歴史遺産調査演習Bの3日目の様子をお伝えします。
3日目は鳥取県鳥取市の鳥取砂丘と島根県松江市の松江城へ行ってきました。
始めに向かったのは、鳥取市の鳥取砂丘です。鳥取砂丘ジオパークセンターで、砂丘の成り立ちなどを学んだ後、砂丘内へ向かいました。
砂丘では、鳥取砂丘の中でも大きい「馬の背」という丘に挑戦しました。砂地で傾斜ということもあり、登るのはなかなか大変でした。しかし、馬の背を登りきると日本海を見渡すことができました。砂丘散策中にはオアシスを発見しました。この時期は水がないようですが、元々水のあった場所のため、植物が見られました。最後に観光用のラクダに乗ってコースを一周してきました。
続いて、島根県松江市の松江城へ向かいました。松江城は現存する12天守の一つで国宝に認定されています。実践本位の設計が随所に見られる城で、最上階からは四方を見渡すことができました。城内では松江城や松江藩に関する展示が行われています。松江城周辺には武家屋敷があり、江戸時代に松江藩の武士が住んだ屋敷が残っています。
松江城の石垣に注目すると、記号が刻まれていました。この記号は分銅の記号で、松江城を築いた堀尾家の紋だそうです。工事の分担や石切り場の区別などのために、このような記号が付けられたそうです。武家屋敷では、当時の生活用品や道具が多く展示されていました。知らない道具もあり、どのように使っていたのだろうと考えながら見学してきました。
3日目の宿は島根県松江市の玉造温泉へ。玉造は古代から良質なめのうが採れ、勾玉が作られていた地だそうです。
歴史学分野、歴史遺産調査演習B、4日目へ続きます。
二日目のこの日は午前中に徳島・落合集落を、午後は岡山城を見学。
最初の徳島では落合集落への移動中、「かずら橋」に寄りました。木と蔓で作られた橋は、ただでさえ足元が不安定なのに加えて、明け方に降った雨で橋が濡れていて、より渡りにくかったです。足元を見ると思っていたより隙間が大きく、幅も一定ではないので初めの内は少し怖かったです。
かずら橋を渡ったら、その先にある「琵琶の滝」を見て、再び落合集落に向かいます。
落合集落へは車がギリギリすれ違えるくらいの細く急な山道を通り移動。到着後はガイドをしていただきながら集落内を見学しました。
落合集落ではほぼすべての家が畑をもっています。そこではソバやコンニャク、サツマイモなどを育てていて、自給自足が可能なほどだそうです。
落合集落は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて、江戸時代の家屋や石垣などがのこっています。下の写真の家は民宿で、こうした家屋に実際に泊まることもできるそうです。
集落内では「里道」という昔からの生活道路が現在も整備され使用されています。車道と違い集落内を縦に走る里道を通って移動すると、落合集落の傾斜や高低差がより大きく感じられました。
畑の脇を通ると、ススキが円錐状に積まれたものがありました。これが何か聞いてみると、畑の肥料にするためのもので「コエグロ」というものだそうです。
その他にも穀物を天日干しにするための「ハデ」と呼ばれる木組みなど、生活の様子を窺うことができるものを多く見ることができました。
里道を進み集落のほぼ中心に着くと「三所神社」と言う神社がありました。三所神社は、祭りの際に人が集まったり、神輿が出発する文化の中心地です。
三所神社を見学した後は、さらに集落内を下り、「長岡家住宅」を見学しました。長岡家住宅は伝統的建造物(特定物件)の一つで、サツマイモを保存しておくための「芋つぼ」があるなど、特徴的な造りの住宅です。
長岡家住宅を見学し、落合集落のガイドは終了。
落合集落見学後は瀬戸内海を渡り岡山へ移動、岡山城を見学しました。
岡山城はその外観の黒さから「烏城」とも呼ばれています。現在は「烏城公園」としてかつての内堀やその内側の天守閣などが公園として整備されています。
元の建物は昭和20(1945)年の空襲により焼失し、現在の天守閣は昭和41(1966)年に再建されたものです。鉄筋コンクリート造りになっていますが、外観は焼失以前の天守閣と変わらない造りになっています。
岡山城の石垣は頻繁に増改築が施されており、3種類の異なった工法の石垣を見ることができます。
月見櫓と西の丸西手櫓の二つの櫓は現在2棟しか残っていない当時の建物で、国の重要文化財に指定されています。
【月見櫓】
岡山城を見学した後は鳥取に移動し、二日目は終了。後半の三日目からは山陰地方に入ります。
私達竹原ゼミ3年生は9月5日から9日にかけて、歴史遺産調査演習Bという授業の一環で中国・四国地方へ行ってきました。
まず、1日目では高知県高知市にある坂本龍馬記念館へ訪れました。坂本龍馬記念館とは、1991年11月に開館された高知出身の幕末の志士・坂本龍馬をテーマにした博物館であり、桂浜から近く、屋上や2階奥のフロアからは太平洋を一望することができます。また、この記念館は大海に乗り出す船をイメージしてデザインされ、「龍馬への入り口」として位置づけられています。
主な収蔵品としては、龍馬の兄や姉・坂本乙女に宛てた書簡や海援隊に関する資料などの他に、実際に龍馬が所持していたピストル、寺田屋事件の報告書や土佐勤王党関係資料といった京都土佐藩邸関係資料など龍馬の公私にわたる資料があります。
今回は、テレビでよく紹介されており歴史好きにはかなり興味があると思う「龍馬暗殺」について興味を深めたいと思ったため、そのことに関する展示に注目しました。そこでは、龍馬が暗殺された際に血痕がついた掛け軸と屏風の展示があった他に、暗殺の現場であった近江屋の一室を復元しているスペースもありました。更に、まだ解明されていない龍馬暗殺事件の謎についてまとめたパネル展示もあったことから、「龍馬暗殺」について関連性を持ってビジュアルに学ぶこともでき、博物館における「龍馬暗殺」の世界観を感じました。
常設展示にある所蔵品全体を見てみるとメディアなどでしかなかなか見られない貴重な資料が多くありました。また、平日にもかかわらず来館者が多く、その日は海外からの観光客の方も訪れている光景を見ました。更に、高知県内の他に日本全国各地からも訪れる人がいることを知ったことから人々に愛されている館であると思いました。
帰国してもう2週間たったけれども、ラオス・C村の水田景観が強く脳裏に焼き付いている。
雨季の天水に頼る自然灌漑の水田。その中にルンパ(養魚池)があり、畦の水口には小魚を捕る漁具が仕掛けてある。カエルや川エビもかかる。田には水生昆虫が泳ぎ、小さなトンボが舞う。農道脇の木々、草には昆虫が群れ、乾季になれば畦にネズミが穴を掘る。放牧の水牛・牛たちが落とす牛糞は田の肥料になり、そこには大小のマグソコガネが宿る。そして、みんな人がおいしくいただく。
2011年の1月に初めて訪れたときは、電気もトイレもなかった。なんと土器の多い(器種数・量とも)村なんだろうと、狂喜したおぼえがある。暗くなってから村に到着し、最初に訪ねた家で見たのが蛇を茹でている所だった。その蛇も今では少なくなったと聞いた。その後、来るたびに村の環境は少しずつ変化している。
なかでも主たる生業の稲作と水田漁業を巡る環境は厳しい。同じ天水田稲作地帯である東北タイ(イサーン)やラオスの農村部では各世帯が平均2.6ha(集約化が進む現代日本の一戸当たりの経営耕地面積(販売農家)は田畑含めて約2.3ha。「農林業センサス」)ほどの耕地を保有する。
しかし、ここでは0.6haと少ない(周辺の村と比較しても少ない。売買や相続の影響)。前者では、政府が進める農業の近代化、すなわち多収穫品種(ハイブリッド米)、化学肥料、農薬、農作業の機械化がパッケージとして急速に普及し、自給的な農業から米を販売し、現金収入を得る資本主義経済下の農業に脱却していった。
C村も例外ではなく、いまその波が押し寄せている。
各世帯は水田の所有面積も狭く、自給したうえで米を販売できるのは1割強しかない。半数以上の世帯は購入に頼らざるを得ない(ただし、種籾も含め、親族間での分配など共助システムが機能している)。
2010年に初めて耕運機を保有する世帯が現れ、しかし、その後数年間は依然水牛・牛での耕作が一般的だった。しかし昨年の調査では逆に家畜に頼る世帯が数世帯になってしまった。高価ではあるが、多機能な耕運機を購入したり、お金を払って借りて耕作するのである。今回訪ねて、水牛と牛の多さにびっくりした学生もいただろうが、実はこれでもここ5年で約5割減なのだ。貯蓄用に飼っているので、自分たちでは食べない。
そのほか、稲刈りの道具が穂刈具から鎌にシフトしたり、精米機を購入する世帯がでてきたりもしている。
一方で、イサーンやラオ族の天水田で急速に普及した「ハイブリッド米・化学肥料・農薬」という農業近代化の波はにぶい。うるち米を栽培するここでは、タイでも普及した「カオ・マリー」がハイブリッドの主力品種だ。しかし、化学肥料・農薬は投入されない。よって生産量はあがらない。その大きな理由は、水田漁業とみられる。タンパク源を魚に依存するO族にとって農薬の投与は水田漁業の放棄を意味するからだ。
私が子供のころは、毎年水田の中干しや水落しの時期に、たらい一杯のフナやドジョウ、ナマズが取れた。泥出ししてから甘露煮にして食べるのがおいしくて夏の楽しみだった。田んぼにはヒルがたくさんいて、何匹も足に付いた。それを引っ張って取るのが嫌で、農作業の手伝いがきらいだった。水路には小魚や川エビ、ゲンゴロウ、ヤゴなどあまた水生生物がいた。小学校高学年のころに田んぼの圃場整備が終わり、急速に、農薬、化学肥料、機械化が進んでいき、気が付くと、タニシやヒルがいなくなり、イナゴのいない田んぼとなった。
ルンパがあり、水田漁業が生きているC村の環境に豊かさを感じるのは、そんなノスタルジックな感覚とともに、私たちが失いつつある自然の生態をよく知り、資源を持続的、循環的に利用する(過剰に獲得しない)、ラオス流にいうとLOHASな暮らし方をしているからなのだろうか(Healthは問題が多いが)。
とはいえ、確実に換金作物(たばこ)の栽培やプランテーション・レーバーとしての出稼ぎが増え、もはや現金収入なくしては家計は成り立たない。それは外から見れば貨幣経済に翻弄されているかのようにみえるが、伝統的な生活を基盤としながら、社会への適応、多角的な経営戦略として積極的に取り込んでいっている。物質的豊かさや労働時間の短縮化、健康などを勝ち取りながら。家を離れてコーヒー農園で働くのも楽しい、とAさんは語っていた。
あの「ルンパ」が象徴する水田漁業の営みは、コメの生産性をあげるための「化学肥料・農薬の大量投与」と調和は難しい。「農業の集約化」「生活の近代化」の中でいまの集落・水田景観はどのように変わっていくのだろうか。貨幣経済が急速に浸透するラオスの農村で、彼ら、彼女らはどのような選択をしながら、村の歴史を刻んでいくのか。これからも見つめていきたい。
北野ゼミの旅行に同行した教員です。私からも番外編として少しだけ。
なぜ古文書ばかり読んでいる、しかも日本史の研究者がラオスに同行したの?と思うかもしれません。
それはラオスでは現在では想像しにくい、かつての日本の風景や暮らしが感じられると聞いたからです。
そんなラオスの村の生活にふれることができれば、古文書を読むうえで新しい視点や疑問が生まれるかもしれない。
ということで、せっかくの北野ゼミの旅行だったのですが部外者がお邪魔させてもらいました。
結果は、予想以上でした。いくつか写真とともに列記します。
残飯を食べる動物たち。牛もたくさん飼われています。動物と人間が共存する社会。そこには限りある資源を循環させながら効率よく生活する姿がみられます。江戸時代はエコな社会とも言われます。当時の身近な動物たちの役割が気になりました。
酒造りをみせてもらいました。明治時代の史料に「自家用酒」という言葉がたくさんでてきます。考えてみれば、どうやって作っていたのでしょう?今回の調査でイメージがつかめたので、日本の酒造と比較して村での個人の酒造りも調べてみたくなりました。
米を貯蔵している木櫃。1,500kgも入るそうです。竹で編んだ駕籠に土を塗ったものもありました。なかには籾と一緒に田の神様を象徴する葉(マーオ)も入れてありました。日本でも米を貯蔵していたはずですが、どのように貯蔵していたのでしょう?日本の古民家はいくつも見てきましたが、全く気にしたこともありませんでした。見聞の狭さを恥じつつ、視野が広がる喜びを感じました。
マーケットの風景。その賑やかさに圧倒されますが、これらの商品はどこから来たのでしょう?自家製なのか?どこかから買ってきたのか?後者であればどこから買ってきたのでしょう?山形の城下町には「十日町」や「七日町」など市日からとった町名が複数あり、毎日のように賑わっていたと説明されます。それでは、誰が何を売っていたのでしょう?市の風景、そのシステムもきちんと調べるとおもしろそうです。
ほんの数軒をまわっただけですが薬草が干されている家が複数ありました。家の入口に植物が挟まれていたので何かと聞くと、赤ちゃんを守る魔除けだそうです。点滴をつけてバイクを走らせる人ともすれ違いました。薬草・呪い・近代医療が同居する明治時代の医療との共通性もみつけられそうです。
このようなかたちで、日本の歴史を考える上での新たな疑問や視点がいくつも発見できました。
ラオスの村についても、日本の歴史についても興味はつきません。
本日は、旅行最終日。タイにて観光とお買い物デーです。
女性陣は眠い目をこすりながらラオス・スタイルでドレスアップ。
昨日のスリヤさんに続いて、今朝はドライバー兼アシスタントのオーさんとお別れです。私は10年来の付き合いで、一緒にタイのイサーン、ラオスを隅から隅まで走りまくっています。前回のタイ研修旅行でも学生たちはお世話になりました。
実はオーさんとミムさんは明日からまたラオスに戻り、スリヤさんとともに、日本からやってくるK先生、T先生とともに、C村ほかの調査に入るのです。今日はゆっくり骨休めしてください。
ウボンの空港にて記念写真。男たちはウボンで仲良くなったおじさんから買ったサングラスで。教員は冴えませんがお許しください。
ウボンからバンコクに飛んで、空港でレフトバッゲージ。全員身軽になり、ARLに乗って、BTSとの連絡駅であるパヤータイに12:00に到着。ここでアシスタントのミムさんと再会。初めて見るバンコクの高層ビルや車の多さ、タクシーに目を白黒。暑さと人ごみにのぼせる・・・
チャオプラヤー川ボートで観光するために、BTSで接続するタークシン橋駅まで行く予定が、時間がないのでミムさんの発案で、バンコク中心部のサイヤムに出て、そこから運河ボートに乗った。
これがすさまじかった。サイヤムの路地にはいると鼻がツーンとする運河(生活排水がガンガン流れ込む)があり、そこを市民が利用するボートが行き来する。バンコクはかつて水の都と言われ、ボートが市民の足だったという。接岸したらつべこべ言わずに飛び乗る。下りる時ももたもたしてられない。
対抗舟が来ると波をかぶるので乗っている客が紐を引っ張って波除幕を上げる仕組み。とはいいつつ、いきなり頭から臭い水をかぶった。初めて乗った日本人にとっては遊園地のアトラクションのような感覚だった。8バーツ(25円)は安い。
ボートを降りて、ワット・サケット(ゴールデンマウンテン・テンプル)に登り、バンコク市街を360度見渡す。ここからトゥク・トゥクに乗って王宮へ。涅槃仏で有名なワット・ポーを見学(C村があるのはアッタ・プー、ラオスの世界遺産はワット・プー、ここはワット・ポー。ちょっとだけややこしい…)。
女子チームはトゥク・トゥクに5人。我々は4人。総体重は変わらないが、いったい何人乗れるんだろうか。以前、6人ぐらい乗って走っているのを見たことがあるので、運転手がいいと言えば乗れるだけ乗るんだろうか。おおらかである。 (定員は4人らしい)
ワット・サケット
ワットポー前で昼食とデザートを取り、そばの船着き場からチャオプラヤー川ボートに乗船。
発展するバンコクと多宗教共存の風景を眺める。もちろん各駅停車のオレンジボートで14バーツ。
そして、この旅最後のミッション。週末限定のJJマーケットでお買い物。BTSでタークシン橋から終点のモーチットまで。世界中から集まった外国人に混じって、2時間半の自由行動。ここで何を見、何を感じるかはそれぞれの学生の感性です!
唯一の不安は集合場所にたどり着けるか。それほど巨大で人が多いのです。
船着き場のタークシン橋の近くにはちょっと洗練された「アジアティーク」というマーケットもありますが、あえて雑然としたこちらに来ました。
ここにはちょっととんがった人たちのアートコーナーもあります。
薄暗くなり始めた18:30に集合。BTSとARLで空港に戻りました。預け荷物をピックアップし、先に帰っていたミムさん(とK先生)と空港で合流。
最後に御礼を言って、ここでミムさんと別れました。パワフルな彼女がいなければ、また私たちの研修は成り立ちませんでした。
今回お世話になったスリヤさん、オーさん、ミムさん。そして、C村のみなさん! 本当にありがとうございました。また会いましょう。
タイ航空のチェックインカウンターのおねえさん。私たちが預け荷物として持ち込んだお土産の土器、魚を捕る筌、マット、背負い籠にやけに絡んでくる。と思ったらウボン出身だという。みんなおばあちゃんの家で見たことがあるし、使い方もわかると。もうすでに土器を見てもわからない若者がいるなかで、イサーンの娘たちにはまだ身近な存在なのかもしれない。タイもラオスもとてもフレンドリー。あたたかい余韻を残しながら、23:00、飛行機はバンコクの夜空に飛び発った。
機中では疲れからかあっという間に眠りについた。日本ではおそらく毎朝こんなに早くに起きて、一日中刺激に満ちた活動をしたことはないだろう。それも連日35℃の見知らぬ土地で。
朝6:30飛行機は羽田空港に着陸。日常の地に降り立った。8:00に現地解散。みながそれぞれの場所に帰って行った。
学生たちが現地であれほど村の人たちやアシスタントらと積極的に交流できたのには正直驚きもある。それは他者とあなたたちが響き合ったからだろう。そこにはまだ見知らぬ自分、可能性を秘めた自分がいたはずである。
もうほどよい時間が過ぎた。さて、この旅、体験はあなたたちにとってなんだったのか?
ラオスの村の伝統的な暮らしの中に、どんな価値を見出したのか?また、どんな自分を見つけたのか?
現地での調査ノートを時々見返し、これから言葉にし、聞かせてほしい。それがお世話になった方々への恩返し・・・・・
些細な事でもあなたの心が震え、目が開かれることがあったならいい旅だったのではないか。
今日はラオスに別れを告げ、タイに戻る日です。
ラオスで最後の買い物と博物館の見学をし、国境を越えて、ウボンの近くにある塩づくりの村、土器づくりの村を訪ねる予定です。それなりに忙しい日となります。それに加え、今日はMr.Souliyaと別れる日だったのです。
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Mr.スリヤはラオスの国家公務員(情報文化観光省)で、今回私たち日本人と行動を共にし、様々なサポートをしてくださいました。ラオス国立大学出身で考古学が専門(遺跡や田んぼを歩いている途中に石があるとひざまずいて手で石を拾い撫でているのを見かけました)、ベトナム留学の経験があり、英語も話せるし、博士号も取得されていて、国の公務に従事されている。素晴らしい方が僕たちについてくださったんだ、と別れ際になりはっきり意識できました。
このように、Mr.スリヤは表面上の学歴や肩書からみても素晴らしい方ですが、私個人からみても素晴らしい方でした。英語がへたくそながら、たどたどしく質問したり、体やらなんやらを使って適当に意思を伝えようとすると、私の肩を彼はそっと抱き寄せて静かに聞いてくださいました。普通だったら少し抵抗を感じる人もいるかもしれません。しかし、Mr.スリヤは違います。彼に肩を抱かれたとき、その温かさに触れることができるのです。
故に抵抗感はなくなります(温かさは器の大きさ、心の広さの表れ)。だから安心し、心を開いた私は彼に甘え、へたくそな意思伝達を続けます。そうすると彼は終わるまでしっかり聞いてくれるのです。
彼の心の温かさはことあるごとに感じられました。学生が刃物の近くにいれば、身を挺してそれを除けてくれたり・・・
そして朝ごはんを食べる前にMr.スリヤは首都ビエンチャンに帰っていったのでした。
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それから、私たちは朝飯前に散歩を兼ねてお寺にお参りしました。今日はワンプラ(仏日)でたくさんの市民の方がタンブン(お布施)に来ていました。男性は実修行するので、タンブンには女性が着飾って集まります。わたしたちもタンブンをし、本堂最前列でお参り。えらいお坊さんから紹介をされ、旅の安全の言葉をかけていただきました。
朝食後にパクセ・ダオファン市場へラオス最後の買い物に行きました。
みんなして竹細工やら布やらを買いました。特に布は女性陣に人気で、興味の大半は布にあったようです。それは次第に男性陣の購買意欲をも刺激し、我々も布を購入する事態へと発展していったのでした。あたかも店員さんのように腰かけている人はミムさんです。いつの間にか周囲に溶け込んでいくのが彼女の特技です。
布はラオ族の巻きスカート「シン」の生地で、このマネキンのようにして使用します。そばに仕立て屋があって、採寸のうえ縫い上げてくれます。
シンの仕立てを待っている間にチャンパサック歴史博物館を見学しました。中にある展示品の中にはなんと北野博司先生の土器の実測図がありましたよ。
博物館ではラオスの建国の歴史を知りました。ラオスでは多くの血が流れてきたのです。それはフランスの植民地であったこと、独立戦争があったことが主な原因です。そうした先人たちの血があっての現在だということを伝える場所なのでした。兵器(銃や砲弾)やラオス国内で見つかった遺物などが展示されていました。
ついにラオスから離れる時間がやってきました。ラオスではいろんなことを経験できましたが、ふとした瞬間に忘れそうになりますし、もはや忘れてしまったことさえありそうな気がします。それだけなじんだということでしょうか。なじめるくらい人々が受け入れてくれたということでしょうか。それとも忘れやすいだけなのでしょうか。
タイに再入国するとき名残惜しさがありませんでしたが、「また来たいなー」と思いました。
みんなしてたくさんのお酒を買い込み、地下を通って国境を越え、タイへと入ったのでした
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タイへ入るとウボンへと向かう途中で塩づくりのN村と土器づくりのD村に立ち寄りました。
N村では塩づくりを生業としているお父さんたちの話を聞きました。
村の中には塩がとけた水が広がる低地(イサーン~ラオスの地下には岩塩層)があり、この水を何度もろ過装置である「槽」に通し、鹹水(塩分濃度の高い塩水)を採取。これを煮詰めて塩を作ります。塩槽は一家に一台と決まっているそうです。最も暑い3月~5月に作業を行います。
そうしてできた塩は町に売りに行くのです。上半身裸ながらも見知らぬ日本人の肩を笑顔でたたきながら話をしてくださったお父さんが印象的で、優しい村でした。この村の人たちももとはラオスの人なのだとか。タイのイサーン(東北地方)はタイ・ラオ族と呼ばれる人たちが主体を占め、言語や習俗も共通点が多いと聞きました。
土器づくりのD村には学校があります。学校でも土器の作り方を教えているそうで、この村のアイデンテティとなっていることがわかります。家の中には大量の未焼成の土器がありました。この4月に作ったもので12月の稲刈り後に焼くそうです。
塩づくりも土器作りも乾季(稲刈り後)の副業として行われているので、今はシーズンオフです。
そうこうしてオーさんの車でウボンにつき、夕食を食べ、テスコ・ロータスで買い物。迫る帰国に向けて最後のホテルの宿泊をしたのでした。
ホテルでは昨夜に続きささやかなお別れミーティング。ラオスで買い込んできたラオ・ラーオやビアラオ、壷酒で最後の夜を惜しみました。
(TASUKU)
この日はC村での調査最終日。
3日間の調査の中でお世話になったお宅へご挨拶に伺いました。
ドゥーイという植物を使ったマット作りを見せていただいたお宅へ。
ちょうど米を搗いているところでした。今日の子供たちのおやつを作るそうです。
作業風景に惚れ惚れ。
お母さん素敵だなあ。。
感謝の気持ちを伝えて、集まってきた子供たちにお菓子をプレゼント。
ここで出会った少年は、この後行く先々で登場してお菓子をもらい続けるのでした。
その貪欲さと足の速さに関心です。笑
次はカプーン(米の麺)作りを見せてくれた女性のお宅へ伺いました。
とても印象的な作業だったので、その様子を絵に描いてプレゼントしました。
反応は微妙・・・
そこで持ってきた絵具セットとスケッチブックをプレゼント。
最初は戸惑っていましたが、真ん中のお姉ちゃんが受け取ってくれました。
その場で花を描いてみせると「私も描いてみるわ」と筆を持ち、そっくりの花を描いてくれました。
さらさらっと描くのでびっくり。
C村にアーティスト誕生の予感です。
絵を描いたりする機会はないのなと思っていましたが、もしかしたら今の子供たちは学校の授業等でやっているのかも?
民族衣装の巻きスカート(シン)を見ていても、色の組み合わせに気を使っていたり、刺繍を入れてアレンジしていたり、素敵なセンスだなあと思うことが何度もありました。
お母さんと3人娘とそのお子さんと記念撮影。
次回訪れたときに、この家の中や村中に絵が増えていたら面白いですね。
この環境で生活している人たちのものの見え方を、表現を通して見てみたいと思う出来事でした。
最後は酒作りでお世話になったお宅へ。
学生たちが聞き残したことを質問します。
ときに英語を交えながら積極的に質問する学生たち。
調査を通して、村の人達と交流する様子、とても活き活きしていました。
みんなの新たな一面を見れた気がします。
本当に良い研修でした。
川では子供たちが水遊び。
また来たいですね。
村の皆さんとお別れし、パクセーに戻ります。
その途中で土器と酒作りのT村へ立ち寄りました。
C村でも飲んだ壺酒が並びます。
6月に作ったものを購入。2ヶ月ほど期間を置いた今が飲み頃だそうです。
奥には土器作りの作業場がありました。
土器作りは乾季の仕事で、雨季は主に農業をしているそうです。
こちらは粘土を粉砕する唐臼。女性の仕事。
ちなみにここの土器作りは夫婦の協業で、女性が回転台を回しながら、男性が土器を成形していきます。男女の仕事の役割は村によっても作業内容によっても色々で、質問する度に興味深いポイントでした。
こちらは乾季に土器を焼く”窯”です。3mほど掘り込んで、そこから横に5mほど横穴になっているそうです。雨季は焼かないので水没しています。
20~30年前までは作っている家がたくさんあったそうです。
側にはセーコン川が流れ、このままボートに乗せて売りにいったそうです。
この村の土器作りは今は既に末期の姿だとお聞きしました。
是非乾季に一度訪れてみたいです。
(参考:乾季のT村と壷酒造り 2016年1月)***************************************
土器は夫婦で作ります。訳あって奥さんがいない人は男・男です。
壷酒の仕込み中
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T村を離れ、さらに車を走らせます。
途中のボーラヴェン高原の山間部で、水を溜めないタイプの米作りを見ました。陸稲です。日本ではごく一部の地域でしかやっていない方法だそうです。
稲の間には規則的にトウモロコシが混植してあります。
ふたたび車に揺られ、その途中タート・ファーンという滝へ。
今回はさすがに泳ぎませんが、勢いよく流れる2本の滝に一同テンションが上がります。
こちらは珈琲の木。
この滝のあるボラベン高原の周辺は珈琲とお茶の産地でした。種類はアラビカだったと思います。
ラオスの珈琲はあまり聞いたことがなかったので、この機会に購入。
こちらはゴールデンバンブー。ラオスでは色々な植物に出会いましたね!
C村での薬草摘みも良い体験でした。
パクセーに戻って来ました。ホテルの側には寺院。
メコン河の支流沿いをゆっくり歩きました。
ラオス最後の夜。
明日は国境越えでタイへ。
たしか、この日の夜にラオスのお酒”ラオラーオ”をいただき、数名のお腹に異変が・・・
いまとなっては良い思い出のはず!
明日は塩づくりの村へ。
旅は後半へ続きます。引き続きお楽しみくださいませ~
(YURIKO)
前日に引き続き、今日もC村にて調査です。
私たちは毎朝、ゲストハウスで朝食(パンやバナナ、お菓子、ドリンクなど、食べ放題、飲み放題)を食べ、7:30には出発します。
村で食べる昼食を買うためにアッタプー旧市街の市場へ。市場には野菜や果物はもちろん、魚や衣類製品など多くの品物が並びます。
メコン川をはじめとする多くの川が通るラオスでは、淡水魚が食卓を彩ります。
日本では観賞魚として売られている魚も食用として売られており、写真ではナイフフィッシュが並んでいます。他にもコイの仲間や、ナマズの仲間など、ゆっくりとした流れの川に生きる魚が多く見られます。また生きているナマズは食べることもあれば、川に逃がしてやって徳を積む「放生」の習俗にも使うそうです。市場の裏にはセーコン川が流れています。
さて市場で食料を確保した後は、例の悪路を進み、C村へと向かいます。3日目になるとだいぶ慣れてきましたが、時々「ドーン」と窓に頭をぶつける音が聞こえてきます。
今日はある食材を使用した料理を作って頂く約束をしています。
あれ?村に着くと人がいない・・・・・
実はあるお宅の主人の快気祝いで、朝から村中の人が集まって大宴会!
40度超のラオ・ラーオ(焼酎)をあおり酔っぱらっています。
こちらからもお祝いを贈り、回し飲みの恩恵にあずかりました。瓶の中には体にいいという樹木片が入っています。
負けじとラオ・ラーオをあおるBさん。
なかなかやるな、この若者・・・と村人。
3人いるC村シスターズ(アシスタント)の一角、Mさん
因みに昨日壺酒班がお酒を造っている頃、私は敷物班としてNさんとOさんにお話を伺っていました。初日に田んぼのあぜ道でみたドゥーイといったアロエのような植物を乾燥させ、「パァ」という万能の鉈(ナタ)1本だけ使って敷物(現地の言葉でガディオ)を作り上げます。採取後、葉の両側面の棘をカット。天日乾燥、ロールにして保管。編む前に縦に3分割(幅1㎝程度)。
驚くことにこの敷物は接着剤や紐を全く使用しません。全てこのドゥーイだけを使って端も織り込んで行きます。およそ日本の畳1畳分を2日で作り上げるそうです。作りも非常にしっかりしており、村では敷物のほか、敷布団として使用するとのことでした。Oさんは昨年編んだストックがあったので1枚譲ってもらいました。
そして今日のメインのある食材を使用した料理ですが、ある食材とは“バッタ”になります。日本でもイナゴの佃煮やハチノコなどが多く食べられていますが、それ以上にラオスでの昆虫食はとてもメジャーです。魚と同様貴重なタンパク源でもあり、市場でも同様のバッタがネットに入れられて大量に売られていました(青いネットの中身はすべてバッタ)。
元気なトノサマバッタ
そしてこのバッタですが、日本で言うトノサマバッタに近いです。大体全長5cm程。羽もしっかりあります。生きたままでは準備しづらいので、このバッタをお湯にさっと浸けてから下準備が始まります。慣れた手つきで次々に処理されていくバッタ達。せっかくなのでお手伝いさせていただきました。
下準備を終えたバッタは炒められていきます。見た目はこんがりとし、美味しそうな匂いがします。他の調査班と合流し、昼食で一緒に食べることになりました。
味は言うならば小海老の素揚げに近い味。とても美味しいです。正直イナゴの佃煮があまり好きではなかった私でしたが、日本でも佃煮だけじゃなくてこのように調理したら流行るのではないかな、と思います。
昼食を終え、午後からは村の子供たちがよく行くという山の滝に向かいました。昨日観察した竹細工やフェンス用の竹がそれぞれどんな環境にどのように生育しているのかを見に行くというのが最初の目的だったんですが、なぜか先導してくれたガールズたち目論見に引きずり込まれていくのでした。ちなみに昆虫調理を教えてくれたSさんはこの村で生まれたのに行ったことがないとのこと。初体験だと喜んでいました。
途中、友達を誘うために電話する女の子。3~4年前に村に電気がきてから若者の間には携帯、スマホが普及しています。
この日は晴れ、ただでさえ汗が止まらないような気温と湿度。滝までは細いあぜ道を歩き、川を越え、山を登ります。15~16歳の彼女たち普段から竹や薪の伐採に通っているので足取り軽く、何とかついてくる私たちを何度も振り返りながら、適当な場所で休憩しつつ案内してくれました。途中、むき出しの岩やら水たまりやらものともせず、ひたすら山道を登っていきます。普段使わないような筋肉を使い、多大な疲労を感じながらやっとの思いで登っていくと大体山の中腹ほどでしょうか、忽然と滝が現れました。
滝に着くと4人の少女たちはためらいもなく、滝つぼに飛び込み、楽しそうに潜ったり、水を掛け合ったり。これを見ていた私たちも誰からともなく仲間に加わっていったのでした。
水は少し冷たい程度で、入れば暑さもいっきにひいていきます。あのSさんも少女に混じって実に楽しそうでした。
滝つぼは深いところでは足が立ちません。水しぶきを浴びながら小一時間、みんなで遊びました。
ちなみに竹細工班のK君は一人残り、Pさんの仕事をつきっきりで覚えていたのでした。
滝から帰った後は、15:00すぎに約束していたJさん家に集まり、庭でカプーン(米の麺)作りをしました。朝、杵で搗いたうるち米を袋に入れて寝かせておきます。これをそのまま20分ほどお湯に浸け、臼に出します。発酵したような独特のにおい。20分ぐらいみんなで代わるがわる搗きました。杵の先端がくっつくので、グリップを半ひねりほどして持ち上げるのがコツです。次いで熱湯を加え、手練りします。木工ボンドのよう。さらにぬるま湯を加えて練っていくとペースト状になり、これを渦を巻く大鍋の中に絞り出すとカプーンの完成。出来上がった麺をお土産にもらって帰ることにしました。
まわりには村の子供たちが集まり、日本から持っていた折り紙で飛行機や鶴を折りました。
最後に。「水は命の源」という言葉がありますが、自然と深く結び付いて暮らすラオスの人たちにとって、まさに水(川)は生活全般に関わる重要な存在となっていました。
飲料水はもとより、食糧となる魚の捕獲、稲の栽培、それに集まる虫、川で遊んだり涼んだりなど・・・
蛇口をひねれば水が、スイッチを押せば空調がきく場所ばかりで、水がどれだけ重要なのか忘れていたのではないかと気づかされたように感じます。
さて明日がC村調査最終日です。
次もどうぞよろしくお願いします。
(SAKURA)
壷酒班以外の動向です。
竹細工(バンブークラフト)班は長老の一人Pさんにお願いして魚を獲る筌(うけ)の作り方を教えてもらいました。
今の時期、村の中では毎日、山から竹を切ってくる女性たちに会います。山の資源である薪(貴重な燃料)や竹の伐採・運搬は女性の仕事です。竹にも大きく3~4種類あり、使い方が異なります。
竹細工は一節が100㎝前後ある肉薄のしなやかな竹を用います。山の高いところに生えています。フェンス用の竹は肉厚で一節が短く、山の低いところに生えています。タケノコも一緒に取ってきます。
Pさん、前日の晩に雨が降ると、あちこちの水田に仕掛けた筌のチェックに行くということで午前中はその様子を見に行きました。水牛・牛除けの柵の修理をしていました。
もう一班は、いろんな家を回り、Oさん家できのう田んぼでみたドゥーイ(付け根の白いところは食べると甘い)で編む敷物作りをみせてもらいました。
村の中を、カランコロンいわせながら歩くウォーターバッファロー
昼食は朝市場で買ってきたおかずをみんなで食べます。今日は壷酒班と合流し、Sさんの家で。
おなかがいっぱいになったところでPさんの筌づくり。
まったりした空気の中でつい眠気が・・・・・・豚さんやニワトリ、犬も一緒です。
やがて薬草を調べていた班が合流。
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今日の夕食はセーコン川べりのサバイディ・アッタプー。そこら中にキキヤムがいる。
夕食後は床屋でさっぱり!
13,000kip(約155円)、おなじ値段で顔と頭のマッサージ
ちなみに、タイのアイス「マグナム」も同じ値段だ・・・・