歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
*
2013-03-16

引き寄せられるように出会った家族

なんとなく気になる村があった。ソンコーン郡のスィブンヘンという村。東南アジアの土器作り村を踏破して作成されたレファート・リストで所在地がどうも誤記されているようなのだ。ちょっと時間があったので探してみようということになった。

国道13号線を南下、聞いては走り、走っては聞く。そして確かに村に着いたのだが誰に聞いても土器は作っていないという。がっかりしつつ、最後に市場で尋ねてみると、近くに昔作っていた人が一人いるという。車を降りて、教えられた方向へ田んぼのあぜ道を歩く。 

 

15:30ようやくお宅に着いた。そこにいたのはBさん(60歳)と夫Cさん(75歳)夫婦。そして娘夫婦と孫。残念ながら土器作りは3年前に止めていた。ここはP村。

話を聞いているうちに、実は自分たちはタイ人だという。50年前にここに来たという。

えっ、そうか移住してきたのか…。ここまではお正月のラオス日記で紹介したようにタイのイサーンでよくある話だ。土器作り技術の拡散の背景に良田を求めて移住を繰り返すイサーンの歴史があったことをアメリカ人のレファート・コート夫妻が明らかにしている。

庭先にある水甕モーナムを見て、何かおかしい・・・。ラオス南部に一般的なモーナムではないのだ。そして、合点がいった。これはやっぱりイサーンの形だ!それは自分たちがタイ出身だという話とほぼ同時だった。

さらに、自分たちはウボンラチャタニー県出身だという。「タカン・プーポンから来た」。ひょっとして・・・D村では?「いや、隣のSY村だよ」「あたしの兄弟はまだ村にいるよ」

D村は2008年から私が毎年通っている村で、この村もSY村から分かれた。D村のポターたちは今でもSY村の田から粘土を掘っている。

なんで突然訪ねてきた見知らぬ日本人が、自分たちの故郷のことをこんなに良く知ってるんだ!そんな雰囲気で目を白黒させながら、なつかしい故郷の話に花が咲いた。

 

Bさん家族は他の10家族とともにタイのSY村から歩いてここに来た。ベトナム戦争にアメリカが介入する前の話である。8haを2000$で買い、何年もかかって森を開墾した。タイに帰った人もいたが、やがて70軒(すべてSY村出身世帯)になり、みな土器を作っていた。

隣のN婆さん(78歳)もポターだったよ。もう目が見えないし、耳もよく聞こえないけど。一緒に作ってたんだよ。訪ねると夫のHさん(68歳)が移住の頃の話を聞かせてくれた。叩き板や当て具など土器作り道具は、ラオス南部と違いタイ・D村と共通点がある。しかし、他との交流を持たずガラパゴス化したことで、呼び名がラオス風に変わるとともに、技術や器形の一部にD村との違いがあらわになった。実に興味深い。

 

細い糸を辿りながら出会った家族。この二つの家族の私的な歩みのなかに土器作り技術拡散の大きな歴史ドラマが詰まっている。

 

写真1:Cさんと孫

写真2:市場で働くBさんと娘

写真3:Bさんで使用中エンナム

写真4:Bさん宅の庭先で移住の頃の話を聞く

写真5:同上、無台・蓋なし。タイでは「モー・ウ・ナム」と呼ぶ。知ってるけどラオス式で呼ぶんだそうだ。

写真6:Nさん家のモー・ティン。高台付き。タイではモーイオイといい、蓋付だ。

写真7:連結炉穴。竹の子を茹でている。縄文時代の遺跡からも検出されている。

 

2013-03-16

ラオス日記2013.3-焼き締め陶器の村をたずねて-

2日夜に羽田を発ち、バンコクを経由してラオスに着いた。現地は暑季に入り、いい感じの暑さが体を包む。はずだったが、ベトナムのほうからストームが来ているらしく涼しかった。3日の晩に町で髪を切った。さっぱりした。こちらでは毎日7:00に朝食、7:30から仕事というペース。日本にいる時より朝は早いが、このペースが現地の空気、リズムにあって心地よい。

 

 

4日、お正月にたどり着けなかったN村に来た。ここは男性が作る焼き締め陶器の村である。2000年、最後の製作者Pさん(81歳)が引退して、村の土器作りは途絶えた。Pさん宅を訪ね、弟子Kさん(56歳)と二人から話を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 成形は2人一組。粘土紐を作り回転台を回す人、台上で粘土紐を積み、水挽きする人。このタイプの土器作りでは夫婦協業と男性2人の場合があるが、この村は後者だ。Kさんは弟が補助をした。 

 

伝統的な焼き締め陶器の村がどんな製品を作り、どう使い分けていたのか。それを教えてもらうのが今回の目的の一つだ。

次から次へと製品を持ってきてくれた。いちばん興味深かったのは甕の使い方。「飲む水」用の甕、「使う水」用の甕が器形の違い、蓋の有無で使い分けられている。もちろん酒造り(サトゥ)にも使う。  

 

持ちよった陶器のなかに一つ見慣れないものがあった。ポムPuomという小型品。これは、ティップ・カオ(蒸し米を入れる竹製容器)にアリが入らないように木にぶら下げる時の補助具だ。上部のへこみに水を張っておく。これはハイ・パデックHai-pradaekという発酵食品作り用の壷の口を応用したもの。ほかにもPさんは奥さんのためにオリジナルの製品を作っていた。機織りの時に座るタン・サオロー椅子である。これはクロック搗き鉢の応用である。このように製作者は、販売用の主力製品のほかにも自分たちの生活の身のまわりで役に立つ製品をその技術を応用しながら作っていた。 

 

庭に軸を切り取った回転台が置いてあった。尋ねると「これは大切なものだから、とってあるのさ。」なぜ?「子どもたちにこの村が土器作り村だったことを伝えるためだよ。」回転台は彼らにとってのシンボルなのだ。父親から受け継いだ土器作り、土器作り村に育ったセルフ・アイデンティティ。伝統の中に生きる暮らし、ゆったりと時間の流れを感じる話をたくさんしてくれた。

 

 

口が広い甕エンナムEn・Namは1980年にKさんが作ったものだ。肩部に施文用の櫛で「RS,1980」「No.64」。さらに「DISCO LEVIS.NAS」と刻む。「これどんな意味?」「(ニヤッ)意味なんかないさ・・・・」。このおやじ、なかなかやるなぁと無言の会話。

 

 

  

それから二人に窯跡を案内してもらう。みなアリ塚に作る地下式窖窯。12基ぐらいあるよ。自分たちで1週間かけて掘る。3~4年使い、順次掘っていく。現場で窯構造や窯詰め、窯焚きについて話を聞く。いつまでも聞いていたいほど話は尽きない。

Kさん「今度来るときは俺んちに来いよ!」「はい、その時までお互い達者で・・・・」

 

 

 

 

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報

東北芸術工科大学
TUADBLOG