ゼミの学生と会津に行って蘆名氏の城跡を歩いた。案内役はかつての同僚だった。
北塩原村「柏木城跡」は天正12年ごろ対伊達のために作られた番城。保存状態が良いは史跡の常套句だがここはお世辞抜きに素晴らしい。城内から板状節理の発達した安山岩が産出する。手持ち可能な小型の石を巧みに積みあげ、土の城を石造りの城に化粧している。虎口や通路はことごとく石が積まれる。蘆名の城作りの特徴がコンパクトによくわかる。石積みは裏込めを持つ織豊城郭の石垣とは機能的に違いがあり質的な差は大きい。
会津美里町の「向羽黒城跡」は永禄4年に蘆名盛氏が築いたとされる本城である。4つの大きな郭群をがあり、山麓部には家臣団の城下を推定させる地割を伴う。スケールの大きな堀や土塁、道が複雑に連なる。ここでも地山に流紋岩の大きな岩塊が包埋されている。巨岩の露出場所に虎口や竪堀を配置するなど、縄張りにおいて現地の石をうまく利用している。主要郭の通路や土塁の裾には柏木城跡でみられたような石が並んでいる。石の姿は全然違うが節理面を表に向け平面性が顕著である。
戦国大名によって城作りに特徴があるはずだと研究者は考える。それも大事だが、縄張り技術者、石積み技術者たちが持つ「ひきだしの中身」ということを考える。現地の地形や石材の産状に合わせてどう設計し施工するか。環境や資源に適応しつつ自らの表現を模索する技術者。そんなことを想いながら歩いた。
山形市と高畠、それほど遠い距離ではないので通いでの発掘調査ももちろん出来るのだが、地域と一体となった調査を目指して屋代村塾に合宿しながらの調査をしている。今年の調査のお礼と来年へのご挨拶をと思い収穫祭に参加した。
高畠駅からの景色も屋代村塾から望む景色もすっかり見慣れた風景となった。昨年の日向洞窟遺跡調査で初めて高畠を訪れてから約2年。回数的にはそれほど訪れてはいないと思うが、どこか見慣れた、どこか安心する景色だ。
そんな思いを抱きながら屋代村塾へ。昨年も先輩が参加した、屋代村塾の収穫祭へ。屋代村塾に着くと、既に恒例の餅つきが始まっており、見かけたことがある人もちらほら。屋代村塾の管理をされている冨樫さんにご挨拶をし早速餅つきを。
今年屋代村塾で調査中に開いていただいた、中帳場でも餅つきは経験していたのだがなかなか難しい。餅つきが終わった後は、中に入りついた餅や地域の人が作って持ち寄った料理を頂いた。
<挨拶をする学部2年の菊池くん>
収穫祭には、農楽校に参加した小学生や早稲田大学の学生も参加しており賑やかな前回の中帳場とは違った雰囲気の美味しい料理と美味しいお酒に囲まれ交流会となった。特にお雑煮が美味しくひとりで完食してしまった。
話は全く変わるが、屋代村塾では手酌はご法度だそうだ。手酌とは、自分で自分のコップにお酒を注ぐことだ。みんなでお酒を飲んでいてもつい一人暮らしの癖で手酌をしてしまう。今回も、手酌をしてしまったのだが、そうするとすかさず誰かがお酒を注いでくれた。これがなぜか妙に嬉しいのである。どんな寂しい生活を送っているんだと言われてしまいそうだが、なにか言葉にできない嬉しさがあった。みんなでついた餅と地域の人が持ち寄った料理を食べ、年代も住んでいる場所も考え方も違う人間がお酒を呑みながらひとつ屋根の下で語り合う。文字にするとなんのことないかもしれないが、私にとってはとても面白く貴重な時間だった。
来年はもっと多くの後輩と先輩を誘ってまたこの屋代村塾を訪れたいと思う。
高畠まちあるきプロジェクト」では高畠町にある堂舎・小祠等を約200箇所訪ね歩き、約150箇所にあった鳥居を詳細に観察・記録した。いま学生たちがその成果をまとめている。
比較的短期間で調査できたのはなんといっても住宅地図のおかげだった。ゼンリンさまさまである。たいがいの神社には鳥居マークがついている。それを目印に現場に行き、周辺の民家でそれ以外のモノがないか聞いて回るのが基本的な調査方法だった。
150箇所の鳥居を整理していて気付いた。
「古峯(ふるみね)神社」が結構あることだ。言わずと知れた火伏せの神様「古峯ケ原」である。栃木県鹿沼市に総元締めの「古峯神社」がある。この神社の運営母体である「講」は全国に2万あるともいわれ、高畠でもほとんどの集落に講中があった。いまでも「代参(講中の代表が栃木の古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、村の講員に御札を授与する)」するところがある。
代表がいただいてきた御札は各集落に建てられた古峯ケ原の石柱(奉納用の穴がある)に収める。この石柱はもちろん高畠石でできていて正面に大きく「古峯神社」と彫られている。この石柱は集落内、あるいは山際に単独で立つ場合もあるが、神社に併設されている(鳥居の脇にある)例が多い。
もうわかっただろうか。これが曲者である。
ゼンリンの調査員は神社名を記録する際に、鳥居の脇に立つ「古峯神社」の標柱をみてそれが神社名だと思ったらしい。高畠には名もない「神社」がたくさんある。そんな「神社」はお祀りしている人に聞かないと何の神かはわからない。
ということで私たちも先を急ぐばかりに住宅地図の表記を鵜呑みにして「古峯神社」を乱発してしまったというわけだ。二日ほど空き時間を見つけて聞いて回ったら案の定だった・・・・・拙速は間違いのもと。ちゃんと裏をとるということを改めて肝に銘じた。
今日は夕方5時から歩いた。もうあたりは真っ暗。しかし、なんと2時間ほどで新規の石鳥居を2基発見してしまった・・・・・。おそるべし高畠の石鳥居。
上山市金山は江戸時代の参勤交代の道:羽州街道金山越(国指定史跡)の「間(あい)の宿」である。宝暦、天明年間には18~20戸、80~90人が住み、宿屋や茶屋があったという。明治20年代にも同程度の戸数があり、昭和47年10戸、平成11年2戸と減り、今は廃村になっている。わずかに、かつての在住者が旧宅の畑を耕しに通っているにすぎない。
昭和47年時点の集落平面図を持ちながら歩くと感慨深いものがある。発掘された近世遺跡をビジュアルにみているような錯覚に襲われた。
国の史跡である金山越えの道がこの夏の集中豪雨で何か所も崩壊した。沢筋に沿って作られた街道が土石流の発生で、木道や橋が流され、護岸の石積みが崩れた。石積みや石塁は街道に沿って数えきれないほどあり、幾たびも修理され維持されてきた。土岐氏時代の明暦年間に新道として付け替えられた道らしい。史跡にして保存するということは新たな維持管理の始まりでもある。2年間の災害復旧事業、史跡の価値と安全を考慮しつつどう修理・管理していくか。
1996年文化庁選定歴史の道百選
1997年楢下宿とともに国史跡