昨年から学科の伝統にしようと始まった歴史遺産学科雪合戦大会。
しかし今年は…。
…なんと、雪がない!
前日と、当日早朝の雨で融けてしまった模様。
この時期に雪が積もっていないのは珍しいことですね。
そこで、今年は2チームに分かれて「しっぽ取り」「陣取り」を行うことと相成りました。
まずは「しっぽ取り」。
各人、しっぽに見立てた紐をつけ、相手チームの人のしっぽをぶんどる遊びです。
しっぽを取られた人は脱落していきます。
相手チーム全員を脱落させるか、制限時間が終わったときに残った人数が多い方が勝ち、というシンプルなルール。
意外とルールを知らない人がいてビックリしました。割とローカルな遊びなのでしょうか。
しっぽを取られないように、なるべく相手に背中を見せないように移動するのがコツです。
取る際には2人以上で挟み撃ちが有効。
先生相手にはひたすら追いかけて疲れさせるのも有効でしたね。
次は「陣取り」。
各チームで王様を決め、その王様が相手チームの陣地を踏んだら勝ち、というゲームです。
ほかに、
1)相手チームの人にタッチされたらじゃんけんをして、負けたらその場から動けなくなる。
(王様がじゃんけんに負けたらその時点でチームの敗北になる)
2)動けなくなった人は王様にタッチされると復活できる。
というルールがあるのですが…。
ヒートアップするにつれ、始めから復活ルールなどなかったかのような
速攻重視の奇策(全員アタッカー、長蛇の陣…etc)ばかりが飛び出す有様でした。
わけのわからぬまに勝敗が決まっていたりも。なんともはちゃめちゃ!
今年は雪合戦ができず、また途中雨に降られるというあいにくの空模様でしたが、
それでも20人ほどの学生が集まってくれて、和気あいあいとレクレーションをすることができました。
企画をしてくれた1年生、おつかれさまでした。
来年はもっとたくさんの学生が参加してくれるといいですね。
副手でした。
1月21日火曜日、佐藤ゼミの3年生は山形県立博物館を訪れました。
目的は今開催されている企画展を見るためです。
話は遡る事、去年の12月18日に佐藤ゼミの3年生は山形県立博物館で行われる企画展の展示のお手伝いをさせて頂くことになったのがきっかけでした。
この時は、展示用の台座の運搬や大きな山形城下絵図を配置するお手伝いをやらせて頂きました。
作業は城下絵図の配置のお手伝いの途中で終わってしまいましたが、山形県立博物館の方々からのご厚意もあり本日お手伝いさせて頂けた展示がどのように完成したのかを見に行ける事となりました。
展示されている山形城下絵図を見てみると、歴代山形藩主の城下の様子が分かりました。かつて57万石あったとされる最上氏から幕末の水野氏の5万石という時代ごとに不安定な状況へと陥った山形藩の姿が見受けることの出来る絵図でした。
また、最後の山形城主となった水野氏がいた時の絵図を今の山形の山形市の街の姿と比較すると、旧山形県庁の文翔館のある場所はまだ建物も立っておらず、空き地であったことに驚きました。
明治になってから新しい政治の場所にしようという事で建てられたそうです。
他にも、「文翔館が建てられるまでどこに県令はいたのか」「山形城の跡地ではどんな物が見つかったのか」などという貴重なお話を聞くことが出来ました。
佐藤ゼミ3年生の講義はこれで終了という事になりますが、春休みは石碑調査や卒論のための研究調査などまだまだやることがたくさんありますので、精一杯取り組んでいきたいなと思います。
高畠町にある屋代村塾にて、創立20周年記念収穫祭が行われました。(2013年11月23日)
屋代村塾は、長井先生率いる日向発掘調査団が夏に2週間も寝食を共にした、とても思い出の深い場所です。約二ヶ月ぶりの屋代村塾。お世話になったみなさんにお礼を告げるべく、私たちも収穫祭に参加しました。地域の方々はあの時と変わらず、私たちを温かく迎え入れてくれました。
屋代村塾の設立者であり初代塾長も務めた大塚勝夫先生のお墓参りの後、記念式典が開催されました。先生ほか各方々の挨拶・祝辞の後、まさかの学生に発表の場が…! 参加した学生3人は緊張しながらも各々の思いを壇上で述べました。(写真は長井ゼミ3年のI君が壇上で挨拶の様子。堂々と立派でした!)
式典の後には、餅つきが行われました。
同時に、台所では美味しい料理の準備が着々と進められています。
餅つきの様子。冨樫さんの力強い杵さばきが伝わってきます…(笑)
学生も先生も餅つきをやらせていただきました。皆笑顔で楽しそうです!
餅が出来上がった後には机にたくさんの料理が並べられ、懇親会が始まりました。
餅料理は鴨肉を使ったお雑煮と納豆餅と、ザーサイの葉で包んださっぱりとしたお餅の3種類です。私は納豆餅とザーサイを使ったお餅は初めて食べましたが、お雑煮も含めてどれも美味しくて感激しました。他にもラ・フランスを使った料理や緑のトマトを使ったピクルスなど普段食べる機会がないような、様々な美味しいものを頂きました。
下の画像はラ・フランスを使ったサラダです。長井ゼミ3年のI君がすごく気に入っていました(笑) 色とりどりのもみじがとても綺麗です。
懇親会では、屋代村塾に関わる方々をはじめ、参加された地域の皆さんとたくさんお話をさせていただきました。食事の大切さや地域の農業についてなど様々なお話を聞き、普段日向の考古漬けな私たちにとってこの地域の知らなかった一面も新たに知ることができました。
日向の歴史を調査し学んでいく上で、この地での生活や地域性などについて知っておくことはとても大切なことです。お世話になった地域の方々と交流をしながら、地域の生の声を聴くことができ、とても有意義な時間を過ごすことが出来た1日でした。
ーおまけー
今年の発掘調査において大変お世話になった冨樫さんと屋代村塾に、発掘参加メンバーの感謝の言葉を書き入れたTシャツを贈ったのですが、それが屋代村塾の壁に飾られているのを発見!
(ちなみに今年度のTシャツは青色で、背中に『「なぜあなたは掘るのか?」ー「そこに過去があるから」』とプリントされています。)
来年度はその隣に、もう一つTシャツが増えていることでしょう。。。
冨樫さんありがとうございました!
1月10日石碑調査がありました。
今回はいつものように外に出ず、屋内での作業になりました。
主に今まで調査した石碑のデータの入力、場所ごとの整理を中心にやりました。
今まで集めた資料です。
結構集まりました。
これを
全員で場所ごとに整理しました。
地形図と石碑の場所とを照らし合わせるのが時間がかかって難しかったです。
今度からはあらかじめ設定してからやった方がいいと思いました。
場所ごとに整理し終わってから各自で入力しました。
時間内に終わらなかったものは持ち帰ってやりました。
こんな感じでやったんですが調査の段階から写真や石碑ナンバーなどは
あらかじめ設定してからやったほうが効率がよかったなあと思いました。
これからの活動はこういった屋内での資料整理、地形図の作成が中心になると思います。
2月11日~16日の間、2013年年度東北芸術工科大学卒業/修了研究・制作展が開催されます。
歴史遺産学科では2月11日(火・祝)・12日(水)の2日間にわたり、
408講義室で卒業論文口頭研究発表会を行います。
また卒展の期間中、409講義室では、それぞれの研究をわかりやすくまとめたポスターの展示を行っています。
ぜひご来場いただき、学部4年生の集大成をご覧ください!
☆歴史遺産学科卒業展示(ポスター展示)
■期間 2月11日(火)~16日(日)
■時間 10:00~17:00
■場所 本館4階 409講義室
■内容 卒業研究に関する展示・学科紹介
☆2013年度歴史遺産学科卒業論文口頭研究発表会
■日時
2月11日(火) 9:00~17:00
2月12日(水) 9:00~12:00
■場所 本館408講義室
■タイムスケジュール
2月11日(火)
考古学専攻 長井研究室(9:05~)
押出遺跡における押出型ポイントの機能と用途 ―形態分類と使用痕分析から―
山形県の縄文中期・後期の石棒からみる石材利用の地域性
考古学専攻 北野研究室(9:40~)
破砕パターンから見る須恵器坏打ち割りの可能性 ―山形県内における終末期古墳の事例より―
瓦の布目圧痕からみる古代の布 ―織り・縫い―
小峰城跡における石垣技術の特徴とその変遷
文献史学専攻 佐藤研究室(10:45~)
上杉謙信の関東出兵時の佐野氏や関東武将から見る関東情勢
古代・中世の女人往生の形態
三難所で用いられた船舶の破損の実態
鎌倉農民の団結
天童氏滅亡に関する軍記物の考察 ―天童合戦はどう描かれたか―
北東北と北海道にみられる義経北行伝説 ―地域による伝説の相違―
『ビスカイノ金銀島探検報告』の史料的価値 ―「大使」ビスカイノの側面―
(昼食休憩)
文献史学専攻 佐藤研究室(14:00~)
米沢藩・御徒組の家督と養子相続 ―先祖の記録を辿って―
平安・鎌倉期における牛車の使用について
文献史学専攻 竹原研究室(14:35~)
盛岡藩津志田遊廓の実態
庄内地方自治体史からみる大山騒動
山形県における区有文書の研究
明治期福島県の就学率をめぐる問題と対策
時代性にみる『プリキュア』シリーズと子どもの問題
2月12日(水)
民俗・人類学専攻 謝研究室(9:00~)
サウンドスケープの視点からみる地域の変遷 ―新潟県新発田市上三光集落を事例に―
山間部集落における家紋利用の実態 ―山形県山形市蔵王上野を対象として―
「まちおこし」に揺れる集落 ―山形県小国町小玉川地区の記録―
民俗・人類学専攻 田口研究室(9:55~)
大洗町の町おこしから見る“町おこしの成功”についての考察
現代の飛脚 ―バイク便の歴史とその可能性―
雪国古民家の構造と技術
新聞報道から見る復興への希望の姿 ―宮城県名取市閖上地区の移転問題を中心に―
地域資源の利活用をめぐる人々の葛藤 ―岩手県盛岡市上米内字名乗沢の七瀧神社を例に―
現代に起きている葬儀の変化
原子力災害における住民の移動と拡散について
(※発表の順番は変更になる場合があります。ご了承ください。)
OB・OGの方のご来場も、首を長くしてお待ちしております。
副手でした。
12月28日
ルアンナムターの市場で朝飯を食べる。
国境に戻る前に気になる所があって立ち寄った。3号線沿いのウェンプーカーという町である。22日にトイレ休憩で立ち寄ったときにかすかに土器作りの匂いがしたからだ。
国道を挟んで位置するT村(150軒)の家々を訪ね歩くがなかなかポターは見つからない。そして何人かの情報から、ここは各地からの移住者たちを集めて計画的につくられた村だとわかった。確かに斜面にある宅地は新たに分譲された造成面のように見える。
しかし、かなり高齢の人たちは昔この付近(バントゥンロー)で土器を作っていた記憶があるという。そして、その土器をいまでも持っているラオ・ルム(=低地ラオ)の女性(87歳)が語ってくれた。土器はこれまで北部でみてきた西双版納(タイルー)系のモノとは違う。
彼女は1975年にサイニャブリー県ホンサーからここに来た。その時は3~4軒の村で、もとはサムタオ族(ラオ・トゥン=山腹ラオ)が住んでいた。革命後、政府が土地を斡旋して各地からここへ人々が移住してきた。中国の西双版納からきたタイルーの人もいる。村に来た時にサムタオの人たちが土器を作っており、2~3年後に止めた。当時の記憶をたどると、どうもこれまで出会ったタイルー族の技術とは違う土器作りである。野焼き後、熱いうちにキーカンという樹脂を塗るという。フィリピンやベトナム沿岸部で行われている技法だ。サムタオはモン・クメール語族系とされており、主体をなすタイ語族系とは違うルーツをもつ。現ラオスを席巻するラオ・ルム以前の古い民族分布を示している可能性があり、断片的な記憶とわずか1点の物証ではあるがともに貴重な情報である。
村の路上には子どもたちが群れて遊ぶいくつもの輪があった。懐かしい光景に出会ったようでしばし見とれていた。
13:30ラオスのイミグレーション、14:15タイのイミグレーションを出る。早い時間にGHに入り、ネットで次の調査地に移動する国内線の予約を試みる。NOK AIRのサイトが混んでいるせいか動かない(昨日から)。そして明日から泊まるチェンマイの宿がとれない。あきらめてカフェでミーティング。明日からは4人がそれぞれ別行動となるため、メコン川沿いで最後の晩餐。対岸を眺めながら過酷な北ラオスの旅を振り返る。低い空にオリオン座が輝く。
ベッドと石鹸以外何もない小部屋だったが、ファランのバックパッカ-や酔っぱらってシャワー室で○○を吐いているタイ人学生などなかなか賑やかなGHだった。
12月27日(木)7:00出発
今日は一段と霧が濃い。朝食を食べ、13号線から3号線を経て10:30にルアンナムターまで戻った。そこから17A号線を北西に進みムアンシンを目指す。
途中の村でみた高床倉庫のネズミ返し、どれもやたらでかい(写真)。峠を越えたあたりでポリスの検問。ポンサリーに向かう山中に次いで2度目だ。土器満載の車中、あきらかに疑いの眼差し。ここはゴールデントライアングル。ミャンマーに抜けるルートで麻薬取り締まりが厳しい。ラオスでは過去3度理不尽な罰金を取られている。有無を言わせない。言われた額を払うしかない。もちろん領収書も切符もない。「観光です…」「観光です…」何とか通過した。
ムアンシンの盆地は山形盆地ほどある開けたところで天水田が広がる。お昼に市場で情報収集。あまりかんばしい情報がない。土地柄か少数民族の人たちが多いので聞いてもらうが、ラオ語がまったく通じない。市場を出て近くの村でさらにヒアリング。ここから40km先のN村で土器を作っていたという複数の情報。やはりタイルー族の村だという。日本だと1時間で行けると思うが、ラオスでは距離で時間を測ることはできない。道路がいいと信号がないので30分で行くが、ダートだと3時間かかることもある。
13:45 ミャンマー国境の町-シェンコック方向に車を向けN村を目指す。村ごとに建物の雰囲気が変わる。平地式板作り住居のモン族、高床の黒タイ族など少数民族ごとに村を形成している。着飾った黒タイのおばさんがにこやかに写真撮ってと。あのお、おなか出てるんですが・・・・。ラオス北部の耕運機は運転席にカバーのついた中国仕様。南部のクボタとはちがう。
舗装道路はムアンシンから5分ほどであっという間にダートにかわる。新たに開削された道路のようだ。その沿道には中国資本による広大なバナナ園が延々と続く。
1時間ほど走ったところで行くか戻るか思案・・・・。道が悪くて思うように進めない。結局時間切れで引き返すことにした。この日はルアンナムターまで戻る必要があったのと、車のフロントガラスのスモークがきつくて夜走れないため。
帰路、ムアンシン近郊を走っていると車窓から土器が見えた。急きょ車を降りて取材する。T村。最初に聞いた女性はラオ人だった。小学生の孫が土器のある家を案内してくれるという。この娘は村の中で古い土器のある家をみんな知っているのだ。自分たちも子供の頃はそうだったなあと懐かしくなった。
タイルーのBさん(62歳)は生後2カ月で中国ムンホーンから移住してきた。夫もタイルーだ。この村にある土器は中国・西双版納系の特徴を持っているので、おそらく目的のムアンロンのN村で作ったものだろう。
日が暮れた18:00なんとかルアンナムターまで戻ってきた。明日はいよいよタイへ帰る。
ところが夜にミーティングをしながらタイのゲストハウスの予約しようと思ったらどこもかなり込んでいることがわかった。タイ北部はチェンライのフラワーフェスティバル(花好きの国民が全国から観光に来る)の影響かチェンマイもチェンセーンもチェンコーンもみんなフル。
今年はバンコクで反タクシン派のデモが活発だが地方は静か。以前のアピシット政権の時は逆で地方がタクシン派のデモで渋滞して大変だった。なんとかチェンコーンでシャワー・トイレ共同の小部屋が取れた。
12月26日 朝7:00出発 ポンサリーのゲストハウス前で野菜を売っていたおばさんからブンヌアのD村で土器を作っているとの情報。探し当てて聞くともう誰も作ってないよと。かつてのポターを訪ねると男性の焼き締め陶器作りだった。1965年から2年間、政府関与のもと中国人の指導で陶器を作り始めたという。1971年プロジェクトが終了したので窯を買い取って自分たちで1995年まで焼いていた。庭先にはハイパデックやハイなど村で焼かれた製品があった。窯は25mのと50mのがあったそうだ。跡地をみせてもらう。長大な龍窯か。ここもやはり中国文化圏の一角だった。
ブンヌアはポンサリーでは珍しい開けた盆地だった。D村についたとき気温があがりはじめようやく朝霧がはれてきた・・・・
家の前をプランテーションの収穫物を積んだ大型トレーラーが土煙を上げて走って行った。そして、傍らを畑で採れた野菜を籠に担いで行商するアカ族の女性たちが歩いていく。このコントラストがラオスの現実だ。
11:00にポンサリー・バンヨーに戻ってきた。三差路に面して建つ中国系のトウモロコシ会社の隣でマンキャオを売るアカ族の女性たち。民族衣装がきれいだったので一つ買って写真を撮らせてもらう。傍らで別の男性が田んぼで捕まえた子猫のような大きさのネズミを2匹売っていた。袋の中で元気よく暴れていたが、通りかかった客が品定めして買っていった。
まだ明るい時刻にムアンサイに戻ってきた。ゲストハウスの前に「博物館」の看板があったので長い階段を登って行ったら閉館中。
今度は隣にある長い階段を上る。修行僧が掃除をしていた。上にお寺があるらしい。頂上に金ぴかの塔と仏像があり、夕焼けに染まる山の端を背景に荘厳な雰囲気をかもしていた。こびとハウスみたいなところに「おみくじ」があって、仲間が試しに引いてみたが書いてあることはさっぱりわからなかった。
入れ違いにたくさんのファランが下りてきた。「プータットの丘」は街を一望し、日没に仏を拝む観光名所らしい。修行僧たちが外国人慣れして妙に俗っぽいところが気になった・・・・
今日はムアンサイからラオス最北の町-ポンサリーを目指す。地図だと250kmほどの山道。実際にはかなり過酷な旅だった。
車は霧の中、深い峡谷を進む。道路は斜面を無理やり段切りして通したもので、法面保護工をしていないためあちこちで崩れていた。雨季はしょっちゅう通行止めだろう。
谷筋は中国市場に送る野菜、山はゴムやバナナ。山頂まで焼畑が及んでいるものの、まだ「森」がいくらか残る。焼畑による陸稲もみられた。
タイ北部からラオスにかけて今の季節一番目立つのは「クリスマスツリー」
日本では鉢植えのポインセチア。こちらでは人里に大小様々な木があって、枝先の葉が真っ赤に染まっている。青い空に緑と赤の葉がとても鮮やか。
14:00すぎにポンサリー県のヨー村に着く。タイルー族の村で四双版納から移住してきた時は37世帯だったという。いまは175世帯に膨らんだ。中国に行く道とウドムサイへの道の分岐点にあり、三差路は賑わっている。ここも20年前に土器作りはストップしている。
Yさん(70歳)が土器作り経験者の家を順番に案内してくれた。Pさん(86歳)から移住や昔の土器作りの話を聞く。Yさんの実演を見て驚いた。石製当て具の大きなものは砲丸ほどの大きさがある。5kgほどはあろうか。これまで見た中で最大だった。なお、昨日のウドムサイ県ヨー村はここから移住した。Yさんは、両親は一昨日泊まったムアンベンから来たと話し、遠く離れても同族の村同士は長く交流していることが分かる。
村を歩きながら目に着いたのはどこの家にも竹竿の束があること。これは畑でインゲンやキュウリを作る時に使うものだ。米を作るよりも田圃を潰して中国資本が買い付ける野菜を作った方がもうかるのだろう。
焼畑の陸稲
日が傾き17時前に村を出る。ここからが遠かった。どこまでも尾根道が続く。19;30ポンサリーの町の明かりが見えてきた。ここはリトル中国。野菜を運ぶ大型トレーラーが道路脇に並ぶ。
手ごろな値段のゲストハウスはどこも古かった。そして、どの部屋も洋式便所の坐る所が無いか、割れている。訳を聞いて納得。もちろん暖かいお湯はでない。寝袋にくるまって寝るしかなかった。今日はクリスマスだ。
翌朝のゲストハウス前
朝食をたべている店の前を学校に急ぐ子供たちの姿。自転車の列が途切れることはなかった。小さな町なのに・・・・人口拡大社会に暮らす子どもたちの多さよ。
8:30村に着く。早速土器作りの準備にかかる。まず、回転台に刺す心棒を削って土中に埋める。Kさん(62歳)がモーオという小型品を成形。Wさん(73歳)、Sさん(?歳)3人のお年寄りが伝統の技を最終工程までみせてくれた。今日はなぜか衣装が華やか???と思っていると理由がわかった。ほどなく中国人の団体が15人ほど見学に来た。いわゆるエスニック・ツアーらしい。そのために女性たちは民族衣装に着飾って作業しているというわけだ。工房は5組の夫婦がグループで援助を受けている。男のリーダーBさん(52歳)があわてて出て行った。彼らのためにお寺で伝統の剣舞を演じるそうだ。この村ではほかにパシーン(巻きスカート)用の布を織るグループもある。これら村の手仕事や民族芸能を政府が誘致する観光客に見せ、わずかではあるが商品を売って稼いでいる。午後からはファランの団体が来ており、工房にはたくさんの布が展示されていた。
一連の活動は少数民族の村が観光開発によって豊かになろうという観光局のEDB(Economic Development Board)プロジェクトによるものだった。住民たちの多くはトウモロコシやバナナのプランテーションで働き、外国人観光客の落とす金で経済的にはその恩恵を受けている。否応なく貨幣経済と情報社会に巻き込まれていく。若者たちとは別に戸惑っているようにみえるお年寄りの姿が印象的だった。僅か1日半ほどの滞在ではそれ以上のことはわからない。
午後から同じタイルー族の土器作り村-P村、NG村、NL村、X村の4村を訪ねる。聞き取りと土器や道具の調査をした。いずれも移住や分村の歴史で系統関係を持っている。かつて女性たちはみな土器を作っていたが、いずれも20~10年前に止めている。おばあちゃんたちはほとんどが経験者だ。牛や水牛が減って野焼き燃料の牛ふんが得られなくなったから止めたという共通の語り。
1970年代後半、ベトナム戦争・内戦が終わって道路が開通。安価な労働力と広大な土地を求め中国資本が入ってくる。舗装道路ができ農業開発が進んだ。山の焼畑や段丘上はゴム、トウモロコシ、バナナ園に、沖積地の天水田にはインゲンやスイカ、葉物野菜が広がる。自給的な暮らしは大きく変貌し、現在進行形でさらに景観を変えている。外からの目線で資源と労働の搾取と語ることは容易だ。ポターたちは昔の生活を懐かしそうに語る。その背後にどんな思いがあるのか…、村や家族で起こっている葛藤まで聞く時間はなかった。
NG村へ行く道は橋が落ちて車が通れない。通りかかったバイクを拾って行く。
古い村にはだいたい焼酎の蒸留用土器がある。使い方を教えてもらう。
Yor村ではさまざまな手仕事をみることができる。ふいごを使って日常的に刃物の手入れ。鍛冶場の遺構を彷彿とさせる。
まだ、脱穀していないトウモロコシを収納した倉庫。