今年度の歴史遺産学科 卒業/修士論文口頭研究発表会の日程が決まりましたので、お知らせいたします。
◆とき 2月11日(水・祝)~12日(木) 両日9:00~
◆場所 本館4階 408講義室
◆発表者 学部生30名 院生1名
◆発表順 以下の通りになります。
2月11日(水・祝)
歴史遺産学科卒業論文 口頭研究発表会 1日目 午前の部 9:00~
<考古学専攻 長井ゼミ>
「河童形土偶研究の一考察 ―山形県周辺部に位置する大木式土器文化圏と比較して―」
「米代川流域、米沢盆地、信濃川流域における三脚石器の地域性と影響関係についての一考察」
「日向洞窟遺跡西地区の槍先形尖頭器を中心とした石器製作の検討 ―縄文時代草創期の剥片資料から―」
「縄文時代における釣針のチモト部について ―仙台湾周辺の地域性を探る―」
<考古学専攻 北野ゼミ>
「山形盆地における古墳時代前期土師器による炊飯方法について ―服部遺跡・藤治屋敷遺跡を対象に―」
「古墳時代前期~終末期におけるガラス玉の法量と製作技法の関係 ―東北地方南部を中心に―」
(休憩)
「鹿角部位と技法から見る釣針の作り分け ―いわき地方大畑貝塚の資料を対象として―」
「押出遺跡出土木柱からみる低湿地においての樹種の選択性」
<文献史学専攻 佐藤ゼミ>
「河川災害の変遷 ―山形市の瀧山川・馬見ヶ崎川・須川・立谷川を中心に―」
「米沢藩上杉家の正月行事」
「慈恩寺の行事と文書からみる三ヶ院の機能―真言天台両立の背景について―」
<文献史学専攻 竹原ゼミ>
「近世後期羽州村山郡における商人荷脇道駄送研究」
(昼食休憩)
午後の部 13:50~
「『有珠郡移住開拓史要』の研究 ―亘理伊達家の移住開拓―」
「明治期秋田県内における武術教育奨励」
「日本の模型・プラモデルの発展 ―玩具から日本の文化へ―」
<民俗・人類学専攻 謝ゼミ>
「山間部集落における屋号の一記録 ―山形県米沢市大字関地区大白布集落を事例として―」
「風刺画から見る日露戦争期の日本描写 ―『パンチ』のステレオタイプの変遷―」
(休憩)
「箸をめぐる思考 ―食卓における使われ方を事例に―」
「さくらんぼ栽培の光と影 ―山形県東根市を事例に―」
「神楽の現状と保存 ―宮城県亘理町の牛袋法印神楽を事例に―」
「北国が育んだ刺し子技法 ―津軽の大地からこぎん刺しを語る―」
「なぜ人肉を食べるのか? ―カニバリズムに関する一考察―」
=17:00 1日目 終了=
2月12日(木)
歴史遺産学科卒業論文 口頭研究発表会 2日目 午前の部 9:00~
<民俗・人類学専攻 謝ゼミ>
「環境を活かした温泉旅館の観光と信仰 ―山形県西川町志津温泉を事例として―」
<民俗・人類学専攻 田口ゼミ>
「生命に関わる民俗―小国町五味沢のウサギ狩りと小学校での動物飼育を通して―」
「旅マタギの痕跡と技術伝播の可能性 ―マタギ道としてみた御所山~甑岳ルートを事例に―」
「山形新幹線区間の駅と人の姿 ―奥羽本線(山形線)と新幹線開通前後を通して―」
(休憩)
「社家における継承問題 ―山形県山形市大字漆山稲荷神社の事例―」
「害獣という認識の発生プロセス」
「山形県東村山郡山辺町作谷沢地区における山林管理と継承」
「在日南米日系人の来日背景と現状から見えてくること」
芸術工学研究科芸術文化専攻 歴史文化研究領域 修士論文口頭研究発表会
2月12日(木)11:35 ~
(※卒業論文口頭研究発表会に引き続き、同会場にて行います。)
「現代社会の手仕事産業に生きる民俗知 ―山形県西置賜郡白鷹町の伝統的織物産業を事例として―」
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卒展期間中(2/10~2/16)は、本館4階409講義室および、
本館1階abeabe(本館学食側入り口の近くです)にてパネル(ポスター)の展示なども行っております。
409講義室の方には、卒業論文の現物も展示予定です。
学生による解説も行っておりますので、お越しの際には会場にいる学生にどうぞお声掛けください。
たくさんの方のご来場をお待ちしております!
準備室でした。
1月5日(続き)
7時過ぎにゲストハウスに戻り朝食を食べる。市場で材料を買い、資料のパッキング。町中はアスファルト仕様のゴムタイヤをはいたミンレー(馬車タクシー)が行きかう。お正月のせいか、頭に髪飾りを付けた馬が多い。ミャンマー男子が身につけるロンジー(スカート)を買ってはいてみた。調査中、草むらで用をすませる時(ミャンマーでは必ず「ごめんなさい」を言ってからするのだとTB君)、ロンジーの場合は座ってするのだが、その習慣がない日本人にはちょっと難しい。
今日はエーヤワディ左岸を北上する。午前中干上がった川を越えN村を目指すが、30分ほど行くと砂で車がスタック、あきらめて引き返す。ミンジャンの町から次のY村を目指す。わき道に入ると広大なプランテーション。トウモロコシと豆の混植、たばこ、とうがらし、わた、きび、圃場ごとにころころ変わる。ミャンマーの畑作は単一栽培を嫌い、混植や多種栽培を志向しているようにみえる。一直線のガタガタ道を車は時速10kmでのろのろ進む。途中で道を訪ねたバイクの夫婦がずっと車を先導してくれる。灌漑用水路沿いの道では前をオックスカートにふさがれ追い越せない。2kmの間、追い越す道幅がないのだ…
15:50ミンジャンから20kmの距離をちょうど2時間かかってようやく村に着く。エーヤワディの岸辺に船積みを待つ土器が並ぶ。大規模生産地の予感。敷地の周囲に土器を積み上げた「土器垣」が巡る。最初に見たのは2,850個入っている巨大な野焼きの山。直径はなんと10m。村の奥に入るともっと巨大な野焼きがセットされていた。180軒中80軒が専業で土器を作っている。ここでは原形作りに二人一組で回す轆轤を使う。
アウンサン・スーチー氏率いる国民民主連盟(National League for Democracy)のポスターが掲げられたお宅にお邪魔し成形を観察する。ンガーチョという小魚の唐揚げを御馳走になり、お土産をいただく。村はずれの船着き場のそばではゲストハウスの建設が進んでいた。この村にはエーヤワディー・クルーズの舟が着岸し、頻繁に外国人が訪れるそうだ。
村を出てしばらく行くと日没。薄明かりのなかミャンマーでは珍しい土葬の村が続く。不思議な光景だ。さらに月が明るくなり始めたころ、アシスタントが道路脇で野焼きの煙を発見。急きょ車を止めて取材する。ほんとうにミャンマーには土器作り村が多い。
それからが長かった。いけどもいけども町の明かりが見えない。漆黒の空に月と星だけが輝く。道案内を間違えたTB君に切れたドライバーが鬼のようにぶっ飛ばし、9時半すぎになんとかマンダレーに着いた。
1月5日(月)
せっかくヤンウーに来たのでちょっとだけでもバガンをみたい、そんな衝動に駆られた。アシスタント一人を道連れに朝5時にゲストハウスを出発。月明かりの中で、シュエサンドゥ・パヤーの急階段を這うように登る。暗闇に足がすくむ。すでに中国人の集団が三脚と一眼レフを構えて陣取っていた。月が沈むにつれて人が増えてきた。世界中から人が来ている。コンデジしかもっていない自分が情けなくなるくらいみんないいカメラを担いで来ている。
バガンはアンコール、ボロブドゥールと並び称される世界3大仏教遺跡の一つ。エーヤワディ河畔に築かれたビルマ族最初の統一王朝の都で、11~13世紀の仏塔や寺院が3000以上あるといわれている。現在も住民らの信仰を集めるこの地は仏塔の修理方法や観光開発の手法の問題から世界遺産登録に待ったがかかっている。
1月4日(日)
今日はミャンマーの独立記念日。早朝からうるさいと思ったら宿の前の陸上競技場でイベントをやっている。道路では高校生のマラソン大会。昼間は暑いので早朝にやるらしい。
こちらのお札の数え方は独特だ。1000K札を数十枚数えるのに縦に束ねて数えていく。1枚を折り曲げて2枚に見せるトリックに引っ掛からないようにするためらしい。
モンユアを北に上がるが、情報のあった村が見つからない。反転してチンドゥイン川を渡り、一路南下する。ふたたび延々続く高原地帯。パカンジーという町周辺に二つの村があるという情報。途中、広大な銅鉱山。開発のスケールが想像を絶する規模。中国資本が開発している。羊や山羊の放牧が目立つようになる。牛飼いは男性だが、山羊と羊は女性と決まっている。
そして、ミャンマー人御愛用の「タナカ」の植林地帯に入った。突然ドライバーとアシスタントが目を輝かす。ヒアリングのたびにどこで買えるか聞いているようだ。
11:00にJ村に着く。ここは岩盤の上に村があり、板状節理の砂岩を屋敷の石積みに利用している。切り石を基礎に使う民家もあり、近くに石切り場があるようだ。100軒ぐらいの村。稲作との兼業で、いま土器作りは始まったばかり。土器鍋は現役だ。炊飯からおかず調理など活躍している。多様な器種を作っている。
この村ではタナカの木の栽培が盛ん。1本が10,000チャット(約1,000円)。ドライバーたちは2本買って鋸で一生懸命カットしていた。こんなに大量に持って帰って商売でもするのだろうか。上機嫌だった。タナカは小口を専用の円面硯のような砥石で水とともに擦って塗る。どこの家にも鏡とこの硯がセットで置いてある。この家ではヤシの実で焼酎を作っていた。工房にはヤシの実を煮込む甘いにおいが充満。幼い弟を抱く女の子が竹の子のような食べ物をくれた。丸ごと焼いて皮を剥いて食べる。ジャガイモのようにほくほくしておいしい。
幹線から枝道に入り、網の目のような道を縫って進むとT村が現れた。この村も兼業の村で土器作りは始まったばかり。Cさん(17歳)の成形をみせてもらう。野焼き場に行く道のわきにはカウダン(牛糞)が並ぶ。先のJ村と同じく野焼きの規模は3~4mと大きくはない。帰り道、村はずれの道路脇で若い恋人たちが愛を確かめ合っていた。私たちの車に気付かないほど。なぜか、ほのぼのとするいい光景だった。昼食はタミンジョー、卵焼きが乗っていた。
最後にパカンジーのT村。日が傾いてきた時間にも関わらずあちこちから叩きの音が聞こえてくる。100軒のうち80軒が作っているという。成形を見たあと、道路の向こうにある野焼き場に行く。ちょうどセットし終わったばかりの野焼きがあった。緩斜面に掘りこみを持つタイプで、日本の古代の野焼き遺構を彷彿とさせる。発掘してみたくなった。ここの野焼きは藁の上に薄く泥を塗り、灰で被覆する。主燃料はカウダンとパームヤシ(葉や実)、土器は130個。アシスタントのTB君、美人ポターとずいぶん話し込んでいる。取材熱心と思っていたら、電話番号とアドレスをゲットしていた。同室のドライバーからは、彼は朝から電話で口説いていたと冷やかされていた。
内陸に位置する土器作り村は兼業で、鍋を含む多様な器種を作り、野焼きの規模もさほど大きくない。オックスカートで運搬。村には電気は来ていないが、小さなソーラーパネルがあってバッテリーに蓄電している。
夜、エーヤワディ川の長い橋を渡りヤンウーの町に入る。橋を渡ると急に観光バスが増えてきた。世界的観光地-バガンが近づいてきたからだろう。
1月3日(土)
早朝に王宮跡や町中を散歩。
ザガインヒルの仏塔群をながめながらインワの橋を渡って一路西へ。橋のたもとは両岸ともザガイン産の土器が山のように積まれている。となりには延々スイカや瓜。エーヤワディーを越えてモンユア方面を目指す。途中、土器作り村を探索しながら進む。
お昼前、ミャングの町をすぎてしばらく行くと目的のN村に着く。ミャンマーの幹線道路沿いには数100m間隔でズィーオー(水甕)ステーションがある。小さな祠の中に水甕が1~3個置いてあり、牛車や歩行者ののどを潤す。町では街路樹に直接据え付ける。
お昼にしょうゆ味のミャンマー風焼きそばを食べる。皿には3人前はあろうかと思われるメガ盛り。タミンジョー(チャーハン)にしても、美味しいがとにかく盛りが大きい。そしてみんな沢山食べる。タイは盛りが少ないのとは対照的だ。
N村では100軒ぐらいが作っている。お寺の野焼き場に行って設置作業を見学する。ここも規模が大きい。粘土は使わず、大量の灰を被せる。家から自前のオックスカートで運び、家族総出で積んでいる所、トラックで運び、親戚の女性たちが大勢集まって積んでいる所、いろいろあるようだ。積んだ土器の上を平気で歩く。お前も乗ってみろといわれるが、さすがに怖くてやめた。隙間なく横に積んでるので胴部に乗っても力が下に分散し割れないのだ。点火までみてから村に戻って成形を観察する。庭や道路にはたくさんの土器が干してある。生垣風に土器を積み並べている家もあった。
今日の宿泊はモンユアの町。中央ロータリーにアウンサン将軍騎馬像があり、市に人があふれるにぎやかな街だった。市場で買ったモンキーアップル(タイではプッサー)がおいしい。夜グーグルアースを見たら衛星から野焼きのサークルがくっきりと写っていた。
1月2日(金)
マンダレーの旧市街は方格地割の整然とした街区なのに、交差点に信号がない。しかし、皆はここを車やバイク、輪タク、人が阿吽の呼吸で行き交う。この感覚…信号に慣れ切って間合いをとることができなくなった日本人には難しい・・・
昨日聞いたS村、K村。河川沿いなので船で行くのが良いと思われたが、訳あって車で行くことになった。不毛なサバンナのような大地が続く。作物はトウガラシと、時々赤い花茶が植わっている。凸凹道を2時間走り、ようやくS村に着く。ところがここは焼き物作ってないよ、と。がせネタだった。ここまでも薄々感じていたが、タイのイサーンと違ってミャンマーでは村人は他の村の情報をあまり知らない。もともと広域に移動する民ではないし、自由な移動が妨げられる歴史的な過去もあったようだ。
11:30河畔の村に着き、舟をチャーターしK村を目指す。1時間30分ほど川を遡りようやく船着き場に着いた。途中、底からの浸水が激しく、あわててペットボトルを二つに割って水を汲みだす。ボートを降りて10分ほど歩いて村に入った。
この村は150軒の家すべてで土器を作る。あちこちからポンポン、ポンポン。土器作り村のサウンドスケープ。野焼きの準備中の家があるというので見に行く。800個の土器を積んだ大きな山に度肝を抜かれる。土器作り村ではどこの家にも牛がいるのでカウダン(牛糞+もみ殻)を補助燃料に使う。藁の上部は泥の覆いで、傍らで練った土を皿に盛り、女たちが頭の上に乗せて運ぶ。タイ・ラオスとあまりの違いに驚く。みなさん快く取材を受け入れてくれ、最後は料理でもてなしてくれた。お茶の葉入りの豆料理はおいしかった。
帰りは心地よい風に吹かれ川を下る。そこから月明かりに照らされた大地を車に揺られ、ウェレットという町を経由してマンダレーに戻る。途中土器作り村の存在を確認。宿に着いたのは夜8:40。今日も夕食はタイ出身のママがやってる「シャンママ」でシャン料理。
1月1日(木)
7:00に昨夜のカフェでモヒンガー(魚ベースのライスヌードル)を食べる。油たっぷりのカレーアラカルトに比べると胃にやさしい。
エーヤワディー河畔にあるニュエニャインの町で土器作り村についてヒアリング。路上にHAPPY NEW YEARの文字。そうか、今日は正月だったか・・・・。ここにはチャウミャウンとカヤビンスーという窯の村がある。大甕の窯詰め風景を見学する。
それから橋を渡り、北部カチン州に向かうべく北上し、モゴックを目指す。お昼前、だいぶ来たところでバイクが追いかけてきて止められる。ポリスイミグレーションまで戻れと。警察の建物の壁に、外国人はパーミッションがなければこの先はいけないと、書いている。モゴックは高品質なルビーとサファイヤ鉱山がありその経営をめぐって少数民族と政府軍が紛争中なのだ。事前に聞いてはいたが・・・。紛争地をう回路すると2日、3日余計にかかるので北上をあきらめる。
カヤビンスーに戻り大甕作りを見学。アジアでは韓国に残るが、甕器(オンギ)はもう文化財として保存される技術になった。ミャンマーでは作るのも使うのも現役で生きている。河畔にずらりと並べられた甕は大型船で運搬されていく。エーヤワディー川を下ったところにK村という土器作り村とS村という窯の村があるという情報を得る。この日はマンダレーまで戻り出直すことに。シャン料理の店で夕食。タイ料理に似て安心して食べられる。オイリーな料理はちょっときつい。
12月31日(水)
バンコク・ドンムアン空港からミャンマー中部のマンダレーに飛ぶ。飛行機は直前にマレーシアで落ちたエアアジア・・・
マンダレー空港でミャンマー人のドライバー・アシスタントと合流。日本人2名、タイ人アシスタントとあわせ5人の旅。アシスタントのTB君は20歳、まだあどけなさが残る青年。ドライバーのTS君は27歳、運転技術はプロ並み。たまにきれるとぶっ飛ばす。車が入らないような道でもテクニックで行く。
空港から無数の仏塔が立ち並ぶザガインヒルを見ながらエーヤワディー川の旧インワ鉄橋を渡る。第2次大戦中イギリス軍が作り、日本軍の侵攻前に爆破した橋だ。終戦10年後に復旧された。真ん中に鉄道が走る。ザガインは土器の産地。沿道にズィオー(ミャンマーでは水甕をこう呼ぶ)を積み上げたポットショップが並ぶ。ゆっくり見たい衝動を抑えて先に進む。
ミャンマーの旧宗主国はイギリス。よって車は右側通行。距離はマイルを使う。田舎の幹線は1車線分だけ舗装してあり、対向車は直前で路肩に除けてすれ違う。スリルがある。バイクやチャリや牛や人など追い越しながらなのでクラクションが絶えない。道路には所々遮断機のおりた関所(料金所Toll Plaza)があって重さに応じてお金を払う。道普請があると臨時に徴収する関所もある。かつてはラオスにもあったがもうみない。これほど多いとは、驚きだ。村ごとにお寺のタンブンを求める「ニッコリ強盗」は穏やかだ。車を無理やり止めることはないし、スルーしても追いかけてこない。
初ミャンマーは見るものすべて新しい。刺激に満ちていた。これまでみてきた東南アジア大陸部と全然違う風景に目が泳ぐ。パヤー(仏塔)、ミンレー(馬車タクシー)、2頭立て牛車、顔にタナカ(日焼け止め)を塗り、頭上運搬する女性、ピンクの袈裟の尼さん、村総出の人海戦術で行う道普請の様子、大型車(トラック・バス)が日本製中古車。最初に驚いた光景だ。植物ではどこにもあるパームヤシ。田んぼの畦にも植える。パーム油やバイオ燃料になる。そして一面のひまわり畑とピーナッツの畑。ビルマ料理に欠かせないピーナッツオイル用だ。
夕方シュエボーの町に着いた。2014年ミャンマー初の世界遺産に登録された「ピュー遺跡群(古代都市)」のひとつ「ハリン」が近くにある。大みそかのせいか、宿は込んでいた。やっと適当なゲストハウスを見つけて荷物を入れる。壁にはトッケイ(キキッと鳴くヤモリ)が元気に這いまわる。タイやラオスの田舎の宿にはたいていいるが、大柄なやつは夜中でも泣いてうるさいことがある。
夕食は油たっぷりのビルマ料理。韓国の韓定食のように座るとテーブルにのりきらないほどの料理の皿が並ぶ。あとで気がついたがミャンマー人は食べる量が半端でない。そしてお店では少年少女が働く。夕食の店は女の子ばかり、カフェは少年ばかり。
震えながら水シャワーを浴び、疲れをとるため早めに寝ようとしたが、それどころではなかった。今日は大みそか。宿の前のカフェや道で若者が一晩中大騒ぎ。カウントダウン、音楽とともに踊りまくり、そして爆竹。ドライバーを始めみなほとんど寝られなかった。おかげで新年の燃えるような朝焼けが見られた。ミャンマー初日は強烈な印象を残したまま過ぎていった。