山王窟を見たあと、バスで移動し、いよいよ骨寺荘園内の散策に出発です!!
ガイドの金野さんの後に続き村の西に位置する駒形根(こまがたね)神社から骨寺の稲作には欠かすことのできない重要な川「本寺川」沿いに東へ移動していきました。この日は天気も良く気温もかなり高かったため、みんな熱中症に気を付けながら、金野さんの説明を聞いていました。
これが、骨寺が国の重要文化的景観に選ばれている理由になっている水田。少し見えづらいが後ろの水田と比べると大きさが明らかに違うのが分かる。
どの屋敷も屋敷の北側、若しくは西側に「エグネ」と呼ばれる防風林が冬の冷たい風から屋敷を守るために植えられている。
このような風景を見ながら荘園内を散策していきました。そして、最後に向かったのは村の西の端に位置する慈恵塚(じえづか)、慈恵大師拝殿でした。私有地のため、普段は立ち入ることはできないのですが、今回はガイドさんが同行してくれたため特別に入ることができました。ところで、なぜ本寺地区が骨寺と呼ばれていたか気になりませんか?実は本寺地区には「ドクロ伝説」と呼ばれるものが残っており、それが骨寺の由来となったという説があるのです。今回は慈恵塚に登ったところで、その「ドクロ伝説」の話をガイドの金野さんから聞くことができました。方言で語られる話にみんな耳をかたむけていました。
その後下山して慈恵大師拝殿へいきました。ここは慈恵大師を祀っている神社で、冬に行われる骨寺村荘園米納めでは安全祈願のために使われています。
本当ならこの後不動窟(ふどうのいわや)に行く予定でしたが時間の関係上なくなってしまいました。最後にお世話になったガイドの金野さんにお礼を言って今回の調査は終了でした!!
あんなにすごい田園風景を見る機会は中々ないので今回は貴重な体験になったと思います!!!
一関博物館を見学したあと、博物館の隣にある道の駅厳美渓で昼食を済ませ、次に向かったのは骨寺村荘園交流館【若神子亭】でした。ここでは、骨寺の魅力を紹介するムービーや模型などがとても分かりやすく展示してあり、初めて骨寺を訪れた人にも親しみをもってもらえるような工夫がしてありました。その後、ガイドの金野さんとここで合流し、まずは骨寺から少し離れたところにある山王窟(さんのうのいわや)までバスで移動しました。山王窟はかなり高い場所にあり、骨寺においては重要な役割を果たしていたようです。ちなみに昔は登ることができたらしいですが、現在は私有地及び登るのに危険な悪路を通らなければならないため立ち入り禁止になっています。
次は骨寺地区を自分たちの足を使って散策してきた様子をお伝えします。
更新遅れました。6月2日の日曜日、2年生は歴史学応用演習1の授業の一環で「骨寺村」(現・岩手県一関市厳美町本寺地区)に行ってきました。骨寺は中世の田園風景が現存しているなどの理由から国の重要文化的景観に選定されています。今回は実際にここを歩いてきました。
最初は一関市博物館に行き、博物館2階にて骨寺村の歴史や骨寺村絵図、平泉と骨寺村の関係を学芸員の磯部さんに説明していただきました。また、企画展「お姫様のお国入り」が行われており、男性中心だったとされる近世において、女性同士のやりとりやつながりがあったことも丁寧に説明していただきました。一方、博物館1階には骨寺を紹介するパネルが展示されており、絵図の完成を目指すパズルも置いてありました。これなら小さいお子さんにも楽しんでもらえるのでは?と、ふと思いました。
前日までの雨はどこへやら。まちあるき晴れのジンクスは今年も健在。
あたらしく1年生が参加し、各学年と卒業生がそろった。昨年から参加している2年生は班リーダーに昇格し、自ら質問し、聞き取りシートも記入するようになった。
夏の暑い日も、冬の木枯らしの日も、ただひたすら石の写真を撮り、寸法を測るという単調な作業の繰り返し、先輩のかげで石の話に聞き耳をたてていた去年までと、いまは全く違う世界が見えているのはないか。
ともあれ、今回はフレッシュな顔ぶれがそろったことでチーム全体が明るくなった。不思議なもので、それはお話をしてくれる住民の側にも伝わる。
昨年土地を買って引っ越してきたHさん(昭和33年生)。奥さんの生家はお向かいの隣の家。したがって40年ぐらい前のこの辺りの景色を鮮明に覚えている。「ここに柿の木があって、その根元に屋敷明神があったよ」と。「その藪の向こうに祠があるから、行ってごらん」「むかしは石塀はなくてみんなウコギ垣だったよ」「ほら、まだそこはウコギだよ」
ウコギと言われても学生たちはピンとこない。怪訝そうな顔をしていると、傍に行って新芽を摘んでくれて「てんぷらにして食べな!」 見て、触って、食べて・・・・
お向かいのうちの小屋には昔「お菓子を焼く窯があったよ」。Kさん家を訪ねてみると、裏にはに窯を解体した石材が土留めに使われていた。家人のばあさんに訪ねると、焼きまんじゅうを焼いて滝沢屋に納めていたんだよと。
そこにはアーチ形の石橋があって、冬は坂でソリをしたわ。そこにあった分校は3つの集落の1~2年生が冬の間だけ通ったの。わたしが最後の生徒で翌年からはスクールバスで町に通うようになったと。ひとつひとつ子供時代の記憶をよみがえらせ、懐かしそうに案内してくれた。
山から柴を刈ってきてささげの蔓竿を削っていたSSさん(76歳)。中学2年のとき、沢福等から大きな石をリヤカーで引いてきて、ひとりで「なつ川」を彫った。近所の石切りATさんにツルを借りてほったさ。当時はどこの家にもあったし、買うとお金かかるからね。夏には川で雑魚をとってきた生かしておいたよ。ここには木を植えて魚が隠れられるようにしたんだ、と。4~5年はそうやって使ったよ。
別のSさん家でも魚の隠れ家がある「なつ川」に出会った。魚好きだった爺さんの弟(石工)がほったんだよ。いまでも夏になると毎年、水草と金魚を生けて観賞するよ、と奥さん。
そして奥さんがやってる床屋には最近、石工さんに頼んで作ってもらったという安山岩製の石鉢があった(写真)。中をみると水の中に金魚が「泳いで」いるではないか。さすがなつ川を現役で使っている人らしい・・・涼しげでいいですね、というと。ニヤリ・・・。金魚は偽物だった。だんなもだまされたというから、なかなかの代物である。
「なつ川」が何か、長年の疑問がひとつ解けた。米沢藩時代に始まった藩士の贅沢を慎む箱庭に淵源があることを2年生が調べてきた。なるほど…と思いつつ、やや脚色の匂いもするかな・・・・。いずれにしてもなつ川は近現代に新たな価値が付与され、土地の石工たちが山で彫り、住民たちが憧れて思い思いに使ってきた。庭と石を愛する心が根付き、夏の風物詩として小魚(金魚)を生けるという慣習が細々とではあるが続いている。
6月7日、約一か月ぶりの石碑チュートリアルです!
天気は曇りでしたが、まあ…あまり暑くなくて丁度よかったかもしれません。
今回は13時から活動でした。
私は14時からの参加だったので、その間のことは分からないのですが…。
13時組と14時組が合流した後、まず向かったのは【姥神】です。
やまぶきロードという道を登っていくと見えてきます。
凄く、見られているような気がします…。
ここは、去年の先輩方が調査しているのですが、改めて確認しに来ました。
方位磁石を使った石碑の向きの確認を始めとして、GPSでの位置測定や、赤外線を出すハイテクな計測機械で寸法を測りなおしてみたり。
そして、次に向かったのは【石行寺・岩波観音堂】
立派なお寺です。
まずは、こちらにも石碑がありますので、先ほどと同じように石碑の計測確認を行いました。
そして、今回のメインとも言えるかもしれません…
『拓本』
とってみました。
まずは、石碑についた苔などを、ブラシで落とします。
優しく、優しく!
ある程度落ちてきたら、霧吹きで石碑を濡らします。
そして、濡れた表面に紙を張り付けて、その上からまた霧吹きで万遍なく湿らせます。
濡らさないと、紙が落ちてきちゃうんですね。
あとは、墨ののりが悪くなるのかもしれません。
ちょっと下の方、皺が寄っています…。
嫌な予感。
とりあえず、墨をつけてみます。
拓本用の墨ってあるんですね。
タンポというものに墨をつけて、トントンと叩くように紙に墨をつけていきます。
ですが、これがなかなか重労働でした…。
一度に4人での作業。
しかも途中で交代したにも拘らず、この作業に10分近くはかかったかもしれません。
一人でこれをやっていたら…。
想像したくないですね。
何はともあれ、全体に墨をつけ終わりました。
写真では少し見にくいかもしれませんが、文字が彫ってある場所が浮き上がって見えます。
あとは、この拓本を石碑から慎重に取り外し、慎重に新聞で包みました。
ただ、意外とこの紙は水に強いようで、そこまで慎重にしなくてもよかったみたいです。
とはいえ、用心するに越したことはないのですが。
霧吹きで濡らしましたから、乾くまでは先生の部屋に保管です。
とりあえず、今回のチュートリアルは終わりです。
恐らく、先生以外はみんな拓本を取るのは初めてです。
さて、人生初の拓本は…
やっぱり、下の方に皺が寄っちゃっていて、少し見にくかったですね。
でも、これから何度もやっていけば、いいのが取れるはずです。
精進あるのみ!!
次回からは、金曜14時から17時までの活動になります。ちなみに、基本二週間に一度です。
この通り、人手がいる作業ですから、多くの方の参加をお待ちしてます。