半年間、鳥居探しをしていたら悪い病気に感染した。車窓から鳥居の風景が勝手に目に飛び込んでくる。学生のなかにもいるらしい。
まちあるきの中でいくつか不法投棄防止の赤鳥居に出くわした。
繁華街の立小便や山中のゴミの不法投棄を防止するために日本人の道徳心に訴えたものらしい。前者はミミズに小便をかけると○○が腫れる、神社の鳥居に○○すると・・・・・・・・という伝承が広く流布しているからだという。
神社で無作法なことをするとバチがあたる。そんなしつけも昔からあった。その象徴が鳥居なのだろう。
赤は目立つのと稲荷神社の神徳を表しているのかもしれない。また狐は祀らないと祟るともいう。
写真は私が高畠の山の中で出会った鳥居。
額束の文字がふるっている。高畠では「山神」を祀る社が非常に多い。よく見ると「山羊神」だ・・・・・
この鳥居を作った人のユーモアに拍手!
日頃の活動を町民の方々に知ってもらうために高畠町交流プラザでポスター展示を行っています。学生たちが製作したポスターをぜひご覧ください。
12月13日は同所にて報告会「高畠石の現在」が開催されます。
12月8日。毎年、最後のまちあるきはうっすら雪化粧をした風景を見ながら歩く。
この日も明け方に降った雪が、里山の木々を軟らかく包んでいた。
今回はこれまで集めたデータの補足調査が中心だった。1年生から卒業生まで多彩な顔ぶれが揃った。これまで頑張ってきた4年生が締切りまで2週間足らずという卒論の追い込みで出られないのはしょうがない(そんな中、朝8時に参加する気満々で来た4年生がいた。あなたの心意気を忘れません!)。
私の班は唯一未調査だった市街地の新規鳥居を調べて回った。
2つの興味深い事例に接した。1つ目は個人宅で祀っていた稲荷神を家主が亡くなった後、町の鎮守とは別に近所の人たちが自分たちの神として祭祀を受け継いでいる例があった。2つ目はかつて地主の個人宅にあった鳥居と祠が、その土地が料亭に売却されたことを契機に移転し、それを町内の鎮守として祀っている例である。元は木製の明神系鳥居だったが、改築に際し、祭神に合わせ石製の神明鳥居に変わった。ちなみに石材は高畠石ではなく安価な外国産御影の加工品が用いられている。
神社や鳥居もこうやって社会の荒波にもまれ変遷していることがわかる。
かつて村々にあった八百万の神、請われて田舎に引っ越してきた神。逆に大きな神社には諸事情で合祀されるようになった神が集っている。人が作りだした神様ゆえか、そうやって人の都合で右往左往させられもしてきた。
神社とそこに集積する石碑の数々は、自然を畏れ、その恵みに感謝し、人と人のつながりを大切に生きてきた地域の信仰の証である。現代社会に暮らす私たちは先人たちが伝えてきたこの信仰と「装置」をどう受け止め次の世代に渡すのか。半年間、たかはたの石鳥居を歩きながらそんなことを考えてきた。
愛宕山神社の鳥居。手元の写真を見てみたらしばらくの間に随分姿をかえていた。
上:2009年
中:2011円震災後 貫が折れ額束落ちる。右の木鼻がトラックにぶつけられ破損脱落
下:現在 2012年に貫・木鼻が木材に
最下:愛宕山山頂の勝軍地蔵堂
実は愛宕山鳥居のすぐそばにもうひとつ別の鳥居があったことは余り知られていない。
明和年間の銘を持つ薬師堂(羽山)の鳥居と同工品でKさんの庭に立つ諏訪神を祀る鳥居(八角柱で台輪も八角)だ。90度向きが異なり羽山の方を向いていたという。30年あまり前にここから現在地に移築された。おばあちゃんが現地で往時のことを語ってくれた。
この3年間のまちあるきの中で、そんな小さな変化をたくさん見、そして記録してきた。
静的な事象を記述するのではなく、変化するコトやモノが束になって、ストーリーとなってはじめて今の高畠らしさが描きだせるのだろう。途切れることのない地域の暮らしの歩みから醸し出される個性。移りゆく社会に翻弄されながらも土地に根付きひたむきに生きてきた人々の足跡をもう少し追いかけさせてもらおう。
タイトル通り、11月29日に石碑調査をしてきました。
天気は曇りでしたが風が強くてすごい寒かったです。
参加人数わずかに3人… 人手が欲しいですね…
今回はここにある石碑を調査しました。
地面が雨のせいかブヨブヨしていてちょっときつかったです。
いつも通りにメジャーで測ったり、
文字を読んだりしました。
ここにある石碑はもともと別の場所にあったものをうつしたものということを通りかかったお爺さんに聞きました。馬頭観音の石碑があるということです
石碑には地域の消防団?に関することが書かれてました。
もともとあった場所にいってみると確かに馬頭観音の石碑が置いてありました。
しかし写真は撮っていませんでした…。すみません。
冒頭にもいいましたが、本当に人手がほしいですね…
1・2年生のみなさん今からでも参加してみませんか?
城郭遺構の年代をきめるのは難しい。城は主が変わるたびに改修を繰り返し、現在残っているのはその最終形態であるからだ。
いま東北の戦国史でホットな話題となっているのが米沢の館山城。上杉の町で売っている米沢は、伊達氏の故郷のひとつでもある。伊達政宗が育った「米沢城」は実はこの館山城だったというのが最近の見方である。市教委が行っている確認調査で今年度、枡形門周辺から石垣がみつかった。また、その前面から門・土塁の整備、郭の造成の際に埋め立てられた大規模な空堀も見つかった。
さらにこの石垣等が最終的に「きれい」に壊されて城が廃絶している。いわゆる「破城」である。この壊し方にも特徴がある。
問題はこの石垣造りの格式高い枡形門を整備したのは誰か?
そして、城を壊したのはいつ、誰が?
石垣構築以前の空堀からは16世紀前半~半ばの遺物が出土するという。
石垣の型式属性は、隅角部算木積み。角石直方体化。角脇石なし?。築石控え長く小面ノミ加工多用。布積み傾向。
上杉には慶長5年に築城途中で放棄された会津若松市の神指城があり、一部本丸の石垣が調査されている。
これだけ特徴や比較材料がそろえば年代はかなり絞れる。
あきらかに最終段階は伊達の城ではない。
さてどんなストーリーが描けるか。
遺構は文献史料には出てこない歴史を描き出す。だから面白い・・・・。
もう一題。
米沢市の戸塚山では201号墳の発掘が行われている。従来ないと思われていた山の北麓から見つかった古墳状の高まりだった。調査の結果、やはり古墳だったが、中世に積石をして塚として再利用していることが分かった。周辺からは同様の塚がほかに二つ見つかっており、この山は古墳時代以降も信仰の山として利用されて続けてきたことになる。古墳単体としてはそのような例は珍しくないが、ここではほとんどの支群で多様な中世墓が複合している。史跡としての価値付けをどのような観点で行うか。これから歴史学の研究も取り入れながら調査が続く。