歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2012-12-28

今年最後の佐藤ゼミ発表は?

久しぶりの投稿になります。ライスです!!

今年もあと3日で終わってしまいますね…。今年1年、皆さんはどうでしたか?私は、忙しい日々が毎日続いてばかりで、ある意味充実してこの1年を過ごせたかなぁ?と思います。

 

さて、本題に入りましょう。

12月21日に、今年最後の佐藤ゼミがありました。発表したのは、都合により私1人だけです…。ちょっと寂しい気はしましたが、気を取り直して、頑張って発表させていただきました!!

 

発表内容は、「御徒組と先祖の繋がり」についてです。

前回の発表では、「分限帳」という史料を基に発表しました。ですが、その史料のくずし字を全て読むことができず、深く内容を追求することができませんでした。なので、今回の発表では、読みきれなかったくずし字の内容と前回の質問に対する説明を中心に発表していきました。

PS:今回も史料と画像が多くて、ゼミの皆さんにはページをめくる際、苦労をかけたと思います…。(汗)

 

ゼミの最後に、余った時間を利用して、青本を使いゼミの皆で互の短所・長所を見つめ直す…なんてこともやりました。

自分の短所・長所を10分で青本に書いたのですが、これがなかなか書けないっ!!短所はスラスラと書けるのに、長所は全く書けなかったです…。

その後は、皆で、その人の短所を長所に変えていきました。なんだか、心が軽くなったような気がします!

 

今度の佐藤ゼミは、来年になります。なので、今度の発表者は時間的にも余裕があるわけです!なので、来年のゼミの発表者には期待しておこうかな?と思っています。(笑)

 

皆さん、良いお年をお過ごし下さい!!

 

 

2012-12-23

雪舞う骨寺

 2012年も残り10日を切りました。一年とは早いものだなぁとしみじみ感じますね、KUSSYです。少しばかり報告が遅れましたが12月9日に岩手県一関市骨寺地区にて行われた『中尊寺米納め』へ参加してきました。この催しは、中世の頃より強い結びつきを持っていた骨寺荘園と平泉中尊寺の一端を現代に復活させ、この伝統を未来へと継承していくことを目的とし、その年に収穫した荘園米を中尊寺に奉納するというものです。

 

 前夜からの降雪により、骨寺は一面の銀世界となっていました。白装束や荘園米を担いだ蓑の行列と雪景色がマッチして、夢か現実かと思われるほど幻想的な光景でした。駒形根神社~慈恵大師拝殿までの雪で隠れてしまった田園沿いの道を進み、途中にバス移動も挿みながら平泉中尊寺拝殿まで巡行し米を納めました。

 骨寺地区のお爺さん・お婆さんから地元の小学生までと米納め参加者年齢は幅広く、この様にして上の世代から下の世代へと伝統の継承が行われつつ、中尊寺と骨寺との結び付きも継続していくのだと感じました。

 余談ですが、駒形根神社で頂いた甘酒が大変おいしかったです!甘酒と雪景色の組み合わせに風情を感じました!

 

2012-12-20

窯焚き

芸工大に待望の穴窯ができた。月曜日から初窯をあぶり、二晩焚いて今晩閉めに入るらしい。今、攻めの最中である。湿った薪に苦戦していた工芸の学生さんたち、ほんとうにご苦労様。

 

 

火を見るとテンションあがります。体が熱くなってきます。学生たちがうらやましい。来年は一緒に焚かせてください。

 

 

赤熱した煙突から上がる火柱 2012.12.20 16:40

2012-12-18

遺跡を残す努力

土地の記憶が形象化された場所を遺跡という。そして、土地と会話する手段の一つに「発掘調査」がある。担当者はその記憶をよみがえらせる役だ。

 

土地に刻まれた記憶は発掘調査してもなかなか答えてはくれない。しかし、その記憶の一部をとどめ置くことはできる。そうすれば、また多くの人々がその記憶と対話する。

 

土地が語る記憶は一つではない。時代とともに違った語り口がある。対話する人によって聞こえる言葉も違う。遺跡とはそんな場所だと思う。

 

埼玉県鳩山町赤沼瓦窯ーかつてこの遺構を残したいと思った人たちがいて、その努力で発掘した窯跡に覆い屋がかけられた。廃屋のようになってしまったが、周辺の確認調査が行われ、たくさんの窯跡・工房跡とともに、いま新たな史跡として現代によみがえろうとしている。土地の「記憶」が、ここの地域「らしさ」を物語るものとしてふるさとの住環境の整備に寄与するのだ。そして、この「廃屋」もその象徴として修理され、再生するという。

覆い屋を建てた人たちの想いに敬意を表したい。

 当時の粘土採掘場の遺跡から掘った粘土で瓦塔を作る。惚れ惚れとするいい粘土だった。東日本の一大窯業地がここに築かれた地質的要因の一つはこの粘土だろう。耐火度は低そうだが、須恵器程度の焼きものでは良好な焼き締まりをみせる。

2012-12-18

順序が変わりますが...

私の更新が遅いからこうなるのです

本当にすみません、いつも迷惑かけまくりなトラブルメーカーボーダーです。

 

 

最近は、パソコンと自分の体調の不良がいつくるのか、それにビクビクしながら生きてます。

 

 

 

パーカーさんが先に更新してましたが、このお話はその前の前の話になります。

Kさんと私の発表です。

Kさんは、おなじみ上杉謙信について。今回は、軍事面ということで川中島の戦いを例に戦略や軍功について発表されました。

今でも有名な川中島の戦いですが、実は私この発表を聞くまではほとんど知りませんでした(テヘペロ☆)。

私は、前回同様月事について。今回は『蜻蛉日記』なんかも使って女性視点から月事について考え、たかったんですけどね。

できませんでしたね。

 

卒論テーマもそろそろ絞れてきたかんじでしょうか。

私は、就活がなかなか進みません、圧倒的に足りない(エントリー数)。

 

 

載せるほどの画像もないのでここらへんで失礼します。

2012-12-13

長谷堂城、行きました

当日はあいにく小雨がぱらつく天気(この後本格的な雪!)となってしまいましたが、2年生の歴史学応用演習で長谷堂城に行ってきました。

はじめに本沢コミュニティーセンターの大沼さんに、長谷堂城の要所要所にて城のつくりや仕掛けなどをご説明いただきました。長谷堂城から上杉軍陣屋までの距離や山形城の方角など、お話を伺いながら実際に見ることができました。

日頃授業で読んできた、最上義光や伊達政宗の書状の内容など、改めて実感できたひとときです。

このあと場所を本沢コミュニティーセンターに移し、ボランティアガイドの会会長の伊藤さんから、慶長出羽合戦について、身振り手振りを交えてのお話を伺いました。

この合戦に由来して、いまでも十三夜の月見の餅は急いで食べなければならないという伝承など、地元に言い伝えられてきた興味深いお話が盛りだくさんでした。

 

 お寒いなか我々のために現地でいろいろとご案内いただいた大沼さん、また熱い思いがひしひしと伝わってくる語り口の伊藤さん、本当にありがとうございました。

2012-12-13

佐藤ゼミスピーディー発表

お久しぶりのアイスが無性に食べたいパーカーです。

すっかり、寒くなり、雪も降り、風邪も流行に乗ってきました。

朝と夜が寒いので、みなさん風邪には気を付けましょう!

なぜなら、佐藤ゼミは前に週ごとに風邪をこじらせる人が連続したので…。

それなのにアイス食べたいとか言ってすみません。反省はしていませんが、言っとくだけ言っておきます。

 

さて、今回は、わたくしパーカーとstagさんと先々週の(もう先週の話なので)弁慶さんの史料の残りを発表しました。

なので、弁慶さんの発表は、先々週担当の人に任せます。

では、発表の内容の方に移ります。

まず、一コマ目のstagさんの発表は「大石田河岸における最上川差配」についてでした。

狙いは大石田河岸の利用方で、中でも最上川差配を重点的においたそうです。

大石田河岸は、最上川流域中部に位置し、上流には三難所を控えた中継河岸とされ、領主的運輸機構の中枢として発展した。

最上川船差配では、村役人が船肝煎を兼帯、他に船差と呼ばれる船問屋によって行われ、通船毎に取り立てた差配料、商荷運賃の十分の一庭銭の分配を行った。大石田河岸における川船差配は、村請の形で請け負われ、これに船方の代表として船差が加わる形となっている。

上記は、レジュメから一部抜粋してきました。

他に史料を読んで気になったワード「登荷物」

これが大石田から酒田を抜け大坂へ送られると説明にありましたが、船の航路を表すものなのか荷物自体をさすのか気になるところでした。

他には、古手ですね。”ふるて”と読むそうです。

中古品のことで古着も含まれるそうです。

廻船のことについては、知識が無いので毎回発表される度に勉強になっています。

 

次いで、私の発表です。

時間的に40~45分くらいしかなかったと記憶しています。

その中で急ぎ足で発表しました。

今回も義経関係で、テーマは「義経伝説と義経神社」です。

義経神社は、私の地元北海道平取町にある神社です。

平取は”らとり”と読みます。間違えてひらとりと読まれるので念を押しておきます。らとりです。大事なことなので二回言いました。

では、内容です。狙いは、義経伝説と義経神社の記述を重点的に調査しました。

義経伝説の記述では、義経が平泉を逃れ蝦夷に逃れたという記述と義経意外にも安倍氏と呼ばれる一族内でも敗戦後蝦夷に逃れるという逃げ道の手段があったようで、藤原泰衡も蝦夷に逃れようとして肥内群贄柵で討ち取られた。しかし、義経が蝦夷に逃れたという説は、裏付けがあるわけではないので、史実とはされていない。

義経神社では、創建説が諸説あり、一般的には1799年幕史近藤重蔵が蝦夷地探検で訪れ、義経がアイヌの人々に信仰されていることを知り、翌年に神田の仏工に彫らせた義経像を平取のハヨピラに寄進したのが始まりとされている。なお、この義経はアイヌの英雄神オキクルミと同一よ見られている記述が新井白石の『蝦夷志』などに記されている。

上記は、レジュメの一部を簡単にまとめたものです。

今回も決定づけるような史料を見つけてくることができず、調査対象が北海道なので書籍も山形の図書館では少ないことが仇となりました。

次回の発表は冬休み明けなので、現地に調査しに行ってきます。

では、長くなりましたが、ここでパーカーからの発表報告を終わらせていただきます。

画像は、stagさんの使った史料とわたしの蝦夷志の一部です。

 

ふじさん!パソコンは大事にしますよ!!

2012-12-09

石の声を聞け

白河の冬はよく冷える。

午前中は天気が良かったが午後から那須降ろしが吹いてきて気温が下がった。

崩落した小峰城の石垣、南面に続いて西面・北面も石材撤去がもうすぐ終わる。

石垣が地震でどんな挙動を示し、どう崩れたのか・・・・。地面に最初に落ちた石材がその証言者だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地面に突き刺さるように立つ石材群 西面

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1回転して石垣側に面をみせて横たわる石材群 北面

 

 

 

 

 

2012-12-08

考古学と現代社会

2年生が夏に体験した発掘調査を振り返りながら、遺跡を掘ること、残すこと、現代社会における考古学の役割について話し合った。

考古学をすることを通してあなたはどんな「美しいもの」「価値のある」ものに出会うのか。炎天下で行った発掘であなたは何を発見したのか、どんな未知なる自分と出会ったのか?

芸術大学で考古学を学ぶ意味はどこにあるのか。

 

「自分の頭で考えられることはたかが知れている」これは私の恩師の一人が教えてくれた大切な言葉だ。

それは、体で考えろ、という意味と大勢の意見をぶつけあえ、という二つの意味を持っている。

わたしは前者の意味のことを現場でいつも言う。

今日は後者の番だ。

さすがに7人いると、直球、カットボール、スライダー、シンカー、フォーク、ナックル、大暴投・・・。実に面白かった。ボードに並んだ様々な意見。3時間があっという間だった。

かわるがわるやった座長もたいへんだったろうが、いい経験になったはずだ。まだまだ頭はかたい。だが意外と発想転換できる柔軟さをもっていることも発見した。今後が楽しみである。

2012-12-05

1万年前の石器作りの技に目を見はる

高畠町日向洞窟(国指定史跡)は、1万年あまり前、氷河期が終わり人類が定住的な生活をしはじめた縄文時代草創期の遺跡である。1987年、洞窟西側の畑が町教育委員会によって発掘され、石器製作址から大量の石器が出土した。

 

3年生たちが石器の勉強にやってきた。

 

優美な石器や石核、大量の剥片に混じって出土した土器の量は本当に少ない。「人類が化学変化を利用した最初の発明」とも言われる土器。土鍋として使用するに足りる作りはしているが、薄作り・控えめな装飾以外、さして特徴はない。

しかし、石器作りへのこの異常なエネルギーはなんだ。

 

先史から古代・中世の土器を通時的にみていると、その強弱が繰り返す。かねがねそう思っていたが、石器技術もそうらしい。モノは社会をうつす鏡である。

 

モノの向こうに人・社会がみえるか。みようとするか。その目線と方法を獲得しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高畠町にて

 

 

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