どうも相変わらずテンション意味不明なパーカーです。
年明けました。今年は、今3年生の人は忙しい年になりますね。がんばりましょー。
とりあえず、鍋が食べたい季節真っ盛りになりました。
今年の冬は、引きこもることができないので、ショックを受けています。
前置きはこんなところで内容の方に移ります。
あっ、弁慶さん。前回の発表お疲れさまでした!
今回は、わたくしパーカーとトマトさんの発表でした。
(トマトさんってトマト好きなのかな?そうならトマト農家な私万歳!)
私はお馴染みの義経関係の発表でした。「義経神社と北海道にみられる義経伝説の傾向」というものです。
相変わらず長いレジュメ(最早レポート)で申し訳なかったです。
義経神社関連は、前回の私のブログ記事に記載しているので、そちらをご参照ください。
(佐藤ゼミスピーディ発表です)
北海道義経伝説の傾向は、道南、日本海岸側、道中央部は比較的東北でみられる義経像と同一のものが多く、地元の人と好意的に接していたものが多く流布しています。
しかし、道東地方では、悪人伝説といわれるものが多く流布しています。
その内容は、娘を騙し、巻物を盗むなど泥棒としての義経像があります。
ただし、同じ地方でも屈斜路湖周辺では、好意的なものがあったそうです。
悲劇的で善人として描かれることが多い義経に悪のイメージがみられるのは大変興味深い内容です。
上記は私の発表の一部です。
トマトさんの発表は、牛車についてです。
個人的に平安時代の話は面白いので好きです。
牛車が門を通る時に東と西で違うことや中門廊と呼ばれる中門近辺にある廊下の説明など丁寧にしてくれました。
牛車の装飾を弓と矢で飾ったものが評判が悪いため、取り外したという内容のものがありました。
トマトさんが史料から読み解き考察してきた絵から、全員がその牛車がどのような装飾だったのかを考察できたのがよかったです。
大昔のもので、史料からしか読み解くことができないため、それぞれの意見を聞いて考えることができました。
トマトさんの発表は、レジュメも簡潔に作られているので、いつも見やすいなと思っていました。
質疑応答の時間にやたらとカスタムという言葉飛び交っていましたことは、ここだけの秘密です。
次は、いよいよ打ち上げの話です。
後期も今期も含め、3年生最期の打ち上げpartyをしました。
7時から始まりました。場所はお馴染み寧々家さんです。
現地集合で、続々と集まりました。1名は既に店内にいましたが…。
先生が大御所のように最期に来たところで、(飲み物頼み中)…カンパーイ!
佐藤ゼミは意外と酒飲みが多いようです。ライスさんも相変わらず赤くなりながら飲んでいました。
しかし、隣のふじさんと斜め前のボーダーさん…テンションが上がってまいりました。
離れた場所で飲んでいるトマトさん…、全然変わらない…だと…。恐ろしや。
あっ、私はしらふです。飲むと直ぐ眠くなるんです。
話した内容は…あれ?おかしいな。ポケモンの話しか覚えてない。
ようは、ポケモンの話がほとんどでした。
佐藤ゼミっていつもこんなんですよ。
佐藤先生いつもすみません。みんなを代表して、謝っておきます。
なんやかんやで飲むペースの速い佐藤ゼミは、次々と注文し、店員さん忙しそうでしたYO!
そして、10時に電車組女子2名が帰り、残りのメンバーはカラオケに行きました。
人数が多いので、2部屋借りました。さぁ、運命の部屋決めジャンケン…結果はー!
8:蜻蛉、K、弁慶、stag
10:佐藤先生、ふじ、ボーダー、私 です。
まぁ、見事に男・女+先生で分かれました。
ある男子は、これじゃあいつものカラオケと同じだと言っておりましたのは、後日談です。
それからは、私のいる部屋は前の時よりはマシでした。(私はいつも通りでしたが、HAHAHA)
先生は、昔の歌を私たちが知っていることに驚いていました。
そして、すごく写真に撮られていました。先生は12時に帰りましたが、帰るときの歌が問題でした。
その後、メンバー交換を何度もし、私と蜻蛉さんは部屋から動きませんでした。
歌いまくった一同は、2時半に解散しました。こういうのまたやりたいですね。今度は全員でカラオケ行きたいです。
それでは、わたくしパーカーからは以上です。
貼った画像は、打ち上げとカラオケの1コマです。リンちゃんなう!
それでは、長々と失礼しました。おわります。
こんにちは、弁慶です。かなり久しぶりにブログを更新しました。
佐藤ゼミでは一応すべての人が発表し終わりました。本当はもっと早く更新したかったのですが、のびのびになってしまいました。
今回の私の発表でとんでもないことをしでかしてしまいました。本当に猛省せねば。
さて、今回の発表はMr.stagと弁慶でした。
Mr.stagは「大石田河岸で用いられた船舶について」で弁慶が「百姓について」でした。
実は今回、弁慶はMr.stagの発表をほぼ聞いていません。
いろいろやらかしてしまって聞けなかったのです。
肝心の発表のほうも、テーマを絞れず、漠然としたものになってしまい、もうなんかいろいろだめでした。
しっかりしなくては・・・
1月7日 最終日
朝、市場でお土産の果物を買ってD村のUさんに会いに行った。2008年に初めてお世話になって以来、毎年訪ねている。その姿は小屋の木陰にあった。いつもと違う場所で土器を作っている。近所のJさんも作っている。二人はこの村の稼ぎ頭。今年も健在だ。ほっとする。
Uさん、突然の訪問に満面の笑みで迎えてくれた。よく来たね!今年は一昨日から作り始めたばかりよ。稲刈りが遅かったから。蓋の文様がこれまでと違う。どうしたの?と聞くと、自分で考えたのよ、と。あれだけ保守的だったUさんが・・・。ちょっと刺激してしまったか?
旦那さんは留守だったが、いつになく元気なおばあちゃんがいた。事故にあってから手の自由が利かなくなって元気がなかった。裏の仕事場に、口をビニールで縛ったハイが3つ並んでいた。聞くとおばあちゃんが漬けた竹の子らしい。今回はおばあちゃんから漬物や水甕オーンについてたくさん話を聞くことができた。
Uさんには二人の子どもがいる。お正月、帰省してた息子はもうバンコクに帰った。娘も今年、町の専門学校を終えて、バンコクに働きに出る(実はもう行ってる)。これからは3人だけの暮らしになる。Uさんたちに、また来ます!と言って村をあとにする。
午後ちょっと早めに、ウボンラチャタニーの空港に着く。今年こそ平穏に帰国したい。そう思ったからだ。いつも使うLCCはいつのまにかドンムアン空港発着になったので、今年はタイ航空を予約した。
カウンターに行くと、「DELAY」の表示。定刻17:45が20:30、大幅な遅れだ。これは遅れでというより明らかに機材のやりくり。帰国は23時の深夜便なのでまあ余裕で間に合うわと思って待った。預け荷物の重量オーバー(10kg)も何も言わないし、例によって片手にぶら下げたモーナム、頼み込んだら何とか持ち込みを許してくれた。100B分のクーポン券をもらったので食事をしながらくつろぐことができた。
ところが、なかなか飛行機がバンコクから来ない。私と同じようにバンコク・スワンナプーム乗り継ぎの欧米人が騒ぎ出した。スタッフがてんやわんやの騒ぎ。こちらも乗り継ぎがあることを申し出ておいたら、荷物を優先的に出してやるから心配するなと。
出発時刻になってようやく飛行機が到着。それからあわただしく機材整備をしたのだろう。乗客が乗り終わるやいなや、あっという間に離陸した。モーナムは結局、棚には入らず、1時間膝の上に抱えたまま(エアアジアなら入ったのだが)。
離陸したのが21:20。スワンナプームが混雑していたら結構やばい時間。正直ちょっとひやひやした。ちょうど1時間で到着。預け荷物はすぐに出てきた。カートに乗せて、3階のカウンターへ。オーバーサイズバッケージから大型荷物を二つ入れて、出国審査場に並ぶ。あわててお土産を買い、搭乗口にいったらもう搭乗がはじまっていた。全く無駄な時間はなかった。というわけで、なんとかトラブルもなく帰国できることになった。ほっとして心地よく機上で眠りについた。
今年も村の人たちの暮らしや技術からたくさんのことを学んだ。そのたびに脳がピリピリ音を立てて反応する。自然に笑顔になる。そんな快感をもとめてまた通うのである。
Cさん(57歳)の家で、旦那さんが野焼きの最中だった。モーケン100個を焼いている。そばには昨日焼いたモーエンナムが40個。カンタラロームのお店からの注文だそうだ。
イサーンでは土器を設置する際、地面から浮かせるために焼き台を用いる例が多い。多くは粘土を焼いた円柱・角柱の焼き台を用いるが、ここでは高さ10cmの壷形土器を専用に作り、倒立して用いる。今日はバナナの木を高さ10cmに輪切りにしたものを使っている。バナナは水分が多いので燃えることはない。以前、北タイで野焼き用覆い屋の柱にバナナの木の皮を巻き付けていた。火が直接あたっても柱が燃えることはなかった。
旦那さんは昔は野焼きする人が多くて、バナナの木が足りなかったが、今は少なくなったので使えるんだ、と説明してくれた。わかったような、わからないような・・・・
PS村は160軒ぐらいあり、土器を作るのは現在3世帯しかない。
たまたま通りかかった爺さん(72歳)曰く。この村の土器作りはダーンクウィアンからK村を経てここに来たんだよ。確かに言われたとおりである。
Cさん夫妻から粘土採掘~成形~販売についてヒアリング。土器作り道具を計測させてもらう。
卸値は水甕モーエンナムは50B、湯釜モーサオロー35B、鍋モーケン20B、小型鍋モーケンノイ(モーフン)15B。モーエンナムはK村よりちょっと高い。
イサーンではここ100年、このようにコラート周辺から農民が2次的、3次的に移住を繰り返すことで土器作り技術が拡散した。レファートさんたちが立てた仮説だ。それ以前の古いタイ・ラオ族の技術は一部地域に痕跡的にしか見ることができない。示唆に富んだ話だ。
1月6日
朝、市場で朝食。もち米おにぎりカオチーを買う。ラオスではナンプラーを塗って卵につけて焼くが、イサーンでは塩味が多いらしい。
K村
ラシー・サライという町に来た。コラート郊外にある焼き物町ダーン・クウィアンから技術が伝わって、土器作りが始まったとされるK村を訪ねるためである。陶器村から技術が伝わった土器というところが引っ掛かっていた。
田園地帯を走るとホンデンという紫小玉ねぎを満載しトラックが行きかう。トムヤムクンなどタイ料理のスープには欠かせない食材だ。シーサケット県はホンデンの一大産地で、畑には水撒きや収穫に忙しく働く人たちの姿があった。村の入り口のお宅で、娘と二人でホンデンの出荷作業をしているPさん(39歳)から話を聞く。K村は3つの集落合わせて約300世帯があり、うち10世帯で土器作りをしている。
Pさんは9人兄弟、4姉妹の末娘。娘たちはお母さんに習って全員ポターだった。11月~6月に土器作りをするが、ホンデン作りもほぼ同じ時期。80日~90日で収穫できるわ。いまやってるのは10月に植えたの。ホンデン作りが始まったのは10~15年前。現在では乾季の貴重な現金収入源となっている。
向かいの家では長女のKさん(56歳)がお母さんのSさん(81歳)と一緒に作業をしていた。Kさんによれば、5年前からホンデン作りがとても忙しくなり、それで土器作りをやめてしまった世帯が増えたという。3姉妹はここで土器作りをしているが、3女は結婚して他の村にいったので土器は作っていない。
Sさんは11歳の時(70年前)に3家族でここに来た。第2次大戦のあとのようだ。「ダーンクウィアンじゃないよ」「アンプー・ノンスーンのバン・ポッポウという村だよ」「2家族は帰ってしまったけどね」「母親はポターだったよ」「いきなり、ここに来たんじゃないよ。途中、ウトンポンピサイという町に住んだんだよ」「汽車に乗ってきたよ」「田んぼを探しにきたんだよ」「旦那は早くに死んじゃった(Mさんが15歳の時)」
3世帯に囲まれた空き地に野焼きをした跡がある。昨日焼いたモーナムをポットショップの主人がピックアップで取りに来ていた。お店の人と一生懸命積んでいたのは、次女のMさん(49歳)。水甕モーエンナム(モーナム)83個、1個40Bで売る。こんなにたくさん積めないのではと思っていたら、ポットショップのおやじはさすがに慣れたもの。土器の間に藁を挟みながら上手に全部積んでしまった。Mさんは週1ペースで野焼きし、1回30~40個焼くそうだ。旦那さんが薪集めや野焼きを手伝う。昔は俺がクエン(牛車)で3日ほどかけて売りに行ったんだよ。今は電話注文で、車で取りに来てくれるから楽だよ。
Pさんの成形道具を計測し、叩き板や当て具の使い分けを教えてもらう。ここではチュア:粘土が2:1と前者が多い。耳を疑い、混合する際のバケツの分量を確認したが確かにチュアが多い。土器の断面もチュアだらけである。K村の土器作りは紛れもないコラート起源の技術であり、典型的なイサーンタイプだ。なのに,コラート近郊にある有名な陶器村ダーンクウィアンを引き合いに出してルーツと伝承するところが面白い。ただし、当のおばあちゃんは一言もダーンクウィアンと言っていないはず。
ポットショップのおやじ曰く、シーサケット県にはもう一つ土器作り村がある。カンタラロームのポンサイという村だ。K村から技術が伝わったって話だよ。昨シーズンは作ってたけど、今年はどうかな?
いかねばなるまい・・・・・
1月5日
ラオスを出国する。ボーダーでちょっとしたトラブル。同行のタイ人のパスポートが消えた。ラオス側の窓口は通過した。しかし、タイ側に入ろうとしたときにパスポートはなかった。ラオス側で返してもらっていない…橋を引き返して聞くが知らないよ・・・どう考えてもミステリー。結局見つからなかった。闇ルートで売買されるといううわさも・・・
不審な段ボールを満載した車が止められた。これまで何度も行き来したが、はじめてX線検査を命じられる。明らかに疑いのまなざし。「中はポットだ!」信じてもらえない。みんな一緒にモニター画面を覗く。「次はスーツケースを持ってこい!」「・・・・・・・」テレビ画面には映ったのは、ここにも満載のポット・・・・。あきらかに不満そうな、あきれた顔の検査官。
ナコンパノム空港で帰りのチケットを取り、大切な荷物を日本に送るため郵便局に走る。半ドンの土曜日閉店間際になんとか飛び込む。再び空港に戻り、二人を降ろして一路ウボンラチャタニーを目指す。5時間かけて到着。ウボン在住のC先生と再会し、夕食を共にする。昨年のアッタプー調査や床屋の話で盛り上がる。LOTUSで下着やお土産を買いこみ、定宿でくつろぐ。
明日からはシーサケット県で最後の調査だ。
1月4日
今日も朝から2時間半ほど走った。村に近づくが車窓からみえる水甕モーナムはみな見覚えのあるNB産。土器作りが廃れて相当の時間がたっていることを予感させた。メコンの支流セーボン川に沿って二つの村はあった。PP村とKPS村。土器作りをやめて30年はたつという。KPS村はPP村から分かれてできた。戦争の後(1975年)、村は40軒だったよ。いまは103軒。20年前に川からポンプアップするようになって二期作をするようになった。案内してくれた親切なおじいさんが語ってくれた。村の中を貫流する水路は満々と水を湛え、たらい船に乗って遊ぶ子供たちの歓声が響く。どこの家にもNB産のモーナムが二つ、三つ並ぶ。
かつてのポターは3人存命だという。Tさん(86歳)を訪ねた。粘土採掘、成形、焼成、販売、懐かしそうに昔の話をしてくれた。自分が作ったモーナムを宝物のように30年使い続けている。どこを探しても古い地元産モーナムはカケラ一つ落ちていない。すでに道具を持っている人もいない。お願いして、中の水を出し実測と写真を撮らせてもらう。
将来の考古学者は在来の土器型式がすでに断絶したと時期とみなすだろう。これが壊れて捨てられて時、それは「混じり」と判断されるのだろうか。
この土器は村で土器作りという生業があったこと物語る生き証人である。おばあさんとともに長くここにあってほしいと願う。
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土器の野焼き(NT村)
午後から野焼きを見る約束していたNT村に向かう。いつもと違う国道13号から入る。集落が森を開拓し、田を広げていった様子がよくわかる。いまは炭焼きシーズン。皆忙しそうに窯づめ・窯出しをしている。
15:30村に着いた。待ってましたとばかりに、ポターや近所の女の子たちが、手に手に土器を持って田んぼに集まった。久しぶりの野焼きに女たちはお祭り騒ぎのようだ。年長の女性が仕切り、一番若いBさん(38歳)が手際よくさばく。樹皮と稲藁で焼くこの地域通有のやり方である。家路につく水牛たちが遠巻きにみている。
元村長が粘土採掘場を案内してくれる。田んぼのなかを30分歩いて、ホワイ(池)のほとりに着いた。国有地の干上がった池から掘る。地表から1m、現場仕立ての木の鋤で掘り、その下にある粘りの強い黒色土を採取する。
村へ帰る途中、時々田から煙が上がる理由を聞いた。ねずみを捕ってるんだよ。長い稲株を焼いて隠れたネズミをあぶりだす。針金ワナや竹筒ワナで取るのは見たことあるが、こんなやり方もあるんだと・・・・。
地平線に日が落ちると、空が紫からピンク、茜色に染まる。野焼き場所に戻ったころあたりは急に暗くなってきた。女たちが被さった藁を取って焼き上がった土器の出来栄えをみる。我々の帰りを待っている間、プレゼントした口紅を塗り合っておおいに盛り上がったそうだ。
ジョハリの窓からおばんです。蜻蛉と申す者ざんす。
私はお正月楽しく過ごしましたよ、母方の実家で卓球しましたしね。
正月太りもギリギリ回避しました。もし正月という魔物に屈してしまった方、まだ大丈夫、夏までに頑張りましょう。
今回はK氏とボーダーさんが発表した翌日に私が発表しました。
なぜ連続でゼミの発表をしたのかというと、後期の授業期間中にゼミ生全員の発表を終わらせるためです。つまり日程調整ですね。
ということで発表でございます。私の後期最後の発表は「天童氏に関する軍記物比較」というテーマで行いました。
皆さんは天童氏というものをご存じでしょうか?
天童氏は天童城(現・舞鶴山公園)を居城として、現在の天童市に勢力を築いていました。
伊達氏・最上氏と抗争を繰り広げ、村山地方北部に強い影響力を持っていましたが、天正年間に山形城の最上義光によって滅ぼされました。
今回の発表では、天童城落城について記されている『天童落城並仏向寺縁起』『天童落城記』『天童軍記』の3つの軍記物を取り上げ、それぞれの軍記物を比較・考察しました。
まとめとしては、『天童落城並仏向寺縁起』は天童氏についた将士の活躍に関する記述が大半であること、一方で『天童落城記』『天童軍記』では最上氏が天童氏についた武将に調略を仕掛ける様子や天童市に伝わる「喜太郎伝説」にも触れられているなど、『天童落城並仏向寺縁起』よりも読み物としての完成度を重視しているのではないかという結論に達しました。
ですが、天童落城に関する文書は非常に少なく、今回の軍記物に記されていることが事実かどうかを確認することはとても難しいということを改めて感じ、先のK氏同様、卒業論文への課題となりました。遅くても2月上旬あたりまでには最終テーマを確定したいですね。
そして私が発表で玉砕した後、その場にいたゼミ生全員で模擬グループディスカッションを行いました。
もちろん就活対策ですよ。私は進行役というものをやってみましたが、短時間で結論を導くために議論を進めるというのは非常に難しいことでした。
説明会参加や企業訪問、ES対策にSPI対策、面接対策とやることはいっぱいありますがどれも疎かにせず進んでいきたいですね。あ、もちもん卒論も。
明日は弁慶殿とMr.stagの発表です。詳細は2人のどちらかがブログを更新するのでそちらをお楽しみに…。
長くなってしましました、では皆さまおやすみなさい。私はこれから明日の授業のレポートをします。
社会の窓からこんばんみー。Kという者でありんす。
皆さん、お正月は楽しく過ごせましたか。
私は、あーー……………。
さて今回は諸事情により、私とボーダーさんが、発表の担当となりました。まずは私から。
私は例によって、上杉謙信を題材にして発表をしました。前回は川中島合戦に視点を置いたので、今回は関東出兵に関して発表しました。
とは言いつつも、内容自体は「概説」を深く調べて発表したというだけで、「論」というには程遠く(-_-;)。卒論を書く上での反省点となりました。
一方ボーダーさんは、前回に引き続き月事についてでした。月事の際の忌み期間はどれくらいかということで、日数についての問答や、物語の中での月事について読んでいきました。相変わらず野郎は突っ込みづらかったというのは秘密だ!!!
卒論もそろそろ動き出さないと、まずい感じですかね。就活もあるっていうのに。
……………………どっちもまだ始まったばかりなのに焦り気味なのって私だけ……?(汗)
兎にも角にも、どちらも成就するように頑張らねば……。という訳でこの辺で失礼します。
良い年になりますように。
1月3日
早起きしてNT村に車をとばす。年暮れ、陽が落ちてからようやく探し当て、再訪を約束した村だ。6~8年前にやめたというが、元村長の仕切りで、往年のポターたちが土器作りを見せてくれるという。もちろんタダとは言わないが。
8時半すぎに村に着くともう準備ができていた。経験者7名中(20名とも)、5名が集まった。4名は50歳以上であるが、Bさんは38歳、妊娠4カ月。まだ若い。土練り→台上成形→手持ち叩きと、全工程を、4器種すべてで再現してくれた。いつも作ってるような手際の良さ、久しぶりで楽しそうだ。時折、互いに品評し合う。よく聞くと、前日練習で10個ほど作ったそうだ。また、2年前にも注文があって、儀礼に使うモーナムを30個作ったらしい。土器作りをやめたといっても終わり方は様々である。
NT村は南3kmのNL村から分かれた。当初5軒から始まったという。Lさん(52歳)の親が移住1世なのでまだ新しい。6~7年前に電気が来た。15年前に町のほうへ出る道路ができた。それまでは行商に来た人の物を買っていたが、この道によって、買い物に出るようになったり、働きに出る人がでてきた。ベトナム商人が売りに来た金属鍋(ベトナム人が持ち込んだ鍋という意味で「モー・ベット」といい、「ツケ」で買えたという。)が広まり、土器が売れなくなった。売りに行くと値引きさせられる。価格競争に負けたんだよと。
竹かごに土器を入れ、ハープ(天秤棒)に下げて、4~5人で周辺の村に売りに行ったそうだ。売れるまで帰って来れないんだよ。だんだん売れなくなってきたのと、年取って疲れるので止めたさ。田では土器に代わって割れにくいプラスチック製の水入れを使うしね・・・・。昔からやってた機織りも4~5年前に止めたよ。これも他の村でもよく聞く話だ。
明日は午後4時頃から野焼きを見せてもらうことになった。急きょ、サワンナケートに移動する。
帰りにまたまたタンブン、みんなさわやかな笑顔だ。明日はサイブリーで二つの村を探してからここに戻る。