タイの東北部の西端ウボンラチャタニーという町に着いた。夜9時、お正月でお店を閉めているせいか、町はいつもより暗い感じがする。
二日間バンコクの喧噪の中にいた。こちらに来ると普段は静かな村の中にいるのに慣れているせいで、都会に出るとそのギャップの大きさにおどろく。しかし、人ごみと猥雑な都会の世界はそれはそれで心地よい。人の生きる力と退廃が充満しているからだろう。生々しい人間に出会えた気がする。混とんと静寂を行ったり来たりして心のバランスがとれるのがいい。
朝は宿の前から聞こえる唸り声で目が覚めた。昨夜から騒いでいたおじさんが死にそうな声で○○を吐いていた。連れ二人は早朝に帰国したので今日は気楽な一人旅。
混雑する人ごみには必ず物乞いがいる。インドほどではないが、日本にもあった風景だ。市場にあるような雑貨を地べたに並べひたすら買うのを待つ。1個5バーツの櫛を3個買ったら、おばさんは不思議そうな笑みで見送ってくれた。中学の制服を着た女の子が箱を前に置いて伝統楽器を引いている。たいそう稼いでいた。しばらく音楽に聞き入った。
街角の特設宝くじ売り場も人であふれている。年末ジャンボで新年の夢をみる。今年はタイ暦2555年。55番と12番が人気だそうだ。
バンコクは帰省ラッシュ。中国は列車、韓国は高速バス、日本は新幹線。タイもバンコク一極集中の国なので、この時期は人口移動現象が起こる。あらゆる交通手段をつかうが、ミニバンなどに乗り合わせて故郷に帰る人が多い。そのための集合場所がいくつもあり、車はお客がいっぱいになるのを待って出発する。お金のない人は、時間をかけて無料の列車で帰る。アピシットの時代から各駅停車は無料になったそうだ。
以前一緒にタイに来た学生たちは、最初に驚いたのはタクシーや観光バスのカラーリングだといった。この時期、タクシーの運転手も帰省でかなり減っているらしい。その一方で外国人観光客が押し寄せ、大忙しとなる。メータータクシーも吹っかけてくるので、何台かやり過ごさないとまともに走る車はなかなかつかまらない。粘りや交渉を楽しむ気持ちが大切だ。
ウボンまではエアアジア(客室乗務員も飛行機の離着陸もやたらテンポがいいのでひいきにしている)できたが、国内線のロビーはどこもおみやげを抱えた帰省客でいっぱいだった。到着ロビーでも再会を懐かしむ家族の笑顔があふれる。どこにもある風景だ。
1週間の仕事を終えて、今朝ルアンパバン(世界遺産の町)からバンコクに戻った。ラオスもタイも都会は休暇を過ごす欧米人でごった返している。この時期のバンコク・カオサン通りの熱気は狂気に近い。
ラオス北部にあるルアンパバンでは朝晩冷え込み、日中でも長袖が欠かせなかった。しかし、バンコクは暑い。例年より蚊が多い。乾季はただでさえ乾燥しているのに、ラオス北部の村では砂ぼこりや窯焚きの煤・灰でのどが痛くなった。さらにここでは排気ガスがのどに張り付く・・・・
あしたからのウボンの調査を控え、休養日だった今日は、チャオプラーヤ川の中州にある焼き物の村−コ・クレット(ノンタブリー県)へ行ってきた。ここは12年前にも大きな水害にあったが、今回の大洪水は村の主要産業である陶器作りに壊滅的な被害をもたらした。遺跡として保存されているかつてのレンガ窯は崩落して原形を失ったものや、ゴミ置き場になって荒れているものがあった。
水が引いたのが1週間前というように、今ようやく復旧が始まった。デッキブラシでヘドロの掃除をしたり、水甕オーンを洗ったり、避難していた家財や商品の置き直しをしていた。工房の多くは設備を失い放置され、復旧はまだまだ先のようだった。ここにはボランティアも軍もいないが、住民には悲壮感はないようにみえる。船着き場では店もやっているし、村の食堂も営業を始めている。川岸で釣り糸を垂れる男、路地をバイクで走り回る若者。時折やってくる天災と適当に折り合いをつけながら、たくましく生きている姿が印象的だった。マイ・ベンライの精神か。
帰りは渡しのボートで一緒になった女の子が、バンコクまで路線バスで一緒に帰ってくれるという。行きはタクシーで200バーツあまりかかったのに帰りはたったの8.5バーツ×3人。生徒や学生の帰宅時間にも重なり、車内は満員。街中は停留所で客を拾いつつ走っていたが、高速道路に入るとバンコクまで時速100kmで突っ走る。車内ではみんな普通に吊革につかまっている。窓からは熱風が吹き込む。恐るべし…
今日は暑い一日になった。
昨日に続き早出してLさん宅の窯焚きを見学した。
あさから家族だけでなく、続々と兄弟、その奥さん、子供たちが集まってきた。
あぶり焚きは窯口を半分トタンで閉め、長い薪を順に押し込んでいく。徹夜作業なのでたいへんだ。攻めへ移るタイミングは、煙道に手をかざし、温度をみる。
ころ合いを見て攻めに入る。攻め焚きはトタンをとり、燃焼部に太めの長い薪を目いっぱい詰めこんで噴かす。煙道からは黒煙が立ち上る。やがてけむりが落ち酸化雰囲気になる。これを5〜6回繰り返す。最後の方は割り薪も加え一気に温度を上げる。煙道から太くて高い火柱が上がる。火前は輻射熱でたいへんな暑さとなる。兄弟らが交代で一人1〜2回ずつ焚いていく。その間、それぞれの娘たちは太い薪を斜路まで運ぶ。本当に子供たちがよく働く。
その傍らでLさんの奥さんは昼食の準備。ふかしが一息ついたところでみんなで昼食となった。もちろん蒸し米にラープ。竹の子スープが美味しい。ラオ・ラーオをコップで回し飲みする。だいぶ加減してくれたが、口当たりがよく珍しくたくさん飲んだら足元がふらついた。
閉塞はあっけない。まず生草を焚き口に詰め、すぐトタンをあてる。それまでゴォーツという火の引く音がしていたのに、一瞬で静寂がおとずれた。一瞬何が起こったのかと?
そして、トタンが外れない程度に脇に粘土玉を張り付けていく。煙道は全く閉じない。これは2007年の時も全く同じだった(EUプロジェクトの窯では塩を入れていたが)。
早朝からLさん家の穴窯の実測をした。
窯の中は真っ暗。煙道からわずかに光が差し込む。天井は高いところで70?しかないので這いつくばって作業するしかない。
マスクをし、懐中電灯を1個持って2人1時間30分ほどかかりなんとか測り終えた。でてくると衣服や鼻の中は真っ黒、マスクは気休めに過ぎなかった。測り終えるのを待つかのように窯詰めが始まった。Lさんの兄のSさん家族総出で作業にあたる。しばらく見ていたが、こちらのスタッフも全員加勢してバケツリレー方式で一気に製品を詰めた。
窯の中は、Sさんと長女が積み上げ、弟の娘が手元として二人に製品を渡す。ほんとに子供たちも無駄のない動きで仕事を熟知しているようにみえる。
この窯はハイが300個ほど入るもので3基の中では小型の部類だ。Iさんの窯は370個入るという。
驚いたのは、連日窯を焚いているのに、床面に湿気があることだ。特に奥壁際の床面と側壁基部は明らかにぬれている。窯づめの際にはここにトタンを置いて製品を積んだ。
古代の須恵器でも、地下式窖窯の湿気対策が施されたり、焼き台が必要な理由がよくわかる。
午後からは窯焚きが始まった。
いまは注文によって赤焼きと黒焼き(還元雰囲気焼き締め)を焼き分けているそうだ。Sさんは赤焼きの場合は薪100本、タイヤ5〜6本。黒焼きの場合は薪200本、タイやは使わないという。今日明日の焼成は後者だ。
私とTさん二人はLさんの宅地兼工房の敷地の平板測量をした。Lさんも興味深かそうに伝ってくれた。
こんにちは、歴産3年のさちこです。
今年も残るところあと少しですね。慌ただしい年の瀬、いかがお過ごしでしょうか…?
さてさて、今回は12月15〜20日にかけて行われた秋山郷調査の様子を紹介したいと思います。調査の経緯や出発時の様子については、以前のブログを見ていただければ…。
15日の午後4時過ぎ、先生+学生3人+たくさんの荷物を乗せて、いざ出発。車内でラジオドラマを聞きながら、秋山郷を目指します。途中、吹雪や交通渋滞に巻き込まれ、現地に到着したのがなんと夜中の11時半!先生、運転お疲れさまでした。そして、寝ないで私たちの到着を待っていてくれた民宿のお母さん、本当にありがとうございました。
翌16日の朝、目が覚めると外は雪景色に!私たちが到着した晩から朝にかけてコンコンと雪が降ったようです。集落内の坂道には、路面凍結防止のために水が流されています。長靴じゃないと歩けません!
この日は、以前お世話になった民宿へごあいさつに行ったり、その民宿のお母さんから話を聞かせてもらったり…。秋山郷小赤沢集落を訪れるようになって3年目。「前も来たことある子だよねぇ〜。」と、声をかけてもらえるのは嬉しいものです。そんな集落の方々に喜んでいただけるよう、ブックレット作りがんばりましょう。…ね。
…ということで、17日以降の様子についても追々紹介していきたいと思います。
午後は車でメコン川を渡り、Chane村に行った。
2003年にはじめてきてから3度目、来るたびに製品の焼きがあまくなり、焼成後に器面に黒い塗料を塗って済ましている。職人たちのやむを得ない対応のように思え、コスト削減もここまできたのかと考えていた。
市場にはラオスの食卓には欠かせない搗き鉢クロックが売られているが、非常によく焼きしまったビエンチャンから来たものと焼きのあまいChane村産のものが並べておいてある。どちらがよく売れるか一目瞭然と思いきや、片や20,000kip、片や5,000kip。焼きがあまく、黒く塗ったChane村の製品が安くよく売れるそうだ。
この日、窯出しをしていたLさんに火前にあったクロックが良く焼き締まって還元色がでていたので、「いい焼きですね」って声かけたら、自嘲気味に「よく焼けると壊れないからダメだよ」「たくさん買ってもらうためには壊れやすくないと」。
この言葉は村の現状を端的に物語ると同時に、その製品がよく売れる現象は、生産技術というのが消費者側の認知と深くかかわっていることを思い起こさせてくれる。
Lさんの窯は、明日8時からお兄さんが窯詰めするが、その前だったら中に入って実測してもいいよと言うので、早朝からこちらのお宅にお邪魔することになった。
p村Kさんの樹液塗りを見学した。
焼き上がった土器を七輪の上におき、薪を焚く。熱くなったところでせんべいのような樹脂キーカンを棒の先につけて塗っていく。すぐ乾くので手につかない。植物性でいやなにおいもない。水漏れが無くなるのでお湯が速く沸く。外面の煤は洗うと落ちやすい。壊れにくい。水の貯蔵用には塗らないものを使う。もちろん、塗らないものより割高だ。キーカンは1枚5,000kip(50円)で市場に売っている。キーカンは接着剤として使用したり、古いシャツをこれを溶かしたお湯につけて洗濯糊?にしたりすることもあるそうだ。
Kさんと別れて市場の価格調査に出かけた。ポーシー市場では、Lサイズのモーナムが80,000kip(800円、樹脂塗りなしは70,000kip)、旧ナーベンカム市場の前の店ではLLサイズのモーナムが120,000kip(塗りなしが100,000kip)。Mサイズが25、000〜30,000kip、Sサイズが20,000〜25,000kip。ナーベンカムのおばさんはここ1年土器は売れていないと。そのせいか破格の値段だ。
朝ゴミ収集車が回ってきた。1週間に1回だけ来る。
出したのは籠1個分のみ。何とごみが少ないのか。
この家はレストランをやっているのにこの量なのだ。
車はゆっくり走りながらアシスタントが積み込み、ごみ箱は放り投げる〜
朝から事前に約束しておいたP村のKさんを訪ねた。
ここの土器は樹液を塗るものがある。フィリピンやベトナム南部に事例があるが、タイ・ラオスでは見たことが無い。いつ、どのタイミングでどんな方法でやるのか興味深い。今日は午後15:00から野焼きをするというのでこれが見れると思い楽しみにして来た。
伝統器種はモーナム、モーケンの二つだけ。モーナムは4サイズほどあり、薬やハーブを煮出す鍋、タンブン容器として使われている。本来の水甕としての使用はもうない。モーケンは骨入れ容器、小型の取っ手付きは主にレストラン卓上用のスィンチュム(トムヤムセット)として使う。
非伝統器種として、七輪の灰落としリンタオや植木鉢ガターン、モーナム形の貯金箱をつくっている。
午前中は成形を観察した。
基本的な方法は、タイ東北部と同様に、円筒原型から叩きによって成形する。ロクロはChane村と同じコマ型の一木造り。円筒原型から口縁部を水挽きする際に、回転台として利用するのみである。どうみても、窯村から新しく導入された道具としか思えない。
叩き板マイ・プップは珍しく竹製だ。肉厚の竹を使い断面がかまぼこ状を呈する。丸い部分で頸部のくびれを上手く叩きだす。器面を平滑にする叩き板は木製。当て具は石。
観察の合間に各種土器の寸法を測ったり、道具を実測して過ごした。
昼食はこの家で食べた。表通りからは全く見えない裏庭がレストランでナムカーン川に面したいいロケーションである。大学生の男女が仲良くトランプで盛り上がっていた。
午後からは早めに野焼きの準備が始まった。Kさんの息子が材料の竹を粗割りしたり、藁を集めたり準備する。我々が燃料の重さを測る際も献身的に協力してくれた。
驚いたのは、リンタオやガターンは事前に七輪で予備焼きをすること。大型のモーナムも中にヤシの葉を入れて火をつける。割れを防ぐ措置である。お婆さんの時からやっているという。普通は雨季のみの措置と聞いて安心した。
土器のセットが終わり、こちらの温度計も設置でき、予定より早く14:10点火した。
主熱源は竹。稲わらによる覆い型野焼きで灰を被覆材として少量かける。点火後、操作はせずほっておく。竹は40kg、藁は24kg。野焼きででた灰は畑で使用する。
17:00にみんなで焼けた土器を仕舞い、一日の仕事が終わった。
ところで樹脂はいつ塗るの?明日だよ!
普通は野焼き直後の熱い土器に塗ってコーティングするのではないのか・・・・。ともあれ、明日も来るしかないということになった。
土器は娘さんが市場の販売店にもっていく。30個注文があって、2個割れたら28個もっていく。それでいいのだそうだ。
歩留まりを考えて余計につくるタイなどと需給の考え方が違うところが面白い。
この家の前の道路は近年整備され、その先に観光客がよく訪れる織物の村がある。道端に土器を乾燥させていたり、焼成中の煙を見て興味深そうにのぞきこむ人が後を絶たない。そのせいか、かつて40枚もあった叩き板(土器作りを止めた村人からもらったもの)はもう数少なくなったわよ!と。日本語で話しかけてきた男の人はここの大学の韓国人教授だった。この大学は韓国の支援により運営されてらしい。
夕飯をたべて宿に帰ると、W君がまたビールを飲んでいる。今日は女の子二人が一緒だ。ミーティングをしているとGさんが一人でこっちにやってきた。日本に興味があるらしい。彼女は中国国境に近いルアンナムターの出身。大学で経済を勉強している。もう一人のLさんはノンキャウ郊外の出身で経営を勉強していて伝統文化にも興味があるらしい。しばらく楽しく話をした。彼女たちはW君とともに飲みながら朝まで地べたで寝ていった。
chane村の3つの窯はフル稼働。
Sさんの窯は朝から家族総出で窯出し、午後には別の家族の窯づめが始まる。
Iさんの窯は朝まであぶり焚き、午前中に攻め焚きに入りお昼には閉塞した。現在、chane村の窯焚きは24時間で終わる。かつては2泊3日ほど焚いたというが、今では1泊2日。さらに驚いたのは古タイヤが燃料として使われていることだ。薪燃料の高騰が原因だ。攻めの時に5〜6本使う。油臭い黒煙が上がる。前回みた、「塩」は使われてはいない。
Rさんの窯も朝9時には黒煙が上がっていた。攻め焚きが始まっている。
今日はIさんの工房で成形方法を記録する。ここの成形は夫婦協業の手回し轆轤が特徴だ。直径53cmのコマ型で重さ42kg。マイ・ドゥの一木造りだ。ハイという壷やすり鉢の成形をみた。
奥の2階建ての工房には蹴ロクロが2台置いてあった。聞くとスウェーデン人の夫婦が1年に一回ここに滞在して作陶していくそうだ。彼らが特注で職人に作らせたものらしい。
昼食はIさんの自宅で食べることになった。生きたアヒル2羽と豚肉を買ってスープや串焼きなどを作った。アヒルの肉が少ないと思ったら、1匹は血抜きの前に逃げたそうだ!買ってきたSさんとさばいてくれたJさん、苦笑い(~_~;)
ここではお米は朝昼がカオニャオ(糯)、夜はカオチャオ(粳)だ。
午後からはIさんの工房敷地をTさんと二人で平板測量した。Tさんが苦労して日本から平板やスタッフを持ってきたので活用せねば。
夜、ナイトマーケットで水牛の角で作った櫛を買うのにおばちゃんに値切り交渉してると、隣で去年アッタプーでお世話になった情報文化省のT氏が買い物をしている。なんという偶然。1年ぶりの再会を喜び抱擁。同伴のベトナム人女性の具合が悪いらしく来年3月の再会を誓って別れる。
朝6時前にルアンパバン名物の托鉢行列を見に出かけた。
まだ辺りは真っ暗。
ホテルを出ようとすると、入り口の扉の前でバイトのW君が寝ていた。毎晩冷たいタイルの上で蚊よけの蚊帳をかけて寝ている。門番なのだ。扉の鍵を開けて出ようとするとあわてて起きてきた。W君はルアンパバン唯一の国立大学に通う学生で、夕方4時から朝6時まで14時間勤務。月6万円を稼ぐ。結構ハードなバイトではあるが、毎日フロントに座ってひたすらパソコンでゲームをしている。時折、かかってくる電話や、空き部屋が無いか訪ねてくるお客の対応をする。夜はビール(ビア・ラオは一本80〜100円、安くてうまい!)を飲みながらテレビを見て過ごしている。学費は年間15万円程度らしいので、バイトで十分賄える。しかし、正月明けにはくびと言われたそうだ。大学の研修か何かでしばらく休まなくてはならないのが原因らしい。
表通りには暗いうちから観光客がたくさん集まり、行列が来るのを今か今かと待っていた。離れたホテルからは団体の車がつぎつぎ押し寄せる。あたりが白みだしてしばらく、6時30分ごろからようやく修行僧の行列が姿を現した。観光客が托鉢を体験できるようにティプカオに入ったもち米や供物が売られている。僧たちは寺ごとに行列をつくり、在家信者の女性たちからひとりひとりもち米等をもらい黙々と歩く。
裏通りは比較的静かだ。その時、違和感のある風景に出くわした。托鉢する僧たちがもらったお米を、今度は大きな籠や袋を持った子供たちに少しずつ分け与えている。さまざま境遇のものたちが共存していくシステムのようだ。