今年も戸塚山に来ています。昨年に引き続き上浅川支群175号墳、174号墳の調査を行います。
今日はトラックで発掘器材を搬入。昨年のトレンチと石室を養生した垂木とブルーシートを取り外し、明日からの調査に備えました。1年ぶりに光を浴びてびっくりしたのはカマドウマたちでした。アシナガクモさんも。もうしわけありませんが、引っ越ししてください。
そしてカナチョロの卵がちらほら。毎年同じ場所で産卵するようです。
駐車場から現場までの通路にはさまざまなキノコとともに巨大な「ヤマナメクジ」。10~15センチサイズのものがうようよいて、大好きなキノコを食べている。
昨年真っ白になっていたモリアオガエルの産卵は今年は見られなかった。もうおわったのだろうか。
ともあれ、これから1か月。暑い夏が待ち遠しい・・・・
本日は2013年度歴史遺産学科卒業論文中間発表会を行っております!
中間発表会では卒業研究の目的やこれまでの進捗状況を発表し、
それに対して分野外の先生からもアドバイスをいただける貴重な場です。
今年は(午前の部のみですが)201講義室での発表となりました。
201講義室は400人以上収容できる大学随一の大講義室。
先生方でもなかなか使用することのない、大舞台です!
学生の緊張も例年以上になるかな、と思いきや、想像よりもみんな落ち着いていましたね。
「現場に強い」なんて言われる歴産学生の度胸強さが発揮されたのでしょうか。
午後の部は408講義室に会場を移しての発表になります。
予定では午後も201講義室の予定でしたが、急遽変更と相成りました。
教室の規模が小さくなるからか、変更を知ってあからさまにホっとした様子の学生さんもちらほら。
そこは嘘でも悔しがっておくところですよ!
午前の部発表になった学生さん、大教室での発表おつかれさまでした!
午後からの発表になる学生さんも、気を抜かないで頑張ってください!
副手でした。
更新忘れなだけに「庚申塔」の拓本を…なんて…
………すみません。
7月12日、第四回目のチュートリアルを行いました。
天気もこの時期不安定ですから、雨が降らなくて本当に良かったです。
今回は、前回途中になってしまっていた石碑の調査からスタートです。
私が担当したのは、前回の更新ラストにもあった、石行寺の上の謎の建物の前にあった石碑です。
まあ、正確には謎の建物ではなく日吉神社っていう神社なんですけどね。
で、その石碑も名前が多くて多くて…正直しんどかったですね(笑)
そのあとは、余った時間で拓本の練習をしました。
今回は半紙にやったので、若干勝手が違いましたが…まあ、悪くはなかったんじゃないんでしょうかね…多分。
さっきの寒いギャグに使った庚申塔の拓本はその時に取ったやつです。
ちなみに今回は、前期ラストのチュートリアルでした。
そして、今日はゼミのみんなで後期に行く予定の場所を下見してきました。
どんな場所で活動するのかは、ゼミ以外の人は後期になってからのお楽しみってわけです。
どうぞお楽しみに–!!
そんな問いに答えるべく、町内の鳥居の悉皆調査が始まった。
今日は参院選挙。期日前投票や早朝に投票を済ませ16名が集まった。
2枚の調査シートの書き方と計測法を学んだ後、車に分乗して町内各所に散った。各班があらかじめ決められたエリアを聞き取りも含めしらみつぶしに押さえていくという戦略である。
16:30 みんなが成果を持ち寄りホームに帰ってきた。そして、報告会スタート。
今日はあわせて36か所の鳥居を調査した。このうち木製鳥居は6か所。残りはすべて高畠石製だった。正直、木製(両部鳥居)が6か所もあるとは思わなかった。いずれも米沢市との隣接地域であり、高畠町の石材産地に近づくとほぼ石製に限られてくる。1日で30基・・・・・総数は果たして?
ぜひ、みなさん予想してみてください。
農村部の神社には石鳥居が2つ、3つ、多いと4つもある所がある。かつて開田中にあったものを1か所に集めたせいらしい。板碑や各種石塔もおなじように神社に集積されている。
村の社の石鳥居は18世紀~19世紀半ばにかけて建立されたことがわかった。江戸期に建てられたものは明神系の鳥居が圧倒的に多い。皇大神社等では神明系鳥居が採用されているところもある。石工の引地さんの見立てでは今回の調査区には屋代方面の石が多いようだ。当時の採掘地の動向を反映している可能性がある。
石鳥居は地震で倒れたり、風雪(凍結融解)で傷んだりしやすい。特に貫や木鼻は壊れやすいので、脱落したり、取り換えられたものが散見される。さらに折れた柱や笠木・島木をカスガイ・モルタルで補修したもの、鉄板とボルトで固定したもの、倒れないようにワイヤーで両側から引っ張ってあるもの・・・・
19世紀になると貫に年号を刻む小型鳥居が出現するが、折れた貫を新材に交換する際に、当初の記年銘を複製した例があった。石工たちにも大切な記録を保存する意識があるのだろう。
また、鳥居には願主や施主が刻まれる場合があるほか、まれに石工名が刻まれる。貫を留める石の楔にわざわざ髙橋某と名前を刻んだものがあった。見えにくい楔にわざわざ名を刻む・・・たぶん石工だろう。その人間臭さに思わず笑みが漏れる。
高畠の石鳥居の特徴はなんといっても八角柱の台輪鳥居。デモをした青龍寺・薬師堂の鳥居もこの形式だった。台輪も柱に揃えて八角形になっている。
一本柳・水雲神社
糠野目のある神社では新潟地震で壊れた柱の残欠を、神主さんが大事に保存し、自宅の庭石に転用していた。同じく折れた柱を4分割し、御神木を囲う柵の支柱に再利用している神社があった。断片とはいえモノを残すことは土地の記憶を伝えることである。
ダンプにぶつけられ保険で直されたという傷だらけの鳥居、東日本大震災で倒れるも石の会の石工によって修理され復活した鳥居・・・。1基1基に物語が詰まっている。
傷つき、修理されつつ鳥居は地域の暮らしをずっと見つめてきた。地域の人に守られながらいまもそこにある。われわれはその姿を記録し、次世代に残したいと願う。そして、あわよくば石鳥居から高畠の歴史や独自の文化・景観を見出し価値付けしたい。
古文書撮影に1年生が初参加です。
2年生も立派な先輩をつとめてくれました。
保存と研究のために古文書1枚1枚を撮影していくこの作業。
地道極まりないですが、とても大切な作業です。
本日撮影したのは、お医者さんをしていたお宅に残っていた古文書ですが内容は実にさまざま。
医学関係の書籍はもちろん、政治・経済・歴史などなど、その博識さがうかがえます。
撮影技術は一日みっちりやればある程度身につきます。
技術が身に付くと単純作業の繰り返しのようになってしまいますが、いろいろな古文書に出会えるのも楽しみのひとつです。
形だけでもいろいろです。
さらにくずし字が読めるようになると、内容を知る楽しさもでてきます。
ホンモノの古文書に触れる貴重な経験です。
初心者大歓迎ですので、興味のある方は竹原研究室まで連絡ください。
更新遅れました。
6月22日土曜に二年生の歴史資料演習の授業の一環で山形城の三の丸を歩いてきました。
今回は学生だけではなく、高校生やその保護者などの方にも参加していただきました。
大学コンソーシアム山形に集合し、初め佐藤先生による山形城についての建設・改修・改築についての話しや山形城についての簡単な歴史の説明などを行なってもらい明治期の山形城の様子などについての説明を受けました。
最後に現在の三の丸跡の説明を受け山形城における堀や土塁などの特徴的な形の説明を受けていざ三の丸跡へと出発しました。
山形駅前の大通りを歩くところ約五分最初の目的地である歌懸稲荷神社に到着し、より詳しい山形城の説明や信仰面の話なども聞くことができました。その後境内の西側にある土塁を目指しました。土塁の上を歩いていると急な斜面ができており戦国期における堀の跡や土塁を確認することができ、現代ではまず見ることができない昔の情景がそこには映し出されていました。
土塁の上では、実際に山形城のある方角へ目を向けましたが、ビル群が邪魔をして目でとらえることはできませんでした…
その代わりに土塁の上を歩くという貴重な体験ができた事や実際に堀と土塁を間近に見ることができたのはとても貴重な体験でした!
次回は夏休みの期間中に行なわれるので今回の経験を生かし、また山形城の三の丸跡を歩きたいと思います!!
芦野石は白河石(福島県白河市)と同じ溶結凝灰岩。緻密で安山岩のような質感がある。2001世界石建築大賞を受賞したというストーンプラザを訪ねた。建築家隈研吾氏の設計による石の美術館である。歴史や技術も学べるが、石という素材の可能性を追求するアートな空間となっている。
見学の後は、まちなかと石切り場を歩いた。やはり多くのお宅に石の祠がある。何軒かのお宅や歴史探訪館の館長さんに聞いてみる。温泉神社との関連を示唆するも、信仰の詳細はよくわからなかった。路傍には石碑、石仏が散在するが、石の町を主張する気配は感じられない。街道筋の住宅には門前に旅籠名を入れた石柱が設置されており、宿場町の記憶を伝えようとしている。整備はこれかららしい。
私たちが調査している高畠と同じように、農村部に石が集積する町として著名な徳次郎にやってきた。といっても規模がまるで違う。その量に圧倒されながら、徳次郎6カ村の西根、田中、門前などを訪ねて歩いた。
地元の徳次郎石は緑色がかっていて、ミソと呼ばれる「ス」が少ない。したがって細工物や貼り石に用いられた。西根の集落ではメインストリートに面して蔵や石塀が林立するので石が目立つ。各家庭には石蔵が1~4棟あり、石瓦の屋根も少なくない。家財をいれておくだけでなく、アーチ形の入口をもつ「アマヤ」は農作業場や、農機具置き場として利用されている。かつては芋なども貯蔵した。石蔵といっても大谷の延石(五十石)を縦積みした構造体をなすものと、木骨の外壁に徳次郎石の薄板を貼り付けたものがある。後者が古いらしい。
石蔵は、巷間いわれるように火災から財産を守る(西根集落では110年間火災がないそうだ)だけでなく、上層農家の富貴の象徴として建てられた。蔵の窓や庇の装飾がとにかく派手である。垂木や斗供表現、唐草・雲形文、七福神のレリーフ・・・。また、ギリシャ神殿建築の円柱表現がやけに目につく。和洋テイストがごちゃまぜの感。もはや過剰デザインの域に達している。
作る側、使う側の、その時々の信仰やあこがれ意識がこのような多様性を生んできたと思われる。高畠には見られない世界がここにはある。
古い住宅の母屋は木造で基礎は延石ではなく、玉石を使う。高畠では明治以降は6尺の延べ石を使う。母屋が石積みの家が1軒だけ残っていた。蔵外壁の石材配置パターンもさまざまだ。近年建てた住宅で外壁にすべて大谷石を使っている家もある。建築基準法と折合いながら石の景観を大切にしている。
西根集落は、平成23年2月に認定公表された「とちぎのふるさと田園風景百選」に選ばれ、バス見学ツアーの団体もくるそうだ。
道路を歩いていると、車で通りかかったおばさんがわざわざ降りてきて、見どころを説明してくださった。外部からの注目を集めることで、住民に石の里の景観を守って行こうという意識があるようだ。現在はNPO法人大谷石研究会(景観整備機構)と宇都宮大学が調査に入っている。成果が公表される日を待ちたい。
そんななか、東日本大震災はこの町にも被害を及ぼした。石蔵や石塀は地震に弱い。大棟や屋根の石瓦、石壁が落ちたままの家がある。棟石が崩れて屋根をトタンに替えた家もあった。一番大きな被害のあった石蔵は壁が落ちたまま手がつけられず放置されていた。
各世帯には裏庭(山)に氏神様を祭る石鳥居と石祠がある。祠は1~3つで、ほかに稲荷神などを祀っている。聞いてみると祭日やお供えは各家庭で異なっていて、あるお宅では10月10日に尾頭付き(サンマなど)と赤飯、お神酒を供えて、注連縄と幣を新しくするという。あるお宅では正月だった。井戸神や水神の祠もあった。高畠の屋敷明神と比べると、こちらは立派な構えであるが、家と豊作、豊かな水を願う心は同じである。
その他土留め、石垣、水路の護岸、置石等、踏み石、橋、洗い場、集石など多様な使い道は高畠にも通じる。それでは高畠の特徴ななんだろうか?
酪農と結びついたサイロ、庭文化として根付いたナツカワや自然石の多用、住宅基礎への延べ石の積極的利用とその転用としての境界石や土留め石、野積みの石塀、間知石や端材利用、各種生活道具(珍品が実に多い)が思いつく。昭和35年頃から機械掘りが普及した大谷石にはチェンソーの石目がつく。高畠で最後まで手掘りだったため、表面感が野趣に富み軟らかい。
石の里の魅力はその「量」や「派手さ」ではない。高畠石の生産は大谷から見れば小さい。しかし、ここには独自の採掘技術があり、徳次郎とは違う生業、社会があった。ふんだんに石があって価格も安い大谷とは石材に対する価値観も異なる。高畠の石使いには手仕事のぬくもりと資源を持続的に使い続けるという、味わい深い魅力があることを改めて感じる旅であった。
6月の末に学生たちと石の町-大谷(宇都宮市)と芦野(那須町)を訪ねた。
大谷資料館
大谷は東日本屈指の石材(凝灰岩)産地。房州石や伊豆青石とともに首都圏の近代化を支えた。
大谷資料館は震災後、岩盤崩落の心配から閉鎖されていたが、この4月に再開された。石材採掘技術を学ぶ展示室と地下の垣根掘り丁場が公開されている。震災前より見学者が増えているように感じていたら、学生曰く、最近話題のアニメ「進撃の巨人」のエンディングテーマ「美しき残酷な世界」のミュージックビデオがここで撮影され、若者にも知名度があがったそうだ。親切で勉強熱心な2人のボランティアガイドが付きっ切りで説明してくれた。というより、こちらが質問攻めにして離さなかったというのが正確だった。
切り出す石の標準サイズは「五十石(ごっといし)」といって、5寸×10寸(=1尺)×3尺、すなわち長さが90cm、断面が15cm×30cmである。30㎝四方の石を切り出して、これを二つ割にする。1本1本背負子で担いで貯石場まで運び出す。この規格的な五十石で建物や石塀が造られている。
房州石など、各地の石材はいずれも3尺が標準である。高畠がなぜ6尺の「一二八(いちにいはち)」という大きな石を現代まで標準としたのか。往時は手掘りで1日10本、1本切り出すのに4,000回ツルを打ったという。高畠石は80歳のG氏が引退間際で6尺×1尺2寸×8寸、1本を切るのに4,200回余り(若いころはもっと少なく、切り出しは1日1~2本程度といわれる)。大谷の五十石で4,000回はちょっと大げさだろう。資料館周辺には露天掘り丁場跡がいくつもある。石切り場はどこも埃っぽくて、殺風景だけれども職人のにおいがして好きだ。
それから大谷の町を少し歩いた。そこかしこに石造りの建物があって「石の町」独特の雰囲気がある。しかし石材産業は斜陽の趣があって、廃墟感が漂う。さすがの大谷も例外ではない。
さらに、市街地にある教会建築を二つ見学した。松ヶ峰教会は1932年竣工、戦争で罹災後、1948年に復興した。登録文化財として活用しながら保存されている。親切な神父さんが中を案内してくれた。エレベーター付設の際に取り付けられた屋根の雨水排水口に「蛙」の石造物が使われている。どうみても「カメレオン」にみえるが、神父さんはゴム靴を履いた「カエル」だと言い張った。建築当時の司祭が宮沢賢治と深い親交があり、童話「蛙のゴム靴」に登場するカエルにちなんで作ったのだという。
帰り際にお礼を言って出ようとすると「また来てください!」というので、「今日は下見、今度は結婚式で・・・」というと微笑んで見送ってくれた。
夜はお決まりのギョーザ。閉店間際に並んで食べる。食うと決めたら食う!
そういえば行きの安達太良SAから食欲旺盛。お昼もおいしいラーメンも30分並んで食べた。欲があってなかなかよろしい。
7月2日火曜歴史遺産文献購読1で佐藤ゼミの3年生は山形県寒河江市の慈恩寺に行きました。
4月28日~7月15日まで公開されている慈恩寺秘仏展を見るためです。
今回公開されている秘仏は非公開の木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)、木造大日如来坐像(県指定有形文化財)と秘仏の木造勢至菩薩立像(市指定有形文化財)、木造観音菩薩立像(市指定有形文化財)の計4点です。
秘仏が公開されている場所は三重塔内部に木造大日如来坐像が、残り3体の像が本堂に於いて公開されていました。
まず本堂に行くと、一般公開されている弥勒菩薩を始めとした仏像の説明を受けた後に3体の秘仏が置かれる部屋に向かいました。
感想としましては、その部屋に置かれる秘仏はどれも圧倒されるものばかりでした。
どの仏像も細かなところまで掘られており、その施された細工は美しいものばかりでした。
そのために一部欠損箇所があったのが悔やまれます。
しかし、それを差し引いても秘仏たちが並ぶ姿は部屋の独特の静けさもあり、神秘的な光景でした。
写真撮影厳禁でしたので秘仏や置かれている部屋の雰囲気をお伝えできないのが残念です。
三重塔に向かうと内部の中心に木造大日如来坐像が置かれていました。何でも、中心に像を置くように作られたとか。塔は心柱でバランスをとるような仕組みになっていますが、中心に像を置くために心柱はニ階までとなっていました。
本当に山形のお寺の中でも大きなお寺だったと感じました。多くの仏像と歴史の重みからもそのことを感じさせられました。本当に今回行けたことは貴重な体験だったと思います。