1月2日
年末年始、風が吹く寒い日が続いたがようやく穏やかな朝を迎えた。はじめての休日。
朝食後のカフェ・ボラン(古式コーヒー)。ふと、となりをみると床屋。小さな爺さんが一人でやっている。カフェのおばさん曰く。耳が遠いけど大丈夫だよ。バリカン1丁で刈り上げ、生え際をカミソリで剃る。水で湿らせるだけなのでちょっと痛い。手は小刻みに震えるが、カミソリをあてるとぴたりと止まる。年を聞いてびっくり。103歳という。5,000kip(50円)。若い女の子がやってくれたアッタプーの店の半値だった。
LAK35からタケークに向けて国道13号を2時間半ほど走る。イミグレーションで正月をタイで過ごした2人をピックアップ。町に戻って市場の調査。郵送荷物(土器)のパッキング。夜はメコン河畔、綺麗なレディーボーイがいるオープンテラスの店で食事。停電になるとタイ側の明かりがひときわ目立つ。星空を見上げつつ、たまには暗闇もいい。
1月1日
日常となんら変わることのない朝だった。違うのは昨夜遅くまで花火の音がうるさかったことと、LAK35にいることぐらい。
そういえば、車のタイヤがパンクしていた。昨日の悪路で釘を拾ったようだ。近くのパンク修理屋に預けて、市場に朝飯を食べに出た。素足の足の裏がチクチクする。小石が入ったと思って払いながら歩くがなぜか傷みが残る。ご飯を食べて、カフェ・ボランを飲みに行く時、石を踏んだとたんウッとなった。コーヒーを飲みながら足の裏を見ると血だらけになっていた。そう、ゴム草履の裏が車と同じことになっていた。血を絞り出し絆創膏を貼って、靴下をはくことにした。
今日も二つの村の予備調査。ケンコーまで行って、またダートを走り1時間余りでNa・Tuey村に着く。しかし、探していたのはNa・Thai村。似てるけど違った。正月早々幸先悪い。仕方なく、周辺でモーナムの産地調査をしてから引き返す。
●ラオ・ラーオ
当初、今日は半日休むつもりだったが、せっかくここまで来たので、3年前にブッドン村でお世話になった人たちに会ってから帰ることにした。途中、ラオラーオ(焼酎)作りを見学。3年前はタイ産の陶器ハイラオに貯蔵して運搬・販売していたが、最近は重いのでポリ容器になったよ。ここでも焼き物が駆逐されている。さらに大型水甕オーン、これがいま急速にセメント製に変わっている。在地産陶器はとうに廃れ、タイ・ラブリー県の製品(600THB=約1,700円)がラオスにも流通しているが、今ではより安価なセメント製オーン(120THB)が普及する。ここの主人はセメント粉を買ってきて自分で作る。製品と同じ値段で4個もできる。発酵したお米を蒸留するカマドの横でバナナチップを揚げていた。子どもたちが袋詰めする。一袋1,000kip(10円)。揚げたてはおいしい。
いざ出発!車に戻るとまたまたタイヤにネジ釘が刺さっている。あちゃっ・・・・。周りには何もないのでこのまま走るしかない。
●BD村
12:00をまわったころブッドン村についた。ポンポン、ポンポン、あちこちから土器を叩く音が聞こえる。
お土産を持ってTさんとSさん姉妹の家を訪ねた。あれ?誰?
見慣れない女の子が二人、赤ちゃんを抱いている。3年前ここにいたのは12歳のLと9歳のO姉妹だった。二人ともお母さんを助け、一生懸命土器を作っていた。Lは来年からビエンチャンに出稼ぎにいくと聞いていたので、いないことは分かっていたが、妹のOは・・・
聞くと、昨年やはりビエンチャンに出稼ぎに行ったとのこと。この村では12歳になると多くの子が出稼ぎにいく。
赤ちゃんを抱いていたのはSさん(31歳)の娘と友達?。Sさんの娘は15歳。3年前はタイに出稼ぎに行っていていなかった。妊娠したが彼氏と別れて村に帰ってきたという。お母さんと同じような年で母親になった。土器作るの?って聞くと、「いや」と。Sさんが籾摺り仕事を終えて家に帰ってきた。見慣れない若い男の人も一緒だ。聞くと旦那さん。彼も3年前は出稼ぎに出ていていなかった。おじいちゃんは?2年前に亡くなったわ。おばあちゃんは?森に行ってるよ。1歳だった末の息子は?お兄ちゃんと田んぼで遊んでる・・・。流動的な家族の姿にしみじみするところもあったが、ふと気づくと、子供が多かった頃の日本、私たちの親の世代とさほど変わらないのかもしれないとも思った。
Sさん、今年は田んぼの仕事が延びて、まだ土器を作り始めたばかり。これから忙しくなるわ、と。
●NS村
村の出口で、もう一つ探していたNS村の場所が分かった。
またまたダートを進み、14:00過ぎに着く。おばあちゃんが作ってる人いるよ、と案内してくれる。ここもアクティブな村だった。
田んぼ仕事がおわったばかりで、土器作りを始めた人はまだ2~3人。3月ぐらいには10名あまりになるよ。最年長は47歳、最年少は35歳。比較的若い。Lさん(38歳)の土器作りを観察する。5回行う手持ち叩きの2、3回目をやっていた。遊びに来ていた友達たちがサービス精神旺盛で、土練りから台上成形まですべての工程を見せてくれた。村長さんも丁寧に村の歴史など話してくれた。とてもフレンドリーな村である。2時間ほどの滞在だったが、予備調査を越える中身の濃い訪問となった。
17:00すぎ、朝立ち寄ったパンク修理屋に行く。社長にっこり。30,000kip(300円)。よくあるせいか意外と安い。ラオスのガソリンは10,000kip/ℓ
夜はLAK35で別のゲストハウスに泊まる。庭には周辺から集められたタマリンドの山。農家の人が袋詰めしてここへ持ってくる。オーナーは仲買いをしているようだ。
12月31日
今日も風が吹いて寒い。7:30に宿を出発。今日は二つの村を探すミッション。
●DKC村
サワンナケートから東へ1時間半ほど走るとケンコーというチャンポーン郡の中心地に着く。ここからソンブリーを目指し、ダートを走るが車は思うように進まない。悪路と壊れた橋をやっとの思いで渡り、11:00にDKCという村を探しあてた。3年前にブッドンという桃源郷のような村に出会った時を彷彿とさせる所だった。
村長さんたちと村の中や田を歩きながら、生業である製塩や製材の話を聞く。田には塩の結晶が析出する。それから土器作りの準備(乾燥粘土を小割して天日に干す)をする女性たちの家々を見て回った。10世帯ほどが土器作りをしており、アクティブな村だった。しかし、当の女性たちがいない。聞くといまはタマリンドの収穫に忙しいらしい。チュアの野焼きがセットされているが、今日は強風で焼けないという。ブッドン村とよく似た作り方であるが、回転台が高い、亀板に竹の皮を使う、特殊な叩き板があるなど地域色がある。機織りをしていたTさん(70歳)らから土器作りの歴史や技法について話を聞いた。1975年(戦争の終わった年)、村は15軒。全部の家で土器を作っていたらしい。
●NLC村
また悪路を戻り、NLC村を探す。地図がないので聞いては走り、走っては聞く。不思議なのはみんなよく村の名前を知っていることだ。100kmぐらい離れた村でも道を教えてくれるし、そこまでの距離を言う。ラオスやタイの農村でいつも思うこと。日本ではありえない。
300軒以上の大きな村だった。10世帯ぐらいが陶器をつくっていたが、4~5年前に停止した。理由の一つはアリ塚に作る地下式の窖窯が水没によって毎年壊れるからだという。もう埋めてしまってみれないよ。残念である。ほかには粘土掘りがたいへん、薪探しが難しくなったなど。コスト負担を購入に頼らず、自ら廃絶の道を選択した格好だ。
訪ねたお宅には旦那さん(56歳)が作ったという陶器があった。夫婦二人で回転台に向き合って作る。驚いた。器種が豊富なのである。7器種ある。甕のエンは3法量あり、使い分けている。作りもいい。それぞれ用途を教えてもらう。器形と使い方の対応がよくわかる。多くの焼き物村は末期になると、売れる器種に生産が偏り、作りは雑になる。ここは全盛期のまま突然消えたような感がある。近々もう一度訪ねるだろうという予感。後ろ髪をひかれる思いで村を後にした。
夜はLAK35という13号線沿いの町の安宿に泊まる。3年前長期滞在したゲストハウス。毎晩、経営者のベトナム人ママさんと子供たち(息子はレディーボーイ)の料理を食べた。一家は今年、タイ側のムクダハンに遊びに行ったということで、会えなかった。したがって懐かしのママパットはお預け。宿は埃っぽい、お湯が出ない、水が出ない・・・・、相変わらずだ。寒い中、3人でわびしい年暮れを過ごした。
12月30日
朝から強風で涼しい。昨日外に干した洗濯物が飛んで行った。
今日は二人がタイに帰るのでフレンドシップブリッジⅢからナコンパノムへ出た。空港とバスターミナルに二人を送ってから南下し、今度はムクダハンからフレンドシップブリッジⅡを渡ってサワンナケートに入った。
車は出入国で相当お金がとられる。挙句の果てに、サワンナケートではいわれもない罪でポリスにつかまる。600THBをなんとか400THB(なぜかタイバーツ)にまけてもらったが、もちろん領収書などない。あの警官たちは今晩何をたべるのだろうか。ラオスでは罰金とパンクはあきらめないといけない。
中途半端な時間だったので、夕方街中のポットショップの調査に出かけた。閉店していたが、外から覗いていると店主家族が中に入れと門をあけてくれた。モーナムやハイ、クロックは見覚えのあるもの。モーナムは一昨年調査したブッドン村、ハイはノンボック村の産だ。
なぜこんなにたくさん土器を置いてあるの?
おばちゃん曰く、よく売れるからだよ!
水道や冷蔵庫、プラ容器の普及で水甕はもう売れない、だから土器作り村が廃れる・・・単純にそう思っていたのでちょっと???
特に今年はよく売れたよ!それはね・・・・・
タイのイサーンからラオスでは「クンバンマイ」という新築儀礼に土器が不可欠なのである。新居の部屋の中に土器を置いて、水と米を入れて祀るのである。その後、いろんな村で聞いたところ、少ないところで1個、多いところでは5個使う。結婚式の祝儀入れにも使うさ。わざわざ土器が写った写真を持ってきて見せてくれた。もちろん葬儀にも使う。
このように土器は実用的機能とは別に、宗教的意味が付与されて、人生の節目節目で使われ続けているのである。日本でも素焼きの「かわらけ」がいまでも結婚式や厄払いに使われるのと似ている。
12月29日
今日は男が土器を作るNB村でハイやモーウナムの成形を見た。
この村で伝統的な土器を作れる男性はもう2人しかいない。Gさん(53歳)とTさん(62歳)である。内戦中、男たちの多くが村から離れ、土器作りは衰退した。Gさんはこの村で生まれ、戦後、父から土器作りを習い19歳から仕事を始めた。若いころは何度も出稼ぎに行き来し、村を離れた。タイにも行ったさ。
いまは田んぼが終わったばかりで、家を建てたり、窯を掘っているので成形は始めた所。男性助手が回す回転台でハイを作っていた。粘土紐を20本ほど積んでから内外にコテをあてて水挽きする。
今焚いている窯があるというので案内してもらう。アリ塚の窯が2基あった。タイミング良く、閉塞間際の窯焚きを見ることができた。最後には太い丸太を押し込み、青草を詰めて閉塞する。チャン村では草は閉塞操作の時に熱いからだというが、ここではその水分が表面を黒くすることと関係するという。煙道は閉塞しないのはチャン村と同じだが、ここでは焚口は入念に密閉する。窯出しした製品をみるとやっぱりしっかり還元がかかり焼きしまっている。銀化したものよりも紫(~緑)がかったのがいいという。窯焚きは一晩あぶって、1日半焚く。一窯で大小クロック1,200個、20,000Bの収入。薪代は1,000B。
窯の設計・掘削の寸法は「身体尺」を使う。肘から指先までの前腕の長さソーク(45cm)が単位だ。窯づめ中の窯に入らせてもらって実測した数値をあわせてみるとピッタリ。
焼き締り具合の見方や火止めのタイミングは?接するように並べたハイが収縮する隙間をみる。火前は焚口からみるし、奥は煙道から覗き込む(炎を避けるための盾がある)。
昔は女性は窯の中に入れなかったよ。精霊が怒るから。いまは産業的になっているから大丈夫だよ。
ここでは人間の身体や自然知を駆使した伝統的な窯焚きがよく残っている。
午後はTさんの成形をみる。今年はまだお米が終わったばかりでまだ仕事を始めていない。Tさんは13歳から作り始め、15~33歳まで軍隊にいた。22歳で初婚、今は4人目の奥さん。急きょ回転台を設置し、昨年の粘土を使いデモをしてくれた。
野焼きする土器と窯焼きの陶器とでは粘土が違う。土器にはチュア(もみ殻と粘土を練って焼いたシャモット)を混ぜる。成形は紐積みで原形を作り、水挽きする。息子が粘土紐を用意し回転台を回す。強弱、留めるタイミング、二人の息がぴったり合わないといけない。夫婦であれ、親子であれ、そこには無言の会話がある。小さい頃、親父の夜なべ仕事を一緒にしていた時のことをふと思い出した。
この村は先に陶器を作っていたところに、後から土器が入ってきたらしい。定かでないがタイのほうから来た女性が持ち込んだという伝承がある。野焼きを見ることはできなかったが驚くべき方法だった。100個を横倒しにし、50個×2列、うなぎの寝床式に置き片側から焼く。樹皮と稲藁による覆い型野焼きである。まったく同じ方法は北タイのチェンライ近郊の村にあるというし、ベトナム南部にも似たような方式がある。
NB村の陶器はかつて、大型水甕ハイ・パクワンや醸造発酵食品用の狭口壷ハイ・ラオやハイ・プラデックなど、基本器種をすべて作っていたが、他産地のものやセメント製品に押され、現在は消費量の多いクロック専業にシフトしつつある。電動ロクロが入ってきたのは20年前、小物の時だけ使うようにしていると。
不思議なことに、現在は土器の水甕モーウナムがよく売れるそうだ。これは利用が一定量あるのに生産者が減ってきたため、ということもあるがそれだけでない。理由はあとで。
消費生活が大きく変動するなか、生産者は村の置かれた伝統や環境に応じて、それぞれ工夫しながら土器作りを営んでいる。多様な土器作り村のあり方を教えてくれた。
12月28日
SL村と兄弟村のK村を訪ねる。ここも土器作りをやめてもう10年以上になる。
村の入り口で訪ねたお爺さんの家には4個の水甕モーウナムが並んでいた。みな死んだ母が作ったものだという。大事に使っている。
元ポターだというYさん(70歳)を訪ね、2階にあがって話を聞く。昔使った土器作り道具は大切に屋根裏(釣り天井)にしまってあった。叩き板や当て具は囲炉裏の煙で煤けている。驚いたのは当て具が木槌のような木製だったこと。これは珍しい。ほかに酒がこぼれないよう指で押さえて飲む角杯型容器もあった。回転台もちゃんと保管してある。自分がポターだったことを確認するように、道具はその証なのだ。
この辺の村では女の子は小さいころまず織物を習うよ。アメリカ人の人類学者レファートさんが来た時、撮っててくれた写真が壁に飾ってあった。あの時は現役だったさ。成形技法は道具と聞き取りからおおよそ分かった。南のサバンナケート地域と共通するようだ。
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午後から昨日のSL村を再訪する。
昨日の婆さんたちの所へ行くと、キンマを噛みながら当て具を作っていた。パユーンという油分がある硬い木を山刀で削っている。この村も形は違うが、当て具は木製である。年長のTさん(72歳)、次いでSoさん(63歳)、Shさん(62歳)。昔とった杵柄、楽しそうだ。しばらくすると「やっぱり疲れるわ」「年だね」と。そしてまた笑いが。
土器を作ることは彼女たちのアイデンティティーなのかもしれない。
帰りがけにあるお宅をみると、在地産とともに見慣れない水甕モーナムが見えた。よくよく聞くと、40年前(ベトナム戦争後)、ベトナム人がこの村に1カ月ほど滞在し、土器を作っていたという。当時、ベトナムはラオス人の職業訓練のために各地に技術者を派遣していたそうだ。モノは黙して語らないが、そんな政治や経済政策を反映してそこにあるのだ。
この正月はどこを走ってもお寺のタンブンと言って、村人が車を止める。2,000~5,000kipほど差し出すとにっこり笑って小さな飾りをくれる。徳を積めるなら幸いだ。あくまでもお布施。にっこり強盗とは言うまい・・・・。
タケークに戻り、NT村を探す。幹線道路から入る道がなかなかわからない。ようやく見つけダートを1時間走ると村へ入る細道にたどり着いた。もう日没で月が昇り始めた。
18:00暗くなってからようやく村に着いた。暗闇に異邦人が来たためちょっとした騒ぎに。やはりここも土器作りは6~8年前にもうやめたという。でも依頼があれば作るよ。というので年明けに出直してくることにした。
夜は町で唯一というゲストハウスに泊まる。あたりは真っ暗。車はほとんど通らない。星空が本当にきれいだ。夏の高畠を思い出した。
隣の食堂で晩飯を食って戻ると、外でGHのママさんがパジャマ姿で息子とトランプをしている。我々も入って夜更けまで盛り上がった。マイ・チュア(「信じないよ」の意、日本ではダウトというゲームに近い)や“豚のしっぽ”みたいなゲーム(瞬発力が問われる)。ババ抜きや七並べもやった。ラオス人、タイ人、日本人、トランプに国境はなかった。
負けたものがビール1杯を飲む。いちばんいい思いをしたのはママさんだ。自分とは関係なしにビールの売り上げが伸びる仕組みだから。最後は娘さんや酔っ払った深夜番のいとこも混じって楽しい夜をすごした。
●NB村
メコン川に沿って50分車を走らせNBという村に着いた。
ここはカムワン県では有名な窯焼きの村である。100名余りの男性がクロック(搗鉢≒擂鉢)を作っている。電動ロクロを使う人もいるが、伝統的には回し手と挽き手が2人で組む手回しロクロである。昨年訪ねたルアンパバン・チャン村のように夫婦の場合、男二人で成形する場合がある。
これだと何の変哲も窯村なのだが、ここが変わっているのは、男性が土器の水甕モーウナム(・小型鍋モーケン)を野焼きで作っていることだ。土器は本来女性の仕事のはず。なぜ、ここでは男性が行うのか。
現在、土器を作れる男性はもう2人しかいない。その一人、Tさん(62歳)のお宅を訪ねる。ことしは稲刈りが終わったばかりでまだ作っていない。粘土も用意していないということで後日訪ねる約束をする。
田の中を15分ほど歩いて窖窯を見に行った。稼働中の窯は村はずれに10箇所ほど点在しているという。不思議に思った。なぜか成形場所の近くにまとまらないんだろうか?
答えは「アリ塚」を利用して地下式窯を築くからである。東北タイのダーンクウィアンや北タイのムアングンなど、古くはみなアリ塚に窯を築いたと聞かされていた。森や田の産米林に形成されるアリ塚は土が硬く天井が丈夫だからだという。ここだと3年~10年はもつよ。ほかにも地下を掘る労力や雨季対策などが考えられる。冷却中の窯を見せてもらった。チャン村と違って、クロックは還元がかかりよく焼きしまっていた。
午後はタケークから一路東へ、奇岩が林立する石灰岩の山並みを縫うように走った。この先はベトナムである。60kmほど走るとヨモラートという小さな町に着く。さらにSL村を探しダートを走る。途中橋が壊れており迂回する。
ようやくたどり着いたが、土器作りは10~15年前に途絶えたという。かつて作った経験のある女性が3名いた。水甕モーウナムはやたら胴長である。
道具はもうないから今は作れないが、用意して見せてあげるからまたおいでと。う~ん…….
12月26日
マハサラカムで今回の同行者3名と合流。今日はラオスへの移動日。
カーラシンからサコンナコーンを経て、新しくできたナコンパノムのフレンドシップⅢを目指す。途中の山間部で野生サルの群れに出会う。国道沿いで餌をねだるようなしぐさ。人慣れしているようだ。いずこも同じ。ほどなく行くと、今度は「野生ゾウに注意!」の看板。さすがタイである。
ナコンパノム-タケークのイミグレーションは閑散としていた。施設は何もなく、人もいない。ここではラオス側の出入国カードも省略されている。
同行のタイ人女性はパスポートを忘れ、IDカードで入る(3日間はOK。実際は罰金を払って延長)。
国境のメコンを渡ると車は右側通行に変わる。車はイミグレーションを通るだけで関所が3つも4つもあって細かくお金を取られる。
夕方、ラオス・タケークの町に入った。