が行われていたが、その会場は若い調査員の姿でいっぱいだった。日本でもかつてそんな時代があった。
昨日、お気に入りの場所を二つ見つけた。
ひとつは宅地が素朴な低い石塁に囲まれた村。黄色く染まった銀杏が点々と続く村の中に、小道に沿って延々と続く石垣ロード。規模は済州島ほどではないが、山麓の植生や地形に溶け込んでいる。全南潭面郡にある지실마을。思わず車を止めて写真を撮らせてもらった。
この先の谷筋を登っていくと、せせらぎの音が聞こえる바람소리(風の音)というおしゃれなお店があった。店を出るころにはもうほとんど葉の落ちた百日紅がライトアップされていた。
もう一つは石臼の飛び石。巨大な石臼が並べられ、その先は階段になって小道につながっている。
全南羅州市にある「天然染色文化館」の敷地。伏岩里古墳群見学の帰りに飛び込んだ。羅州には藍染の人間国宝が2人いるため、染色が盛んなんだという。古墳群のまわりには藍が植えられ、いま田が赤く染まっている。日本から種を持ち込んで栽培を始めたのが起源だと学芸員さんが説明してくれた。
さむいあさ かんせついたい にじゅうにさい
最近めっきり寒くなりましたね。こんにちは、北野ゼミ4年しまです。
去る10月22日・23日、高畠町総合交流プラザで開かれた「高畠交流プラザまつり」に参加してきました。
高畠石の会・高畠町教育委員会・東北芸術工科大学の3者が共同で運営・活動をおこなう「高畠まちあるき」プロジェクトの今年度の活動報告と広報が目的です。
今回は、この1年私たちがどのような活動をしてきたかを皆さんに見ていただきたいと思い、大判プリンターを活用して掲示物を作りました。
もう、目一杯のやつ。
地区の文化祭という位置づけの催しのため、子どもからお年寄りまでいろんな方に見ていただくことを想定して大きな字と適当な余白、分かりやすい言葉を使うように気をつけました。
また、この活動は町の方のお宅にお伺いして聞き取り調査や作図をさせていただくため、ご協力いただいたあとの報告は欠かせません。
今回の機会は協力していただいた皆さんに対しての感謝の気持ちも込めました。
前日の金曜日、まちあるきの枢軸ともいえる文化財保存修復センターのPD長田さんと一緒に掲示物を搬入。
22日は翌日私が手伝うことになっていた
10月22日・23日、千葉県富津市金谷で第3回「石の町シンポジウム」が開かれた。ここ金谷から切り出された「房州石」と呼ばれる凝灰岩は、江戸後期から船で江戸・関東一円運ばれ、各地の建築や基礎、敷石などに使用された。その石切り場の遺構群は、山体の景色を変えるほど大規模なもので、「鋸山」と呼ばれるように古くから名所となっていた。
いま、石切りは途絶え、往時の面影はないが、「鋸山」は一部観光開発され、首都圏から日帰りできる景勝地として、ハイカーや山ガールで賑わっている。
この町に熱い思いを抱く人たちが集まっているらしいことは仲間からうすうす聞いていた。だから、いつか訪ねてみたい場所だった。
今回ようやくその機会を得て参加が実現した。おりしも高畠町での活動を始めたばかりで、これを手土産に参加し、私がひいきの石の町「たかはた」をアピールしてきた。
朝、特急が大雨で運休というハプニングに見舞われ、ひやひやしたが、町おこしのボランティアでこの町に引っ越してきたという美大卒の青年が車を飛ばして君津まで迎えに来てくれた。
着くなり、常緑樹が繁る山並みを背景に棕櫚の木、金谷石の石塀がつらなる独特の景観が目に飛び込んできた。金谷石は「尺三」(実際は長さ80?サイズ)で切り出されているため、石材が細かい。一二八(1尺2寸×8寸)の1間が基本の高畠石をみなれているせいだろうか。風化が激しく、どこも目地にモルタルが詰められている。高畠の一二八を平積みしただけの石塀を紹介すると一様に驚きの声が聞こえた。しかし、その日の夜と早朝にまちなかを歩いてみると、ここでも裏庭や隣との境にはひっそりと数段平積みしただけのものや集積(ストック)が見られた。そして雨どいの水を貯めていた見慣れない石製品を見つけた。
講演とシンポジウムの間に、恒例となっているらしい地元高校生による合唱とブラスバンドの演奏が行われた。会場をまきこんだパフォーマンで高校生たちに暖かい気持ちにさせてもらった。
二日目は現地ツアー。大雨の余韻が残る山麓部の山の中に分け入って、泥岩を採集した石切り場の跡を見学した。その昔、切石を山から下ろす仕事は女性たちが担った。ねこ車のブレーキ痕で磨り減ったこの石敷き道を車力道というが、そこはいま山ガール(老若)たちの登山道となっている。時代の移り変わりをしみじみと感じる。
山頂ちかくの石切り場からクラシックの音色が聞こえてくる。今日は毎年行われている鋸山コンサートの日だった。登山道をのぼってきた人たちは、突然大きな石切り場跡があらわれ、そこでクラシックコンサートと書道家によるパフォーマンスが行われていれば驚くだろう。切石に丸太を渡しただけの観客席でしばし腰をおろしていく。索道の起点や鍛冶小屋の遺構、10年数年前までは現役だったろう機械類が無造作に置かれ、時の流れを感じさせる舞台だった。
ここには土地の歴史を掘り起こしながら、その遺産をしっかりと受け継いで、町の行く末を自分たちで考えて作っていこうという人たちがいる。全国に石の町はあまたある。しかし、金谷でみたようにそれらは当時の自然や社会、さらに現在に至る環境の違いが反映されてみな違う顔を見せる。高畠は高畠らしい、全国どこにもない「石の町」であることを確信した。それを顕在化させるのがこれからの仕事になるだろう。
歴史資料演習も後半戦に突入しました。
この日は3日目と同様に蔵の中にある膨大な量の資料を一点一点、外へ搬出した後、目録作成を行いました。目録とは資料の一覧で、詳細説明が添えられたものです。
今回の演習では文字が書かれているモノ(古文書はじめ木箱、俳句の冊子やハガキ、教科書など)はすべて資料として大事に扱いました。
特に古い襖は現代のものと違い、何層にも重ねられた古文書が下張りとして使われているので慎重に。
2年生は昨日の疲れが出ているのかと思いきや、
集中力が増してスピードアップ!
3年生も負けじと頑張りました。
最終日へと続く!
3日目は、いよいよ現地での作業です。
とあるお宅の蔵にお邪魔して、蔵の中にある膨大な量の史料を一点一点整理していきました。
史料を運び、カメラで撮影を行って、ひたすら史料の数を数える等々、2、3年生が協力して作業を進めていきます。
若干季節外れの蚊の大群や、史料に付着しているほこりと闘いながら、みんな黙々と作業をしていました。マスクとウエットティッシュ、休憩時間に食べる甘いものは必須だと思いました。…そしてム●かウナ●ーワ。
史料整理は、一見とても単純な作業にも見えますが、体力、気力を使う作業の連続です。史料を傷つけないよう、慎重に扱うことが求められます。
同時に、実際に史料を見て触れる、というのはあまり体験できることではないので、自分自身にとって勉強になることがとても多いです。
この日は、現地での作業初日ということで慣れないこともあり、みんな大変だったと思います。しかし、次の日には…… ということで4日目に続く!
みなさん、こんにちは。謝ゼミ3年のRyomaどんです。すっかり秋になり、肌寒くなってきました。他のゼミでも、卒論の準備や就職活動が徐々に進んでいるかと思います。
さて、謝ゼミは今月の16日(日)に、宮城県の松島に行きました。松島は、皆さんご存じの通り、日本三景の1つで、海に浮かぶ島々がとても美しく、仙台藩伊達家ゆかりの寺院が重要文化財に指定されており、秋には紅葉が見どころです。かの松尾芭蕉も訪れ、「松島や、、、。」という有名な俳句を残しています。
しかし、今年の東日本大震災で、この松島も大きな被害を受けましたが、松島湾の島々が津波の勢いを吸収したお陰で、壊滅的な被害を受けるのを免れました。海岸の所々に、津波の爪痕が見られ、当時の事を思い出し、身震いを感じました。あの島々には、神の力が宿っているのだろうかと一瞬考えました。
まず、最初に向かったのは、福浦島です。この島は、自然に恵まれおり、松島湾が一望できるスポットの1つである。赤い橋を渡り、沢山の会話をしながら散策しました。
昼食は、近くの「さかな市場」にて、自分好みの海鮮丼を食べました。すごく美味かったです。ただ、自分はちょっと実家の事を思い出し少し恋しくなりました、、、。
昼食の後、いよいよ瑞巌寺へ。瑞巌寺は仙台藩伊達家の菩堤寺で、最初は慈覚大師円仁が創建し、天台宗延福寺と称しましたが、後に臨済宗妙心派に属し瑞巌寺となりました。1600年代に藩祖・伊達政宗公が、再建しました。あいにく、本堂は修復修理中でしたが、「庫裡」という建物内に、政宗公、歴代藩主の位牌や御本尊を、宝物が展示されている「青龍殿」では、仏像や伊達政宗公の甲冑像などを見る事ができ、いかに松島が神聖な場所であったかが理解できた。
政宗公の正室(妻)、陽徳院愛姫の墓堂「寶華殿(ほうげでん)」にも、訪れました。なぜ、この地に眠っているのか疑問を持ちました。私が思うに、政宗を献身的に支え続けた彼女は、夫と死別した悲しみの心を、当時神聖な場所だった松島で、落ち着かせたかったからだと思います。
次に、円通院に向かいました。ここでは、ガイドボランティアの人が案内してくれました。震災当時の話を聞き、見学開始。この円通院は、政宗公の嫡男で、2代藩主忠宗の嫡男・伊達光宗公の菩提寺です。光宗公は、学問と武術に優れ、伊達家の将来を期待されましたが、19才の若さで亡くなりました。伊達家中は、悲劇的な死に悲しみ、光宗公の後を追い、7名の家臣が殉死したそうです。ちなみに、光宗公の霊屋(厨子)には、バラの絵等が描かれており、南蛮文化を垣間見る事ができました。通称、「バラ寺」ともよばれ、キリスト教を禁じていた江戸幕府の警戒を避ける為に、300年以上封印していたので、建造された当時のまま残っています。
さらに、円通院には、本堂「大悲亭」や御本尊をはじめ、多くの見どころがあり、その中でも、庭園と秋に見られる紅葉は必見です。円通院の庭園は、松島湾を表し、島々には七福神の名前がつけられています。案内したガイドの人は説明が上手く、紅葉も見頃を迎えていました。この時期になると、紅葉のライトアップが行われるそうです。
帰り際に、松島のシンボルというべき、五大堂を訪れた後で、牡蠣(かき)を食べました。牡蠣は、広島産も有名ですが、松島産も有名なんですよ。やはり、現地の牡蠣は美味い。(←炭火焼)とてもいい思い出になりました。
またまた、文が長くなってしまいました。この松島で、多くの歴史を学んだだけでなく、震災で復興に向かう人々の心意気が強く伝わってきました。松島に限らず、東北各地は確かに、徐々に復興に向けて動いています。この日を以て、ゼミ内の絆がさらに、深まったと思います。以上で報告を終わります。ありがとうございました。
こんにちは!謝ゼミ3年のKZです。
Ryomaどんに引き続き謝ゼミ研修旅行3日目の様子を紹介したいと思います。
長崎は3日目も快晴でとても暑かったです。
この日は初めに亀山社中に向かいました。亀山社中は昨年の大河ドラマでもお馴染の、坂本竜馬が設立した海援隊の前身となる組織です。日本初の商社で、物資の運搬や貿易を行っていたそうです。現在、亀山社中の遺構として伝わる建物が記念館になっています。記念館ではピストルや紋服など坂本竜馬ゆかりの品々を見ることができました。また、記念館周辺は亀山社中資料展示場や銅像など坂本竜馬ゆかりの場所が沢山ありました。
亀山社中を見学した後はハウステンボスへ。
ハウステンボスは佐世保市にあります。長崎市内からは電車で一時間ほど、入場ゲートを抜ければそこはオランダでした。
風車やレンガ造りの建物など園内を散策しながら綺麗な風景を楽しみました。園内はアトラクション以外にも美術館など様々な施設がありました。
そして一行は再び博多へ。四日目に続きます!
10月15・16日と、鶴岡で行われた地方史研究協議会大会に行ってきました。興味のある学生2人も参加しました。
テーマは「出羽庄内の風土と歴史像 −その一体性と多様性−」というものです。私は2日目しか出席できませんでしたが、古代から近代までの庄内に関する研究発表が8本、そのあと90分の討論と、濃密な内容でとても勉強になりました。
とはいえ、歴史学界を代表するひとつな大きな学会です。研究内容は、どれも緻密な史料分析がなされていて、学部生が聞いていもチンプンカンプンかと思いましたが、発表者の丁寧なレジュメと発表内容でなにかとメモをとりながら聞けたようです。
史料分析の仕方、レジュメの作り方、発表の仕方などなど、いろいろ吸収できることもあったかと思います。会場は、他大学の学部生らしき姿はあまりみられませんでしたが、機会があれば、また参加を促していきたいと思いました。
・・・画像がなくてすみません
土、日曜日、考古学ゼミ3〜4年生9名と六十里越街道の測量調査に行って来た。1泊2日の短期決戦だ。
土曜日朝8:30大学を出発。金曜日に続いて月山路を走る。朝から雨がざあざあ降ってきて・・・・9:40西川町弓張平公園に到着。雨の中での調査は慣れたもの。ブルーシートとトラロープを持って準備OK。
早速4班に分かれて調査開始。弓張茶屋平板チームと石畳Aチーム、石畳Bチーム、石畳平板チーム。午後から雨が上がり、紅葉真っ盛りの落ち葉を掻き分けながら実測は進む。夏に石室の実測でいやほど石を描いた後では、簡単なもの、といわんばかりに実測のスピードは上がる。予想外の進捗。
江戸時代の絵図にも描かれた弓張茶屋跡。溝で区画された平坦面があり、地表に礎石らしき石材が数個露出している。土中にピンポールを刺しながらその位置を探っていくと、180?間隔で綺麗に並んでいる。桁行(6尺)7間、梁間(8尺)2間に1間の庇がつく礎石建物だ。道路を挟んだ向かい側には石積みがあり、ここにも平坦面がある。茶屋中心部の遺構の残りはよいが、周辺が未調査のまま公園造成で失われてしまったのは惜しい。
コテージが建ち並ぶ公園の一角から、沢に下りていくと角材4本を渡しただけの木橋がある。ここを渡ると湯殿山碑があり、坂を登っていくと大きく道が右にカーブする。石畳Aチームの実測場所。自然石のみを敷き並べる。両側に大きめの石を置いて縁を決め、内部を中小の位置で埋める。目地には粘土が張られ、石が動かないようになっている。
さらに300m坂を登ると、Bチームの実測場所につく。ここは、割り面を表に向けた大型の敷き石を並べる。石垣石のように矢穴列があり、ノミ加工している。
このように石畳は場所によって施工方法が異なっている。時期差なのか、割普請によるものなのか興味深い。
夕方、あたりが暗くなって調査終了。月山湖から大井沢を抜けて大江町へ入る。峠のトンネルを越えるとそこは柳川温泉。暗闇でなかなかスリルのある道だった。
学生たちにとっては、夕食準備も慣れたもの。図面チェックをしているとご飯ですよ!の声。久しぶりに腹いっぱい食った。夏の調査でみんな胃袋が大きくなっているのがよくわかる。いったい何合炊いたの?町教委から地ビールの差し入れ、ありがとうございました。
朝食も、夕食に負けずおとらずよく食べた。高畠でもらった元気米。オリンピック選手らが食べた「集中力が高まる」お米である。戸塚山のときも不思議と効いた気がする。
日曜日は天気がよく紅葉がひときわ綺麗だった。予定した調査が終わり、夕方5時、一本締めて現場を後にする。
宿といい、現場といいカメムシが大量発生していた。今年も雪は多そうだ。
ひと夏過ぎて、学生たちは確実に変わった。
自分の役割を理解し、人のこと、チームのことを考えて動くようになった。
現場は人を育てる。充実した二日間、疲れはあるがすがすがしい。
もうひとつ変わったこと。カメラ目線の笑顔(*^。^*)