歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-03-30

巨大絵図の撮影

本年度の締め括りとして、3月29日に「前田村文書」の絵図の撮影をしました。

 

写真からもわかるように巨大な絵図なので、本館の吹き抜け部を利用して2階に絵図を置いて3階から撮影しました。

古文書の撮影経験はありますが、なんのかんので写真撮影は素人です。ライトの当て方が難しいですね。これも経験です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼミ兼任のキャラクターもできました。

江戸時代の病気除けの錦絵に描かれる〝みみずく〟がモチーフです。

 

来年度も充実した活動ができるよう、たくさんの学生に参加してほしいですね。

2013-03-30

古文書をまもる

第三は、いわゆる史料保全活動です。

古文書調査と活動内容が少々かぶりますが、ここでは古文書保存の一連の作業を学ぶこと、そして震災後の復興活動への参加がもうひとつのコンセプトになります。

 

活動対象は、宮城県石巻市に伝来してきたあるお宅の古文書です。東日本大震災で津波をかぶりましたが、宮城歴史資料保全ネットワークによってレスキューされ、現在は東北大学に避難しています。

津波にかぶった古文書は泥だらけで、カビが生えているものもあります。こうした古文書の泥を落としたり、水洗したり、エタノールをかけたりとクリーニングをします。和紙に書かれた古文書は強いです。水洗しても乾くと元通りになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東北大でクリーニングを終えると、次は古文書ごとお借りしてきて大学で撮影します。

本年度みた古文書は多くが古典籍でした。昔の人がどんな本を読んでいたかがわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震災から2年が過ぎましたが、まだいろいろなかたちで復興作業が続いています。ほんのひとつの「地域」どころか、そのなかのたったひとつの「お宅」のための作業ですが、こういった作業の積み重ねが大切なのだと思います。本年度ではとても終わらず、数年続く作業になりますが、来年度もたくさんの方に参加してもらえればと思います。

2013-03-30

前田村文書

第二は、古文書調査です。

コンセプトは、ひとつの地域やお宅に伝来してきた古文書を整理して、さらにその古文書を読んで、その地域やお宅の歴史を自分たちで解明しようというものです。歴史遺産の保存と研究を兼ねた活動です。当然、一年でやりきれるものではありません。一歩一歩ゆっくりと進んで行きましょう。

 

そして、記念すべき第一号として選定した地域が大学周辺。山形市南原町旧前田地区です。

ここには、「前田村文書」といわれる700点以上の古文書が地域の方々によって大切に保管されてきました。

この「前田村文書」を調査対象としました。本年度は、この古文書を保存用の封筒に入れ替えながらひたすら撮影しました。なぜ古文書を撮影するかと言うと、撮影していればパソコン上で古文書をいつでもみて研究できるということ、そして万一、災害等で古文書がなくなってしまっても画像だけは遺すことができるためです。正確かつ丁寧に撮影すること10,000コマ以上!!とても根気のいる作業をよくぞやりきってくれました。この地道な作業のおかげで「前田村文書」は保存の安全面がより一層高まりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、本年度はこの「前田村文書」を解読します。ここからが研究面の本番です。現在は住宅が立ち並ぶ前田地区ですが、江戸時代は馬見ヶ崎川を利用した田んぼが広がっていました。山形市のシンボル千歳山の名前も古文書にたくさんでてきます。身近な地域の歴史を、古文書を読んで、地域を歩いて、地域の方々の話も聞きながら解明していきましょう。

2013-03-30

古文書調査会!!

ご無沙汰してます。

歴史学分野では佐藤ゼミにお任せでだいぶブログ更新を怠けていました。

でも、じつはこの一年、はからずもチュートリアルを立ち上げていろいろと活動していました。

年度末の総まとめと来年度へのご紹介を兼ねてお伝えします。

 

チュートリアル名は「古文書調査会」!!

急いでチュートリアルに登録したので名前をひねる時間もありませんでした。

 

何をしていたかと言うと、第一にくずし字の読解です。

くずし字とは、その名の通り現代でも使用する文字をくずした文字です。ミミズがぬたっくったような字とも言われ、とても日本語とは思えないとも言われます。でも、訓練次第で少しずつ読めてくるから不思議です。ということで、毎週木曜日にくずし字読解の訓練をしました。

 

 

テキストは、山形県南陽市のとあるお宅に遺されていた『年代記』という古文書です。

毎年その地域やお宅で起こったことなどを書き記していて、江戸時代から明治時代にかけてそこで何が起こったかを簡潔に知ることができる興味深いものでした。

ただし、なかなか文字のくずし具合が激しい!それを毎週毎週よくぞ読んでくれました。

読解スキルは確実にあがったと思います。

 

来年度は新しいテキストをとりあげますが、一年かけて読んだこの『年代記』の解読文は冊子にまとめて出版したいですね。くずし字の勉強に加えて、南陽市の地域史発展にも貢献しましょう。

 

あと、くずし字読解の初心者講習もやりました。美文の2年生が来てくれたのがうれしかったですね。歴産ばかりでなく、他学科の方も是非参加して欲しいですね。

 

2013-03-27

遷りゆく社会と土器作りの多様性によせて-技術・モノ・人

  女性が電動ろくろで植木鉢を挽く(CK村)

 3月10日(日)

朝、急きょ予定を変更。国境を越えてタイ・ナコンパノムに行くことに。相変わらず臨機応変というか、行き当たりばったりというか。

朝のFriend ship bridgeⅢはすいていた。ラオス側もタイ側もわずか10分で通過。ここはバスがないので橋の上を歩いて国境を越える人も少なくない。大勢がメコン川を眺めながら歩いている。車はラオスではシートベルトをしなくてもいいし、飲酒運転もとがめられない。しかし、タイに入るとそういうわけにはいかない。道もよくなるので、この橋一本でなんとなく気分が変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ナコンパノムから50km、シーソンクラムを目指す。目的のHP村に着いた。村入口の看板にオーン(水甕)やハイ(壷)の絵があり、さすが…と思い、聞き取りするが、焼き物の気配が感じられない。よく聞くと、ここはセメント製オーンがO-TOP(特産品)に指定されているが、焼き物は作っていないという。しかし、相当古い野焼きのオーンを使っており、パラーを漬けている見事な焼き締め陶器ハイ・パデックもあった。土器はサコンナコーン県のCK村産だとわかった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

早速、CK村を訪ねた。幹線国道22号AH15に面して窯を所有する一軒の工房があった。のぞいてみると、女性2人、男性2人がそれぞれ電動ロクロを回していた。聞いてみるとこの村はもともと女性の土器作り村(野焼き)だった。10年前に止めて、ロクロ成形、窯焼きに変わった。その時、女性たちはロクロ技術を習得して、ガターン(植木鉢)や伝統的なオーン、北タイスタイルのモーナム(水甕)といった売れ筋商品の生産にシフトしていったのである。胎土には土器で使用していた混和材チュアを用い、窯は使うがみな素焼きで赤い色をしている。あまたあった土器作り村が社会の変化とともに消えて行ったのに対し、CK村は新技術の導入と需要に見合う生産戦略で、生き延びた一つの例と言える。当時の経緯を聞きたいと思ったが、焼き締め陶器クロックを作っている村があるというので、先を急いだ。

 

途中、国道沿いでガイヤーン(焼き鳥)をたべる。隣のショップで涼んでいたら、店の女性が日本語で話しかけてきた。茨城県つくばに21年間住んでいて、日本人と結婚したが子供ができなかったので4年前に分かれて帰ってきたそうだ。いい思い出を語ってくれ、「日本はいいところね」と。つらいこともたくさんあっただろうに、救われた気がした。

 

タウテンという町に着き、大きな池を抜けるとP村があった。村の中を走ると何軒かの庭先に粘土が山のように積まれていた。ここは粘土採掘地(池)が近く材料コストが安いのが立地上のメリット。

 

 

 

 

 

 

 

 

ほとんどの工房は日曜日で仕事が休み。テレビの前でキックボクシングの試合に熱狂している(賭けているから…)。仕事中の1軒を訪ねる。男性が電動ロクロでクロックを作り、女性が石膏型ロクロで植木鉢を挽いていた。若干のヒアリングをし、改築中の窯づくりを見せてもらった。

いま窯は7か所あるがみな日干し煉瓦の地上式窯である。これは8年使った。昔はディン・ポーン(アリ塚)の窯だったよ。もうないけどね。

別の工房で話を聞くと、「森のお寺」の中に1基だけあるという。訪ねてみると、それは確かにお寺の境内にあった。「昔の窯」として保存しているようにみえた。ラオスでみた地下式穴窯に似ているが、煙道がやたら太い。この差はなんだろう?  

 

アリ塚窯の製品

この村は270軒中30軒で土器をつくる。古い回転台が朽ちて捨てられていた。昔は男2人がペアで手回しロクロを回す土器作りだったと。アリ塚の窯を使わなくなってもう14~15年はたつだろう。20年前まではハイ(壷)を中心に多様な焼き締め陶器を作っていたが、その後クロック(搗き鉢)中心に変化した。現在では植木鉢も作る。ラオス南部の10年前の変化がさらに10年早く起こっていた。

ラオスの焼き締め陶器生産地では、かつては農村の需要に応え、多種類の製品を作り、女性が作る土器と補完関係を保ちながら存在していたが、社会の変化を前にして、生産を止める産地があった一方で、燃料コストの低い窯構造を導入し、需要のみこめる特定器種に集約化することで存続した例がみられる。ルアンパバン・C村、タケークのNB村、アッタプーのTH村など。もちろん、タイでも同様の変化が起こっていた。北タイではムアングン、中部タイではコ・クレット、東北タイではダーン・クウィアンなど、外部からの職人・技術も受け入れ、そうやって一大焼き物生産地に成長した。

変貌する社会に翻弄されながらも、人々はさまざまな適応をみせて生きていく。変化の激しい社会に生きる村人たちの生きざまに教えらえることが多い。

 

アリ塚窯の前の池では女性たちが黙々と四手網漁を行っていた。

 

 

翌日、帰りの飛行機は黄色いくちばしのNOK-AIR。AIRーASIAもそうだが、LCCは離発着にも無駄がない。動き出したらあっという間に飛び立つし、着陸したらスピード出したまま、倒れんばかりの急カーブでターミナルに走る。

 

 

東南アジアはASEAN共同体の結束を強めつつある。2015年の経済共同体構築を期に、民間人もビザなしで自由に行き来できると盛り上がっている(写真:あちこちに加盟国の国旗が並ぶ)。さらにタイ高速鉄道(新幹線、2014着工)が5路線で計画され、中国昆明からラオス、イサーンを縦断して、バンコクへ向うルートができる。ますます人やお金が流動化し、怒涛のように中国資本や外来文化が入り込むだろう。タマサートやマイペンライの精神を持つひとびとが、これをどう受け入れ、拒絶し、したたかに生きていくのか。ラオス・タイ東北部の人たちの暮らしの変貌を伝統的な土器作り・利用者の目線から見つめていきたい。日本もあれから2年。震災後の社会の変化、変化しないもの、あれこれ考えながら家路についた。

 

2013-03-26

初めて土器つくりを見る子供たちのまなざし

3月9日(土)

6:30に市場で朝食。弁当代わりのフランスパンを買って村に向かう。車は奇岩が林立する石灰岩山地の合間を縫って走り、8:00にSL村に着く。

 

この村は約150年前に山手1kmにあるNA村(土器作り村)から分かれ、森を開墾しながら拡大してきた。今は50軒ほど。20年前は35軒ほどで、ほとんどの世帯で土器を作っていた。土器作りを止めてもう15~20年になる。この村に電気が来たのは2000年であるが、周辺はもっと早く電化し、そのせいで土器が売れくなり止めたという。年末に訪ねたときに、成形を見たいと言ったら快く引き受けてくれ、今日の再訪となった。

 

土器作り経験のある女性はもう3人しかいない。ポターはBさん(73歳)、Sさん(63歳)、Lさん(63歳)。Bさんがリーダーである。成形動作に無駄がない。3人に共通するのは結婚してNA村に住むことになり、そこで土器作りを学んだことである。BさんとLさんは夫がNA村生まれなので、夫方に嫁いだことになる。土器作りは農閑期の副業であるが、夫はそれぞれ仕事を持っており、土器作りは手伝わなかったという。

販売も自分たちが行商した。日帰りできる片道4~5kmの範囲をハープ(竹の天秤棒)でカブン(竹籠)を2個提げ、前と後ろに2個ずつ積んで歩いたそうだ。

 

今日はBさんとSさんの二人が作ってくれる。昨日練習もかねて大小の土器10個ほどを作っていた。

事前にお願いして粘土とチュアを用意しておいてもらい、朝、粉砕・土練りから工程を再現してもらった。粘土採掘場所は、現在のSL村の入り口(約1km)にあり、NA村に住んでいた時から変わらない。かつては森の中だったが、開墾が進んで今は田んぼの真ん中になっている。現状だけ見て「田土」利用というと語弊がある。

チュアと粘土の粉砕は娘たち(40歳前後)がやってくれた。味わいのある竪臼(かつて米を搗いていた)と杵で搗く。小さい頃に手伝っていたせいか、勝手知った仕事ぶりである。Sさんの14歳の孫をはじめ、近所の子供たちは始めてみる土器作りとその道具に興味津津。

 この村の成形技法は、ラオス南部サワンナケート県のBan・Buk等を指標とする技術の範疇に入る。しかし、あて具は一般的な土製ではなく木製を使うのが特徴。家具にも使われるマイ・パユムという硬い木である。叩き板や杵もこれで作る。

主力製品は水甕のモーウナム(小はモーウ・ノイという)、鍋モーケン大・小である。ここの水甕は胴長である。そのため、叩き成形の工程が長いことが予想された。案の定、台上成形3回、手持ち叩きを5回行う。Ban・Bukでは台上成形1回、手持ち叩き3回で仕上げる。その間に小刻みに乾燥段階を挟むので、一日に成形できる個数は少なくなる。

縦溝の叩き板を使うのはBan・Bukと共通するが、叩き板の扱いや姿勢が違うため、器面に残る溝の方向が全く違う。痕跡から技術を復元するときに注意が必要だ。

 

もっとも大きな特徴は2ビートの叩き。左手のあて具1回に対して、右手の叩き板で2回叩く。実にリズミカルである。ドラム叩きでは普通かもしれないが、土器の成形では初めて見た。左右の手を違ったリズムで動かすのは難しい。各地のポターたちは成形の熟練を音で聞き分けるという。2ビートの場合、リズム感が悪いとすぐわかってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 乾燥の合間を利用して、Lさんの娘がお昼を御馳走してくれた。この村では三食もち米を食べる。朝蒸したご飯、火に炙った干魚、スパイシーな青とうがらしのつけ味噌と生の小魚をつぶしたつけ味噌(パラーではない)、あざやかな色の花芽(にがい)、ささげ(あまみ)。さまざまな味わいのおかずが混じる。買い込んできたフランスパンは子供たちのおやつになった。

 

3世代が集い、かつての村の生業を振り返る時間。土器作りを受け継がなかった今の第2、第3世代はおばあちゃんたちの暮らしぶりをどんな気持ちで聞いたのだろうか。 

Sさんの孫や近所の子供たちに聞いてみた。おばあちゃんたちが土器作るの見て、「どう?」「はじめて見たわ!」「やってみたい?」「う~ん、やらない。私にはできないわ・・・・」そういいながら、じっと動作を見入っている姿が印象的だった。

 

2013-03-24

再びタケーク NB村で窯の実測

3月8日

サワンナケートを離れ、北上してタケークに向かう。国道13号線、信号はひとつもない。

途中トレーラーが荷崩れをおこして横転していた。どうみても過積載だろ。

 

 

 

お正月に通ったNB村。市場で昼食をとり、Tさんを訪ねる。「おう、また来たか・・・」窯を実測したい旨を告げる。自分の窯は今日は窯焚きしているので無理だ。他の人の窯を案内してもらう。ここでは600世帯中100世帯がクロック(搗き鉢)を作っている。

現在、アクティブな窯は30基あるという。ここは主力製品を若者でも作りやすいクロックに絞ったことで、大量生産が可能になり市場で生き残った。

 

最初に訪ねたところは窯詰め中で実測できなかった。次いで、お正月に訪ねたKさんの窯へ。あいにく留守。お正月にはここで窯焚きと窯づめを見学したので、ここを実測場所に決める。Tさんに携帯で連絡を取ってもらったらOKがでた。便利な世の中になったものだ。

 

 

 すぐに、平板1/100と手測り1/20の実測図をとる。

そうこうしているうちにKさん家族がヒュンダイ(2tトラック)に薪を満載して帰ってきた。1台50,000kipだ。意外と安い(500,000kipの間違いではないか?)。ここは深い燃焼部を掘り、太薪を大量に使う窯焚きが特徴。アリ塚の窖窯で土被りが厚く、蓄熱性重視の窯だきをしている。先のNLCと違って焼成部の床面には砂を敷く。製品の安定と床面に溶着しないようにするためだ。クロックはしっかり焼き締まる。ルアンパバン県のバンチャンとは大きな違いである。

 興味深そうに測量をみて、しばらく昼寝したらまた出かけて行った。村のお葬式だそうだ。

 

2013-03-22

Hotay Pidokと不発弾と300年前の土器

3月7日

 建設中の自宅

今日も朝からNLC。Tさん家で掘り棒を借り、窯跡の現場に行く。午前中の発掘は連れにまかせ、私はTさんから成形道具や窯詰めのこと、ライフヒストリーなど、ヒアリングを続ける。

 

Tさんは目下自宅の建設中。柱組み(建ち前)の後は、自力で家を作る。いま壁のブロック積みと窓枠作りの最中(写真1)。現在の家は約30年前に建てたもので手狭になった。道路に面して小さなショップを営んでいるが、そのオープンな空間に液晶テレビが鎮座する。やや違和感あり。埃かぶりっぱなしで大丈夫なんだろうか。

 

 Tさんのショップ

 

Tさんは8歳で見習い仕事を始めた。戦争後、再開し、長くHさん(20年ほど前、80歳で亡くなる)という土器作りの「神様」の補助をやっていた。Hさんはこの村のリーダーで、製作者はみんな彼から習って、最盛期には10世帯以上が土器を作っていたという。事実かどうか検証はできないが、NLC村の技術の系譜をHさんとその父親にたどる構図ができていた。

 

 

 

先日デモをやってくれた2つの回転台はHさんが作り、使っていたものだった。彼らにとって回転台は「たからモノ」だという。「家があるのはこれのおかげなんだよ。これがあれば土器を作って売れるんだから・・・・」回転台は実用的な「財」というだけでなく、精神の拠り所にもなっている。初日のN村の元職人さんも同じようなことを言っていた。

 

TさんはHさんの補助をしながら、「いつも怒られてばっかりだったよ」と、神様と一緒に仕事をした昔を懐かしがった。Hさんが亡くなった20年前、ようやく自立して、奥さんの補助で土器を作るようになったのである。

いつも怖い顔をしているTさんがニヤリと口元を開いた瞬間があった。道具の名前を順に尋ね、回転台を受ける「軸」の呼び名を答えたときだった。「Khoiって言うんだぜ」男性器を示す隠語だ。

滑りを良くするためにラードを塗るがこの日は石鹸で代用した。

 

 

それからBさんのお宅へ器種調査に行った。Bさんは竹を割いてムアイ(米蒸し用の竹製容器)を作っていた。ひと通り聞いて最後に「ナムタオ」がでてきた。見たいと言うがないという。この村にはそこかしこにひょうたんが転がっている。各家庭で田で水を飲むときの水筒として使っている。ナムタオとはヒョウタンをモデルとした水筒兼水差し容器である。

Dさん、お寺にあるから見せてやる、ついて来いという。この村に「Hotay Pidok」という名刹がある。ヤシの葉に書き刻んだ500 年前の仏典4,000巻を収蔵する。

 

これまで何度もお寺の前を通っていて、入り口にある「靴を忘れないで!」という英語の看板が意味不明??不思議だった。訪ねてみてわかったのは、ここは境内に入るのも土足厳禁、門の前で靴下も脱がなくてはならないのだ。足の裏がチクチクしながら土の上を歩いた。高僧のプライベートルームを訪ね、何度も跪伏拝礼、訳をを話して古いナムタオを見せてもらった。見てびっくり!何度土器ではないか。名僧曰く、寺に伝わった300~400年前のもの。かつてはこの村で女性の土器作りがあったという。

 

帰りがけにBさんがポツリ。この池にアメリカ軍が落とした200ポンド爆弾(不発弾)が2個沈んでいると。村人の記憶の中にベトナム戦争(ラオス内戦)はまだまだ風化しない。寺を出ようとして、はっと気がついた。そういえば靴を脱いだんだった。慣れると素足で歩くのは確かに気持ちいい。看板の意味が少しは分かったかも。

お寺を出ると高いビンロウの木に実(女性たちが噛むキンマの材料)がたわわについていた(写真)。

 

 

 

お昼から窯跡に戻り、酷暑のなか、昼飯抜きで窯跡の実測と写真撮影をする。10年間で燃焼部がどのように埋まっていったか、埋没過程がよくわかる。

 

燃焼部土層断面

 

その後、お世話になった人にあいさつし、タイから移住したCさん、Hさん一家がいるP村を再訪する。

 

2013-03-17

アリ塚をあまくみたらいかんぜよ

3月6日

朝からNLCの窯の測量をはじめる。早速、平板の基準点に釘を打とうとしたら、地表面が硬くて刺さらない。いわんやピンポールをや。釘はなんとか石を探してきて打った。

アリ塚(Anthill、ラオスではディン・ポーン、タイではジョン・プロッ)に窖窯を作る理由を、正直、平地で盛り上がった丘を利用する程度にしか思っていなかった。「土が硬いから」とも聞いていたが、これほど硬いとは思っていなかった。恐るべしアリの唾液よ

 

 

 タイ東北部(イサーン)からラオスにかけて田んぼに樹木(産米林などと呼ばれる)が点在するのが特徴的な農村景観だ。木の根元にはたいていアリ塚が形成されている。木々の葉が田に落ちて有機肥料になるし、ここで動植物の生態系ができ、食料採集の場にもなる。炭焼きの原木、土器焼きの燃料にもなるし、農作業の休憩場所になったりと多目的に使われる。

森を開墾して田にするのに、このアリ塚を撤去する苦労は並大抵ではなかっただろう。産米林の形成にはこのような労働コストもあったのではないか。そう感じずにはいられなかった。

 

 

平板で地形測量し、午後からTさんに鍬と鋤をかりて燃焼部を掘った。こちらの「剣スコ」は柄が長くて、金属部が軽くてペラペラ。踏み込めない。これはあくまで、土や砂をすくって遠くへ飛ばす道具だ。平鍬は固い土を砕く道具であって掘る道具ではない。明らかに選択を間違った。代わる代わる掘ったが、わたしは1時間持たずにへばってしまった。

その晩に町で移植ごてがわりの道具を買い、翌日は、郷に入っては郷に従え、「スィヤム」という掘り棒を借りることにした。

 

疲労困ぱいの体を癒してくれるのは行き帰り通るモンキー・フォレストの子ザルたち。スイ・レイクの景色。水の豊富な地域で2期作の稲田が青々と広がっている。途中、2009年のお正月に通ったBT村を通る。車窓から、村長のタオ(七輪)工房と近所のおばちゃんの土器作りの健在ぶりをみて安心する。

 

夜、サワンナケートの町でCHAI・DEEという小さなCaféに立ち寄った。サワンナケートは大きな町の割に外国人が少ない。そんな街にあって欧米人に人気の店。JICAの関係者らしい日本人もいた。あとから頼りなさそうな細身の日本人の若者が一人でやってきた。明らかにバックパッカーではない。尋ねてみると、日系企業で働いており、もう1年になるという。彼は現地採用で、村の20歳ぐらいの女性100名ほどと一緒に働いている。ラオス女性は美人が多いので、たいへんでしょというと、社内恋愛は禁止だと。浮ついたところはない。活字に飢えて本を読むためにここまで自転車で30分かけて通っているとのこと。

海外でこうやって一人で働いている若者に興味を覚えた。日本に嫌気がさしてきたわけでもなく、国際貢献という気負いもない。自然体で自身を見つめ、人との出会いを大切に生きている。翌日も待ち合わせてたくさんの話をした。若さに羨ましさを感じつつ、勇気をもらう出会いに満足し、夜は疲れでぐっすり・・・・。

2013-03-16

10年ぶりに甦ったNLCの土器作り

3月5日 ワンプラ(仏日)

ようやく熱い太陽が戻ってきた。今日はお正月に訪ねたNLC村。焼き締め陶器の村だったが、10年前に土器作りは途絶えてしまった。当時の製作者はもう2人しかいない。お願いして10年ぶりに土器を作ってもらった。 

製作者はBさん(63歳)とTさん(60歳)。Bさんは奥さんが、Tさんは兄の娘が回転台を回す。夫婦協業が基本のようだが、Tさんは長く師匠のHさんの補助をしており、それだけではなかったようだ。

 

事前に採掘し、用意した粘土で、エンナム、ハイパデック、ハイパソムの3点を作った。10年のブランク。その間1度も土に触っていないという。戸惑う場面もあったが、一連の成形プロセスを記録させてもらった。土が柔らかくて、エンナムは乾燥中に潰れてしまった。Tさんは強面の職人で、決して表情を変えない。どこからみても眼光鋭いパテト・ラオの戦士だ。さすがにこの時はプライドが傷ついたのか、粘土の乾燥状態を悔しがっていた。血が騒いだようだ。後から聞いた話だが、Tさん、来年土器作りを復活したいと言ってたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

お昼、村の食堂でフォーをたべていると、おばちゃんが店の前のブッドン産モーナムからおいしそうに水を飲んでいた。店の中には冷蔵庫もあり、ボトルの水も買っている。20ℓ=45,000kip(500円)だ。「どうして良く冷えた冷蔵庫の水を飲まないの?」「タマサートだからよ」タマサートとは自然と共にあろうとする生き方でラオス人の規範意識にもなっている。お客さんにはボトルで買った水を出すが、自分たちは井戸水を土器に入れて飲んでいる。ビンに漬けたパラー(小魚に塩や糠などを加えて発酵させた魚醤、半年ほど漬ける)。うまそうだが、日本人はやめたほうがいい、とタイ人に言われる。それは4年前、実証済み。2日間吐き気が止まらなかった。なんでそん時言ってくれなかったの・・・・オーさん!

 

 

 

 

 

 

 

 

午後からTさんの案内で15~20年前の窯跡、粘土採掘場を歩いた。窯場は村から2km離れており、この付近に20箇所の窯跡がある。窯は共同で使い、1~2年、長くて3年で作り変える。覆い屋がないアリ塚の窯は雨季に水が入るのと、天井が落ちやすいのだそうだ。順次築窯で2基併存することもある。直立煙道の地下式窖窯である。ブッシュをかきわけ、5基の窯跡を見て回った。2基並列が2か所、すべて天井は落ちていたが煙道は残っていた。

土器作りは乾季の副業(ラオス暦1~5月)であり、その間、窯場近くに立てられた工房住居トゥーで夫婦が生活する。最盛期は10世帯ぐらいがここで土器を作っていた。歩くと森の中に工房跡があり、朽ちた回転台やエンナムの破片が散らばっている。

う~ん。これ窯業遺跡じゃないの・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

実は別の場所に、天井が残った窯跡が1つだけあるという。10年前、廃業直前まで使っていた窯だ。職人3人が10日かけて掘った。まだ記憶に新しい。

森を開発して作った田んぼの中に大きなマンゴーの木があり、その根元に開口した窯が1つあった。焚口と煙道から土砂が流れ込み燃焼部や床面はすべて埋まっていたが、天井は表面が剥落し、ヒビが入りつつもなんとか残っており、原形を窺うことができた。

この窯跡をみて黙ってはいられない。むずむずと血が騒ぐ。明日の作業は決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 帰りがけにTさんがマンゴーの小枝から小さな実のついた房をとってくれた。青臭いがしっかりマンゴーの味がする。額に滲む汗をふきながら、齧ってみるとさっぱりした味わいだった。

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