歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
*
2013-10-31

たかはた石工サミット

 

10月27日(日)「たかはた石工サミット-往年の石工の技が今蘇る」を開催した。

 

参加者は80名余り。遠くは兵庫県、静岡県から。福島県、宮城県から10名。心配した台風の直撃は避けられたものの時折小雨が降る肌寒い一日だった。

 

チーム「まちあるき」の学生らは高畠石に関するポスターを制作し、午前中、会場の壁面に展示した。石工道具の展示とあわせ、短い時間だったが協力して素早く設営をすませた。

 

まず主催者、町教育長のあいさつに続き、2台のスクリーンで高畠石採掘の歴史について発表した。片方は石切り工程を動画で流した。

次いで、引地さんが展示してある石工道具の使い方を解説してくれた。

 

実演①はホッキリヅルによる角石の石切り。これまで最後の石切職人として活躍された後藤初雄さんの仕事しか見たことはなかったが、今回、はじめて引地兼二さんがツルをふるってくれた。職人によりいくつかの動作の違いがあることを確認した。実演②は森一さん、深瀬さんによる間知石作り。ツキタガネを使った発破がけからゲンノウ割りまで一連の作業を実演してくれた。

 みなさん、齢80を迎え、現役を引退して久しい。森さんは実に50年ぶりだという。本人たちは謙遜するが、体で覚えた技は簡単には忘れない。84歳の後藤初雄さん、89歳の森谷広衛さんも元気な姿をみせてくれた。瓜割で稼いでいた小梁川勝一さんも懐かしそうに昔の話を聞かせてくれた。

 引地道春さんらが指導してくれたノミとセットウによる石加工、ノミ・ツルの焼き入れ(鍛冶)。閉会時間が過ぎても体験を続ける参加者がいたほど盛況だった。特に彫刻専攻の女子大生の見事なノミさばきに感心し見入っていた森谷さんの姿が印象的だった。

 

 

 

20代の大学生や30代の若いひとたちがおおぜいきてくれた。

「生身の体と道具一つで石を切る」

石切り体験をした若者たちは何を感じただろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013-10-31

10月22日 総合大学体験学習「歴史遺産フィールドワーク」

10月22日大学で行われている授業がどういうものか知ってもらおうということで山形県立米沢東高校で「再発見!米沢の街並み」と銘打って歴史遺産フィールドワークが行われました。

 

民俗・人類学担当の田口教授による「民家コース」、考古学を担当する北野教授の「石造物コース」、歴史学が担当分野の佐藤教授の「街路・水路コース」の3つに分かれて行いました。ここでは自分が参加した「街路・水路コース」について書いていきます。

 

下見のときにやったようにそれぞれの場所で昔の地図と今の地形を見比べました。下見のときも思いましたが、昔の地図の地形がそのまま残っていたり、水路もコンクリートで舗装されているものの残っていたりで歴史を大切にする町なんだなぁと感じました。

 

 

 

 

 

 

今回は高校生の方に授業でどんなことをやっているのか知ってもらうことが目的なので石碑調査でよく行う距離の測定を実際にやってもらいました。

昔の地図に書いてある場所の距離と現在の場所の距離が正しいかを確かめるために行いましたが、ほぼ昔の地図と同じ距離でした。

 

 

 

 

 

 

 

写真だと見にくいですが奥の人が持っている紙に赤外線のポインターのようなものを当ててはかっています。

距離の測定は一気にやろうとすると赤外線のポイントを見逃してしまうので何回かに分けて高校生の方たちにやってもらいました。

 

今回のチュートリアルで高校生のみなさんが住んでいる地域の新しい発見、芸工大で行われている授業がどんなものか少しでもわかってもらえたらうれしいです。

私たちを迎える準備をしてくれた米沢東高校の生徒や先生のみなさん、本当にありがとうございました。

 

 

 

2013-10-20

石鳥居の原風景

 

高畠まちあるき-石鳥居の悉皆調査の第4回目。

朝9時にふるかわ邸に集合。ネームプレートと調査グッズを持参し、4班に分かれ町内各地に飛び散る。脚立、5mスタッフ、クリノメーター、レーザー測距計、角度計、コンベックス、2枚の記録シートと画板、コンデジ・・・・

一日中雨降りにもかかわらず調査を続け、今日も30か所以上の鳥居のデータが集まってきた。16時過ぎからぬれた体を温めながら報告会。奥様が出してくれたそば茶と味のしみただいこん煮が空きっ腹にしみる。

 

 

高畠では圧倒的多数を占める明神系の石鳥居は18世紀半ばごろから建ち始めたようだ。

その初現期とみられる石鳥居の形や加工の特徴がわかってきた。肥前系といわれる北目の「愛宕山鳥居」とも共通する。

また、北に来るにつれて「八角柱」が増えてきた。いったいいくつあるのだろうか?楽しみである。

 

もうひとつ分かってきたことは、鳥居というと「神社」を連想するが、ここでは山麓のあちこちに明確な社名のない石鳥居と祠が多数存在することだ。それらはたいていは「山神」や「稲荷」をまつる。「毘沙門天」や「千手観音」「馬頭観音」などもある。集落の「鎮守様」と扱われているものもあるが、もう少し小さい単位で祀られている(場合によっては一族で)。明治期に「神社」に編成されなかった社たち。

山野の開発とともに屋敷の周辺、里と山の境のあちこちに神や仏を祀った姿がみえてくる。鳥居のない祠だけのものとなると、その数はしれない。これに加えて屋敷神(これも山の神や稲荷が多い)がある。もちろん火伏せ(古峯・秋葉)、水神・竜神、三宝荒神・・・・ほんとうに神様だらけだ。。。。

人知のしれない自然や思いのままならない日常のくらし。神に祈り、感謝する暮らしが垣間見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥居の形は祀られている神様と対応している。当たり前のことだが、これまでそんな風に鳥居をみていなかったので、いまさらながら教えられた。

今日は本殿の形とも対応していることを確認した。

平入りで独立棟持ち柱をもつ神明造(伊勢神宮など)の神社には神明系鳥居がたっている。そして神社名は(皇)大神宮・・・・これまで漠然と見ていたモノがやっとつながってきた。

知識として知ることよりもこうやって再発見していくプロセスが面白い。フィールドワークの醍醐味だ。

2013-10-20

10月18日 石碑調査

10月18日金曜日に石碑調査がありました。

場所は前回と同じで八森地区の調査を行いました。

八森は芸工大から西蔵王へ向かう途中にあります。

さて今回は5人という限られた人数での調査になりましたが、調査内容は一段と高いものを求められます。

 

今回はこの八幡神社で調査を行いました。

石碑の数もかなり多く調査は時間のかかるものになりました。

平面図作りも石碑調査に並行して行われましたが、変則的な入口をしていることもあってかなり大変な作業となりました。

 

そしてこの季節ですので夕方になると急に寒くなり学生も悪戦苦闘していました。

中にはカラスに糞を落とされる学生もおりました。

しかしペースを崩すことなく一つ一つ丁寧な調査を行っていきました。

 

 

 

そして順調に作業が進んだ結果、八幡神社の調査を終えることが出来ました。

かなりいいペースで調査が進んでいると感じます。

次回はどんな場所を調査するのでしょうか?

天候が良いといいのですが…

 

 

 

 

2013-10-17

米沢城下の道・水路を歩いてみる…(下見編)

城があった頃の地図に描かれていた道や水路が、今も残っているって、ちょっとしたロマンですよね。

 

 

10月22日に、米沢東高校の方と一緒に、タイトルにもあるような活動をします。

活動の正式名称はちょっと忘れました。ごめんなさい。

で、それの下見ということで、15日にゼミで米沢に行ってきました。

台風上陸前日だったからか、天気は微妙でした…残念!

 

古地図と現在の地図を照らし合わせてみると、古地図に載っている道や水路が、現在も意外と多く使われていました。

とはいえ、コンクリートで舗装はされちゃっているわけで…。

まあ、これも時代の流れというものでしょうか。

 

何も言われないで歩いていたら、まさかこれが昔の水路だとは誰も思わないですよね。

今まで気が付かなかった街の魅力を知ることができるのではないでしょうか。

 

公園にあった石垣。

三の丸の土手であった当時のままなのだろうか?

そして、この滑り台…。

全く関係ないけれど、滑るのに勇気がいるかもしれない。

 

来週は、高校生と回ることになりますが、また新たな発見があるかもしれないですね。

2013-10-15

後期 石碑調査

10月4日金曜日に石碑調査に行ってきました。

夏休みをはさんでいたのでかなり久々の調査になりました。

参加生徒は4人と少なかったです。

今回は自分たちで石碑が立っている土地の地形図のようなものを書きました。

まずは庚申塔をみつけたのでいつものようにどのようなことが書かれてあるか調べました。

そして初めての地形図作りをしました。

近くには畑や民家、道路、水路などがあったので、石碑を中心にするようにしてこれらの距離を測りました。

距離を測ってから図に起こす作業もなかなか大変であり、結構時間がかかってしましました。

次にこの場所の近くにある神社の石碑の調査を行いました。

庚申塔の設置されていたところよりはだいぶ小さい場所だったのですが、石碑の裏側が草に覆われていたり、光がさしてこなくて字が見にくかったりでとにかく読みづらかったです。

これは湯殿山と書いてあります

中には像が置いてありました。左側にも何か形が似ているようなものがあったようですが壊れていました。

今回は地形を測って図に起こすという作業をはじめてやりました。

大変な分、地形図が出来上がった時の達成感はすごかったです。

次はもっと上手に作れるようになりたいと思います。

2013-10-14

鋸山ツアー

3連休で宿がなくて困っていたら、主催者側から改修中の空き家があるとお誘いをいただいた。風呂が使えなくて(徒歩1分に温泉あり)、トイレの水が流れなくて(夜修理に来てくれた。感謝!)、ちょっとカビ臭くて(リセッシュしたら快適)、ゴキブリやクモなどいろんな虫がいて(平気な子たちが退治)、蚊も飛んでいて(温泉から蚊取り線香一巻きをいただく)、不気味なふすまの張り紙に怯えることはあっても、それ以外何の不都合もない、われわれには十分すぎる宿だった。スタッフの温かいおもてなしの心に包まれてみんなで仲良く寝た。

 

翌朝、学生たちは5時半に起き、6時半からまちあるきに出かけた(私だけ7時まで寝ておりました)。7時半から明治年間に建てられ登録文化財になっている鈴木家の石蔵内部やお稲荷さんをみせていただく。外壁は見事な桜目の石材をふんだんに使っている。家主夫妻と長田さん(建築史)の解説を聞きながらその構造を勉強した。2階建ての石蔵は美術館別館となっていて「海女ちゃん」の写真が展示されている。朝から房総の海女のたくましさに触れて眠気が一気に醒めた・・・・ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

鋸山ツアーの一団約30名は9時にロープウェイ乗り場に集合。ここから、近世以前にさかのぼるとみられる山麓丁場、近世・近代に「中石」を取った山腹丁場と、道なき道を歩いた。普段歩いている落葉樹の森とは違い、照葉樹の森は暗いが低木が少なく歩きやすい。目立ったのはイノシシの「ヌタ場」。泥の上でのたうちまわったあとや、ミミズを探してか、土を掘り返した跡があちこちにある。サルも含め、野生動物被害はここでも深刻らしい。

 

 

もとの道を下り、ロープウェイで一気に山頂へ。房州石製のポストの前で記念写真。恋人の聖地。ここから手紙をを出すと思いがかなうらしい・・・・。思い人がいないのか、手紙を出す学生は誰もいなかった。 

 

 

 

 百尺観音のある日本寺の境内に入り、いよいよ山頂域の石切り場ツアー。切り立った壁の高さは、最も高いところで98mという。ここでは70m、80m級の壁が林立する。高畠では高くて30mにすぎない。そのスケールは桁外れで、奥に掘り進んだところもあり、ビルの廃墟のようでもある。

 

 

大規模丁場の前面にはズリ(くず石)や製品を搬出する細い通路がある。「口(中)抜き」という。こうなると手間がかかるため丁場は廃絶を迎える(鈴木氏の解説)。確かに高畠等でも同じような廃絶の仕方をしている。合点がいった。

 

圧巻は「樋道」と呼ばれる石降ろし道。急斜面に石を敷き、藤蔓で連結した石をウォータースライダーのように滑り落としたのだという。にわかには信じがたい話である。

 

鈴木氏の芳家石店の丁場では毎年、鋸山コンサートが行われる。ここでは壁に「桜目」を切り出した跡がみられた。また索道やチェンソーなどの機械類が錆びついたまま放置され、往時の賑わいと時間の経過を感じさせてくれる。今後は鉄のさび止め等の措置が必要となろう。

12時半をまわり、参加者に配られたおやつのバームクーヘン(金谷名物)をみんなで頬張る。

 

 

 

最後は、運搬役の女性たちがネコ車に80kgの切石を3個ずつ積んで下った「車力(しゃりき)道」。かつてはここを1日に3往復をしたという。ブレーキをかけながら下りるのは命がけである。そして上る時は約50kgのネコ車を背負って上る。考えられない。

 

2日間晴天に恵まれ、地域を愛し、石を愛する人たちと交流することができた。

 

地域で豊かに生きることは、先人たちの財産を引き受け、次世代につなぐ営みのなかに、集った人々が時の流れの連続性と土地の固有性に誇りを感じつつ、ありふれた日常に感謝しながら暮らすことなのだろう。

 

 

 

帰路、寝不足と山歩きで心地よい疲れが車中を包む。

 

東京湾アクアラインからスカイツリーを横目に首都高を抜けて、東北道にはいったころにはもう日が傾いていた。

 

 

 

 

 

2013-10-14

山形城三ノ丸調査(西側)

 9月25日から9月28日にかけて2年生の歴史学資料演習で山形城三ノ丸調査を行いました。(東側)の紹介でもあったように昔の城郭絵図資料を頼りに当時の三ノ丸にあった城内への入り口である口と土塁、水濠が現在の何処にあったのか、班ごとに実際に歩いて目で確かめ検証していきます。山形城の三ノ丸は全国的にも広く、11つの口があったとされ、またそれぞれの口の近くには稲荷神社が設けてあり、それも調査の対象として巡りました。

 

 現地調査では当時の土塁跡などの遺構も少なからず残っており、それらの寸法の計測を行いました。そうした情報は後々現在の地図におとす上でも非常に参考になるのです。また発見のひとつとして城から西の小田口付近の稲荷神社には当時の小田口を絵に描いたものが奉納されており、その発見で当時の口が桝形虎口であって神社の位置も城内にあるという推定もたてることができました。

 

 それで絵図もよく確認すると他の口の形態は、ほとんどが桝形の口で、入口がコーナーを描きそれに土塁、水濠も曲がった造りになっている事に気が付きました。桝形虎口でも二ノ丸の口と同様に三ノ丸の口も「外桝形虎口」と「内桝形虎口」の両方の造りがあり、そういった観点にも今回の調査では視野に入れ考え、それに伴った道のカーブも現在の道から発見することができました。桝形虎口は当時の近世城郭では多くみられる造りであり山形城では、ほとんどの口にそれが採用されています。また外からは城内が見えないことから権威の象徴としての役割も兼ね備えていたとされ、それら広大な三ノ丸に廻っていた立派な防御施設であることが今回の調査で改めて実感し、調査で丸2日かけて三の丸一周したこともあり...たしかに奥羽最大の城と言われる由縁もわかる気がしました。

財部稲荷神社に奉納されていた、当時の小田口の風景と思われる絵図をトレースしたもの。

画像下の小田口は「外桝形虎口」で、左の北側、下条口と肴町口は「内桝形虎口」

2013-10-13

地域に生まれ、地域に生きること

 

朝6:30大学を出発。学生たちと房州石の里ー富津市金谷を訪ねた。

 

5回目を数える「石の町シンポジウム」。昨年、高畠にお招きした金谷ストーンコミュニティの代表の方々が主体となって企画運営している房州石の学術的価値づけを目的としたシンポジウムである。しかし、参加してみると分かるが、決して研究者だけの集まりではない。世代、職業を越えた各層の人々が参加し、県外からも応援団が駆けつける。

 

金谷の丘陵は江戸後期~明治・大正・戦前にかけて大規模に採掘され、その稜線は景勝地「鋸山(のこぎりやま)」と称されるほど石切りによって人工的な山容に姿を変えた。その規模は伊豆青石とともに全国一の規模を誇る。

 

 房総の海をながめながらお昼の弁当を食べる。背景にみえるのは鋸山の山並み。

 

 

 

現在は国定公園となり首都圏から多くのハイカーでにぎわう。関東大震災の復興期には町の80%が石材業に従事したといわれる。しかし、もう石は産出していない。往時の石工たちはだれがこのにぎわいを予想できただろうか。

 

山中に眠るあまたの石切り場跡・石引道(車力道)、町なかの屋敷まわりを囲む石塀は「石の町」の記憶を呼び起こす。車の入らない路地が起伏のある地形に沿って複雑に入り組む町並み。どんな景色に出会えるか、ふと誰かに出会うかもしれないドキドキ感。不思議な魅力的をもった町だと思う。 

 

 

 

 

 

金谷で生きることは、先人たちの暮らした土地の記憶を学び、その遺産の上に豊かな未来を展望することだ。そんな想いを共有する人々が集まるのが「石の町シンポジウム」。そして、想いに賛同する研究者が各地から集まってくる。人の交流がまた人を呼び寄せる。

 

「恋人の聖地」のモニュメントのある海辺のレストランで、石の好きな人が集まった夕食会がひらかれた。チーム「高畠まちあるき」の学生たちも一人ひとりが石の専門家である。「石蔵」「サイロ」「なつかわ(石船)」「石塀」「入川樋」「石祠」「石のある風景のスケッチ」堂々と自分をそう名乗ることができる。

 

学生たちには過分のおもてなしを受けた。握り寿司を食いきれなかったのが心残り。

ありがたいことだ・・・・・また来よう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恒例の天羽高校吹奏楽部と合唱部によるミニコンサート、アニメソングからポップス・演歌メドレー。座っていられなくて手拍子を叩きまくった。金谷最後の石切り職人鈴木士朗氏と聞き書き甲子園の高校1年生。世代を越えて職人の魂を引き継いでいく。

 

防波堤のうえでお弁当食べる学生たちのとなりに親子3人。真ん中で控えめなお父さんととびっきりの笑顔をみせる母娘。同僚がカメラにおさめてあげた。房総の海を背景に素敵な家族の絵だった。

 

  

 

鋸山からは高層ビルが林立する首都ー東京、三浦半島、伊豆半島、箱根、富士山が一望できる。かつて、ここで石を切っていた職人たちは高みから変貌する社会をどのようにみていたのだろうか。

 

 

2013-10-09

たかはた石工サミット

そこに石があるから・・・・

 

生活の糧として身の回りの自然を利用しながら生きてきた。ただそれだけだという、職人たちの生き方と魂。なぜそれがまぶしく見えるのか?

 

生身の体とツル1本で石と向き合う。日本列島で1700年あまり脈々と受け継がれてきた伝統の石切り。21世紀のはじめ、この地でその歴史に終止符が打たれた。もう80歳、90歳を迎えた往年の石工たちが、いま私たちのためにその技を再現してくれる。

どんなメッセージが込められているのか。

 

ぜひ「本物」の技に触れてみてください。

 

10月27日(日)午後 雨天決行

 角石作りと間知石作り、道具(角石用・間知石用・かな石用)の展示、石切り体験など

 

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報

東北芸術工科大学
TUADBLOG