北野ゼミ5日目は九州国立博物館、太宰府天満宮、マリンワールド(or福岡城)に行ってきました!
9時に熊本の宿を出て、車で1時間半かけて福岡の九州国立博物館を目指します。
到着後は各自入場券を買っていざ展示室の中にGOーー
ただ、展示室内での撮影は禁止されているので、写真はありません….
文字だけで説明するのは、何となく寂しい気もしますがしょうがないですね<(_ _)>
九州国立博物館の展示室では、日本がアジアやヨーロッパとの出会いの中で育んできた数々の歴史のドラマ、文化交流によって世界が拡がっていく様子をたどる「時間旅行」を体感できるんです!!
室内は大きく5つのテーマごとに区分されており、それぞれに合った希少価値の高い歴史的遺物が数多く展示されています。
いやー国立の博物館だけあって、設備は充実してるし、展示の仕方にもこだわりがあるようで見応え抜群でしたね!
雰囲気も最高でしたよ〜
館内(展示室外)はこんな感じです。
部分的過ぎて、位置感や雰囲気がわかり辛いかも…
これから撮影テクの向上に努めていきたいと思います(笑)
続いて博物館から徒歩で太宰府天満宮に行きました。
一通り境内を散策してみてびっくり(゜Д゜)
すれ違う人達のほとんどが日本語以外の言語を話しているんです。
日本なのに日本じゃないような変な錯覚を味わうことができました(笑)
日本に多くの外国人観光客が来てくれるのは、大変有りがたい事ですが、参拝の作法やマナー
は最低限度守ってもらいたいものですね。
みんなが気持ちよく観光できるように、そこらへんの指導を旅行会社さんはしっかりとすべきだと、散策中に感じました。
おみくじ引いたら末吉でした。健康に留意せよとのこと。はい。
最後はマリンワールド班、福岡城班の二手に分かれて自由散策です。
私はマリンワールドに行きました!
この水族館では「対馬暖流」をテーマに、熱帯から温帯、寒帯の魚の暮らしぶりをそのまま見ることができます。
右上の写真のお魚はチンアナゴです!
皆さんも一度はこの名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?名前の由来は、犬のチンに顔がそっくりだからそう名付けられたようです。う~ん。
個人的には似ているといった印象は受けませんでした(笑)
動物好きの私には至高の空間でした。
はあ..もう一度行きたいなぁ
ここでは自然の素晴らしさを楽しく知ってもらうために、体験型イベントなんかも
やっているんですって!
環境保護の第一歩は、やはり人にその魅力を知ってもらうことにあると思うんですよね~
だから子供達には、このようなイベントを通して自然と触れ合い、少しでも環境保護に対して興味・関心を持っていただけたらと思いますね。
幼い時に色々経験すべきですよほんと(笑)
長くなりました。6日目につづく
北野ゼミ4日目は島原で雲仙岳土石流被災家屋保存公園、熊本では熊本城をメインにその周辺に点在する場所をそれぞれ見学しました。
4日目。
島原から熊本へフェリーでの移動。…ですが、その前に一か所見学。
平成初めの雲仙岳噴火による土石流被害の家屋の現物を展示している公園を見学。
実際の家屋が埋もれたままの姿で、こちらが見下ろす形で見学して回る。
その後フェリーで熊本上陸。
2016年の地震被害の傷が生々しく残る熊本城の見学。と共にそれぞれ熊本城周辺も散策。
熊本城に先んじて私はゼミ生S氏と小泉八雲熊本旧居を見学。
私はその後、熊本城の見学で一日を費やし、
S氏は熊本城の見学の後、夏目漱石旧宅にも赴いたようだ。
熊本城の震災による損害は大きく、城好きとしては心が痛む姿でありました。と同時に今しか見れないであろう熊本城の姿を垣間見る機会を得たことは嬉しいところです。
現地でお会いした歴産出身の先輩。現在熊本城修復に携わっていらっしゃる先輩曰く、熊本城修復には震災から20年、つまりあと18年は必要との事でした。熊本城先輩長期入院不可避。
崩れた石垣、崩壊した構造物の数々を見ることが出来た今回は、文化財の保存と継承の問題に関わる問題や課題点を各々が考える機会となりました。
加藤清正の何代目からしい銅像
今の熊本城をどう見るのか。市街地に向けて目を光らせる清正。
投稿遅参の段、御免なれ
5日目
博多方面へ続く
ゼミ旅行5日目は、長野県長野市にある「長野市立博物館」を見学しました。「長野市立博物館」は、長野盆地に関する地理的説明、古代の人々による生活の痕跡、善光寺と門前町、村と町のくらしなどが主な展示となっています。移動手段も長野駅からバスが出ており、アクセスが良いため、時間の関係上、非常に助かりました。
こちらが「長野市立博物館」です。 近くに「川中島古戦場史跡公園」もあるので、興味のある方、時間に余裕のある方はそちらも見学できます。
ここが入口です。
入館すると左手に受付、そのまま進むと1階展示室、右手には特別展示室があります。このスペースには体験コーナーがあり、自分は江戸時代に用いられる挟箱(はさみばこ)を担いでみました。
これが挟箱です。中身はないのですが、意外と重く、前後に重心があるため、慣れるまでバランスをとるのが難しいです。
1階展示室は、長野盆地の説明、地震関連の史料やもの、古代の人々の生活などの展示があります。自分は、善光寺地震の史料をみるのに時間を割いたため、全ての展示物をじっくりと観察はできませんでした。次の機会は、他の展示物にも時間を割きたい所です。
1階展示室入口(すいません、写真傾きました…)。
1階展示室の入口から左手に進むと長野盆地関係の展示があります。写真の右手は善光寺地震史料、中央は地震関係展示の小部屋です。よくみると1番奥ではヘラジカ(ムース)が顔をだしています。
善光寺地震に関する史料。善光寺地震は1847年におきた地震で、善光寺付近では家の8割がつぶれたとされています。また地震によって山が崩れ、犀川(さいがわ)がせき止められました。20日後、犀川は決壊し、下流の長野盆地の大半が大洪水にみまわれました。二つ目の写真は、その際の災害絵図です。
地震関係展示の小部屋。地震関係の展示、主に地震計がありました。小部屋中央にある展示は、現在最も古いといわれている感震器(模型)で、西暦132年に中国の張衡という人が考案したそうです。
先ほど紹介したヘラジカ(ムース)です。非常に大きいですね。
他にも展示物はありましたが、時間の都合上、2階展示室に移動しました。2階展示室には、善光寺の説明、川中島の戦い、街道関係史料、農村のくらし、町のくらしなどの展示があります。今振り返ってみると、自分達の調査目的に関係する展示は2階にあったため、正直焦りました…。
2階に上がるとまず左手に、この演習の調査地でもある善光寺の絵図があります。やはり実物と比較すると見え方が変わります。
そのまま進むと右手に仏像の展示があります。この仏像は市内のお寺に伝わるものだそうです。
川中島の戦いの展示を通り、街道関係の展示へ。この絵図が今回、自分が1番注目した展示です。これは善光寺宿駅の様子が描かれているものであり、当時の宿駅の様子が窺えます。この演習では、調査目的として宿場町を知るということもあり、最初は宿駅の造りという視点でみていました。
しかし、ここで興味深いのは、長野市立博物館にある善光寺の説明で、女性の参拝も許されていたことを学び、この絵図の見方が変わったという点です。女性参拝者を意識し、絵図の人物を観察してみると、確かに、それらしき人物が確認できます。知識を得たことによる視野の広がりを感じた瞬間でした。
農村のくらしを見学しつつ、次の展示へ。この辺りの展示は時間の都合、詳しくみることができませんでした。次回注目したい点です。
この展示は、商家の模型です。善光寺の門前町では木綿や菜種油、麻や紙が集まり、それらを扱う問屋がいました。この模型のモデルである三河屋も油問屋を営んでいたそうです。
時間の都合もあり、ここで長野市立博物館の調査は終了です。やはり時間が足りないですが、時間内でできる限りの成果は、各々得られたと思います。次の機会では、今回の成果を整理した上で、時間をかけて見学できなかった展示を中心にまわりたいです。
5日間のフィールドワークは学びの多い貴重な経験になりました。この経験を今後の学習に活かしていきたいです。
竹原先生、運転お疲れ様でした。ありがとうございました。
ゼミメンバーの皆さん、5日間の調査演習お疲れ様でした。
ゼミ旅行4日目は長野県の「戸隠神社」を訪れました。前日から台風が近づきつつあり、天候が心配でしたが、当日は見事に晴れて気持ち良く参拝することが出来ました。
今回訪れた「戸隠神社」は「中社」「奥社」「九頭龍社」「火之御子社」「宝光社」の五つから成っており、参拝する際もこれら五社を巡る「五社巡り」が一般的な参拝ルートです。しかし、時間の関係上今回は「中社」「奥社」「九頭龍社」の三社を参拝することにしました。
まず初めに近くに大型駐車場を有する「中社」に行きました。駐車場から少し歩くと「中社」の大鳥居がお出迎えです。
2枚目の写真 の中央に移っているのは大鳥居の近くに生えている三本杉のうちの一本です。樹齢は約800年!
写っている人と比べてもその大きさがよくわかります。
大鳥居をくぐり段数は少ないものの、急な階段を上ると「中社」が見えてきました。「中社」は天八位思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)という神様をご祭神としています。この神様は、天照大御神が天岩戸に隠れた際に岩戸神楽を創案し、岩戸を開くきっかけを作った神様です。学業成就などの御神徳があるそうです。筆者も後期授業の成績向上を祈願しつつ、「奥社」「九頭龍社」参道への道のり(片道約2㎞)に挑みます。
「中社」を出て、10分ほど歩くと女人堂跡の石碑がありました。かつて戸隠は女人禁制の土地で、女性が足を踏み入れることが禁じられた土地でした。下の写真の左側の道は奥社に通じる道で修行の場とされ、立ち入るのを禁止された女性たちはここにあった女人堂から奥社を遥拝したそうです。
それからさらに30分程度歩いて奥社の参道入り口に到着しました。奥社参道は中山道に比べると平坦で非常に歩きやすいです。参道の両側には湧き水なのか、水が流れておりどこか神聖な印象を受けます。
ここからさらに20分程度歩き、奥社参道の中間地点「随神門」に到着しました。門の屋根には一面に草が生い茂っています。この門をくぐると立派な杉並木とご対面です。
奥社参道の杉並木は樹齢約400年だそうです。幹もかなり太いですが、根も複雑に絡み合っていて力強さを感じます。杉並木の枝や葉で空が覆われて日影が多く、昼でも涼しいです。
その後黙々と歩き遂に「奥社」と「九頭龍社」に到着しました。「中社」を出てから約1時間半程度かかりました。「奥社」は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)をご祭神としており、スポーツ必勝などの御利徳があるそうです。「奥社」近くにある「九頭龍社」は九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)を御祭神として、古来より水や虫歯の神として信仰を集めてきました。
今回は三社しか巡ることはできませんでしたが、奥社参道の杉並木や三本杉、女人堂跡などの見どころはしっかりと見ることができたので良かったです。竹原ゼミ旅行5日目に続きます。
9月13日、小国町の黒沢峠敷石道保存会のみなさんと学生とで古道の測量に行ってきた。
数日前の台風のせいで沢筋の道の上にはトチやオニグルミが大量に落ちていた。
黒沢峠はイザベラバードの旅行記にも登場する有名な道だが調査・測量はほとんど行われていない。
そんな中で地元保存会の方々が継続的に道の保全活動を行い、活用にも積極的に取り組んでいる。
古屋敷と伝承される場所にかつての茶屋跡があり、沢筋(水源)からここへ水を引いた溝跡が現地に残る。
地形的に溝が通せないところに木樋(竹樋)を通した可能性のある遺構があり、茶屋から水源までの間を測量した。
雨上がりのせいか、沿道はきのこが雨後のたけのこのようにでていた。帰りがけに大きなタマゴタケを3つもらった。帰りがけに大きなタマゴタケを3つもらった。オリーブオイルで火を通して食べたら、ほんのり香る上品な味だった。
ゼミ旅行3日目は、まず妻籠宿住民の有志によって構成される妻籠宿案内人の会の方と一緒に妻籠集落内を廻りました。
案内人の方は、妻籠宿の町並み保存事業の歩みや、歴史、各地区にある建造物の様式や構造などを分かりやすくかつ丁寧に説明してくださいました。
その説明の中で私が注目したのは、妻籠宿の火災対策です。妻籠宿内には20mおきに消火栓と消火用ホースが「火乃要鎮」と書かれた木箱の中に収納する形で随所に置かれています。
さらには、木箱に収納せずとも景観を考慮して目立たない色にした消化栓や防火用の水槽、消火用ホースが収納されている格納箱なども見受けられました。
この木箱に収納されている消火用ホースは細く、かつ軽いため、女性の方でも扱うことができるようになっています。しかし、放水量はそこまで多くはないので、あくまで初期消火用として用いられているそうです。
このような他の集落には見られない防火設備の充実は、昭和51(1976)年に妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことが大きく影響しています。妻籠宿内の建造物群は基本木造であるため、火災によってそれらが失われることがないように防火設備がしっかりと整備されていることが、重要伝統的建造物群保存地区の景観を維持していく上での大前提であるとおっしゃっていました。
集落内を歩くことで、その集落の町並みの保存事業の一端を窺い知ることができるというのも、集落散策の1つの魅力ですね。
案内が終了した後は、宿内にある俵屋里久と呼ばれるおそば屋さんにて、昼食としました。私は温かいかけうどんを食べました。ここで午後の妻籠宿から馬籠宿間の街道散策のための英気を養います。妻籠宿から馬籠宿までの道のりは約9㎞ですが、その間には馬籠峠と呼ばれる標高801mの峠があるので、みんなしっかりと食事と水分を補給しました。 昼食後は13時の街道散策の出発時間まで、各自昨日行った現地調査の不備を再調査し、いよいよ馬籠宿へと向かいます。
はじめは家や田畑の傍を通る道や、コンクリートで舗装された道を歩きましたが、次第に山道へと入っていきました。しかし、傾斜はそこまで急ではなく、登りやすかったです。山中を登っていく道中には小さな集落や棚田があり、私が想像していた山林が生い茂る街道の景観とは異なっていて、とても面白かったです。
また、街道の傍には庚申碑や道標、追分碑などの石碑や石像などが随所に見られ、それらがかつての街道の面影を偲ばせる景観を作り上げています。
そして、妻籠宿から馬籠宿間のやや馬籠宿寄りに位置する立場の茶屋にて、約10分間の休憩をしました。立場の茶屋とは、宿と宿の中間に位置し、ここを訪れる旅人が休憩するための施設です。自分も旅人の気持ちになって、一休みしようとしたところ、茶屋の店主からお茶と飴をいただきました。
飴をかじりながらぼんやりと外を眺めていると、2人組の外国人が茶屋の前を通りすぎ、それに気づいた店主が流暢な英語で挨拶をしていました。それだけ外国人がこの街道を通っているんだなと思いました。実際に茶屋で休憩する前の道中ですれ違う人達のほとんどは外国人で、日本語で挨拶する時はとても緊張しました(笑)。
そして、茶屋で休憩を終え、街道散策を再開。歩いてまもなく南無阿弥陀仏碑や三界万霊碑、墓碑などが見られました。かつてこの近辺に集落が形成されていたことを窺い知ることができます。
その後の道中は道草食っている私のはるか先導をゆくみんなに追いつこうともくもくと歩いていました。そして、ついに馬籠峠の頂上に到着しました。あとは峠を下るのみです。
下りの道中、猫さんを発見。こういう小さな出会いというのも、散策の醍醐味ですね。
猫さんと戯れている間に、またみんなとの距離が離されてしまったので、猫さんと別れた後はもくもくと歩きました。そして、竹原先生とゼミメンバーであるT氏に追いつきました。しかし、他のゼミメンバー2人を眼下に捉えることはできませんでした。
馬籠宿まで、もうひと踏ん張りです。
峠を越えた後の馬籠宿までの道のりは、ずっと下りの道だと思っていましたが、まさかの登り…。足に疲れが溜まっていた分、正直きつかったのですが、その登りの石段を登りきると広大な景色が眼前に広がっていて、その疲れは跡形もなく吹き飛んでしまいました。
しばらくの間、その景色にみとれていたので、また竹原先生とゼミメンバーT氏を見失ってしまいました。
しかし、この場所から少し先に進んだ見晴台にその2人は待ってくれていました。
この見晴台から見る景色は、先程見た景色よりも壮大で、かつ天気も快晴だったので、まさに記念写真の撮影にはもってこいの日です。
石柱の正面にあるのが日本百名山の1つである恵那山で、標高は2189mあります。
見晴台を少し下ると、馬籠宿の高札場がお出迎え。ここからが馬籠宿への入口となります。
馬籠宿は、木曽十一宿の南端に位置する宿場町で、明治・大正・昭和にかけて活躍した文豪、島崎藤村が生まれた町としても有名です。
馬籠宿は、斜面が急な坂の上に形成されているため、防火に必要な水が全体に行き届かず、幾度も大火災に見舞われた歴史があることから、古い建物はほとんど残っていません。
しかし、石畳や道路を直角に折り曲げた桝形と呼ばれる地形は現在も残っており、かつての宿場町的景観を偲ぶことができます。
馬籠宿到着後、各自妻籠行きのバスが来るまで、馬籠宿を自由に見て廻りました。自分は馬籠宿の防火設備に注目して集落を廻っていると、天水桶の形をし、「火乃要鎮」と書かれた木箱がありました。
その中をこっそり開けてみると、消火器が4個入っていました。このような木箱は自分が見つけた限りでは、表通りに4ヵ所ありましたが、20mおきに消火栓と消火用のホースが収納されている木箱が宿内に設置されている妻籠宿と比べると、防火設備は妻籠宿より充実しているとは言い難い印象を受けました。
そして、各自馬籠宿の散策を終えると、バス停に集まりバスが来るのを待ちました。その際、自分は野帳を紛失してしまったことに気付いたのですが、時間がなかったので、あきらめました(泣)。
17時19分発のバスに乗車し、20分後に妻籠宿へ到着しました。到着後は駐車場に停めていたレンタカーに乗り、宿泊先である自由旅クラブ木曽三河家へと戻りました。
これにて、怒涛のゼミ旅行3日目は終了です。1日中歩きっぱなしの1日でしたが、無事乗り切ることができました。
今日で、今回のゼミ旅行のメインとなる妻籠宿調査は終了し、明日は樹齢400年程の杉が立ち並ぶ戸隠神社へと向かいます。
竹原ゼミ旅行の2日目は、今回の調査演習のメインと言える妻籠宿の調査に向かいました。
宿泊した長野市内のホテルから、車で向かいました。道中には木曽十一宿の宿駅があるため、道路脇に宿駅があることを示す看板が見受けられます。
奈良井宿は、重要伝統的建造物群保存地区になっており、宿駅としての景観が整えられた綺麗な場所です。あまり長い時間見学することはできませんでしたが、見ごたえのある場所でした。
妻籠宿に到着して、まず初めに脇本陣奥谷を見学しました。
脇本陣は明治10(1877)年に建て替えたもので、詩人・島崎藤村の初恋の女性の嫁ぎ先でもあるそうです。国の重要文化財に指定されており、江戸時代に使用を禁じられていたヒノキを使って建てられているのが特徴です。
脇本陣の裏手からは歴史資料館に行くことができます。資料館では南木曽町や木曽路の歴史、町並み保全運動等について展示されています。
脇本陣を見学した後は、各々が事前に決めた調査テーマに沿って、妻籠宿の調査を自由に行いました。私は、脇本陣からほど近いところにある本陣を見学しに行きました。
本陣は平成7(1995)年に復元されたもので、こちらは島崎藤村の母の生家であるそうです。大名が宿泊する上段の間の復元が見学できる他、間取り図を元に再現された模型や、資料の展示等もあります。
本陣の見学後は、自分が定めたテーマを意識しながら妻籠宿の中を散策しました。
妻籠宿には特徴的な桝形の地形があります。現在は新道が作られたため桝形の地形は失われていますが、この地形の跡が残っています。桝形の地形は、外敵の侵入を妨げる役割があったとされています(写真左上)。
この桝形の跡から南へ進むと、寺下という地区に出ます。寺下は400年程の間火災に見舞われていない地区らしく、古い景観を良く残しています(写真右上)。
寺下には、妻籠宿における庶民の住宅の形式をとどめる「下嵯峨屋」と、木賃宿と呼ばれる宿泊施設であったとされる「上嵯峨屋」というふたつの町指定有形文化財があり、どちらも自由に見学することができました。
下嵯峨屋は昭和43(1968)年に、上嵯峨屋は昭和44(1969)年に解体復元され、現在のように保存されています(写真上が下嵯峨屋、写真下が上嵯峨屋)。
妻籠宿の北側には、復元された高札場や、鯉の形をしているとして名所になっていた鯉岩がありました。鯉岩は明治24(1891)年に発生した濃尾大地震で倒れてしまったため、往時の姿を確認することはできません。鯉岩は、大変わかりずらいですが、左側にある階段から後ろに周り、上に上ることが可能でした。柵も何もないのでそれなりに危険ですが、のぼるととても眺めがいいです。
それぞれ調査テーマが違ったので、橋や道幅の長さを測っている人もいたようです。妻籠宿は見所が多く、端から端まで見学するとそれなりに時間がかかるので、非常に充実した調査を行うことができました。
竹原ゼミでは、8月20日~24日の日程で長野県へゼミ旅行に行ってきました。
今回の主な目的は、長野県にある妻籠宿を中心とした宿場町についての現地調査です。
1日目は、長野までの移動のため、新幹線で山形駅を出発し、大宮駅での乗り換えを経て長野駅へ向かいました。
到着したのはお昼頃で、昼食は「千成寿司」というお店で全員、とんかつ定食を食べました。
午後からは門前町を散策しながら、国宝に指定されている善光寺へと向かいました。
長野県から善光寺までの十八丁(約2㎞)の道のりにわたって「丁石」という道しるべの石碑が、一丁(約109m)ごとに置かれていました。
歴史的な建造物と現代の建造物が混在した街並みで、観光地として景観づくりに力を入れている様子が伝わってきました。
また、善光寺本堂でのお戒壇巡りがとても印象的でした。
「お戒壇巡り」とは、御本尊が安置されている床下にある真っ暗な回廊を歩き、「極楽の錠前」を探り当て秘仏の御本尊と血縁を果たすと、極楽浄土へ行くことができるといわれています。
暗闇の中を、一列に並んで右手で壁を伝って錠前を探しつつ、ゆっくり進んでいきました。
全く目が見えない状態のため、前の人との感覚がわからず、何度もぶつかりながらもなんとか出ることができました。
実際よりも時間が長く感じて、不思議な感覚でした。
肝心の「極楽の錠前」は、よくわからないまま終わってしまいましたが、なかなかできない体験ができて楽しかったです。
善光寺を訪れた際には、ぜひ体験してみてください。
その他にも、善光寺周辺はすべて見切れないほど、見どころがたくさんある良い所でした。
竹原ゼミ旅行2日目に続きます。
3日目は軍艦島、原爆資料館、平和公園などに行ってきました。すみません、写真少ないです!!!
まず最初に向かったのは軍艦島!!
正しくは「端島(はしま)」という名前の島なのですが、岸壁が島全体を囲い高層鉄筋アパートが立ち並ぶ外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。2015年に「明治日本の産業革命遺産」になったことでも有名な海底炭鉱の島ですね。
私たちは軍艦島上陸・周遊コースを予約しました。上陸については当日の軍艦島付近の波の様子を見ない限り可能か不可能かわからない中・・・無事上陸!!上陸時間は40分。荒廃が激しいため、見学場所は限られています。ベルトコンベアの支柱やレンガ造りの建物、桟橋への階段部分などが残っており、そこが当時どのように使われていたのか、どんなものがあったのかを知ることができます。
見所がたくさんある軍艦島ですが、この島は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つです。福岡県の官営八幡製鐵所、山口県の萩反射炉など全23資産により構成されてこその世界遺産です。その横の繋がりを知らずに見学すると軍艦島の価値を学ぶのは難しいかと思います。また、炭坑としての軍艦島を知るには対岸にある資料館へ行く必要があります。
軍艦島はどんどん荒廃していきます。数年後、数十年後・・・どのような姿で存在しているのか、そもそも存在しているかさえわからない状態です。手を加えるべき遺産か、手を加えるべきではない遺産か・・・。軍艦島をどう捉え、どう扱っていくのかが問題であると感じました。
軍艦島の次は原爆資料館です。・・・なのですが、17:00に平和公園集合ということになり、約5時間ほど自由時間でした。(原爆資料館と平和公園は必ず見学です)
私は友達と2人でグラバー園と大浦天主堂に行ってきました。(丁度いい写真がありませんでした・・・)グラバー園の中には軍艦島と同じ「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つの旧グラバー住宅、国指定重要文化財の旧リンガー住宅、旧オルト住宅などがあります。すぐ近くにある大浦天主堂は国宝となっています。グラバー園は当時の建物を活かしながら、中に展示をしてありました。また、おすすめのフラワースポットや衣装の貸し出しなども行っているようで、インスタ映えを狙う若い人も多く訪れるような観光の工夫もしていました。写真を撮ることに集中して歴史を学ぶことも忘れてないかな~なんて思うこともありました。大浦天主堂には博物館も併設されており、旧羅典神学校、旧長崎大司教館が活用されています。キリシタンの歴史以外にも当時の建築についても学ぶことができます。
路面電車に乗り原爆資料館を目指します。なかなか乗る機会のない路面電車・・・とても良かったです。山形にも欲しいですね!
さて、3日目の最後は原爆資料館と平和公園です。
原爆資料館には平日にも関わらず多くの人がいました。(団体客、外国人の方が目立ちました)当時の写真や物、長崎の街の惨状を再現したコーナー、映像、絵・・・など様々な 展示がありました。中には、実際に触れることができる展示も・・・。常設展示や長崎原爆についての解説が聴ける12カ国語の音声ガイドがあり、戦争、原爆の悲惨さを知るべきなのは日本人だけではないということを感じました。
実際の遺品や写真などを見て、文章を読んで、音を聴いて・・・。物だけでなく、人の言葉や映像も遺産として残っていました。原爆資料館の資料を保護するのも、実際の体験談を語り継ぐのも、今回学んだことを人に話すことも、長崎の「戦争」「原爆」を保存することなのだと思いました。
「戦争」というものを多く学ぶことができる場所です。戦争を知らない世代である私たちは必ず行かなければならない場所だと感じました。
4日目は長崎に別れを告げ、熊本へ向かいます。またね、長崎!!!
北野ゼミ2日目はたびら昆虫自然園、田平天主堂、春日集落、出島などに行きました!
午前中は、たびら昆虫館は27年前に始まったそうです。以前はミカン畑だったとか・・・
ここの観察ゾーンと呼ばれる場所では平戸で見ることができる昆虫の観察ができます。
ガイドさんの説明を聞きながら、観察ゾーンを一周しました。この時期はカブトムシは姿を見せませんでしたが、クワガタムシや蝶、クモ、水棲昆虫などの生態を見ることができました。他にも数多くの動植物がここで生きています。
この時期のせいか、足の数か所を蚊に刺されたりもしました・・・
ここでは、生態系の保全のため、生き物の持ち込みや持ち帰りを禁止しています。その理由として、生態を壊さないようにする配慮があります。たびら昆虫館は生態系保全の最先端の施設だそうです。人と自然の関わり方を模索し、人為的生態系を作り、生態系の保存や活用に努めているとのことでした。
しかし、ガイド役(案内役)の高齢化により、後継者不足が深刻な問題になりつつあるそうです。
また、イノシシなどの害獣にも悩まされることもあるらしく、自然と人との生き方を考えさせられる場所でした。
次に田平天主堂に行きました。田平天主堂は、敷地内で貝殻を焼いて赤土とまぜるアマカワ(煉瓦用目地)を作り、1918(大正7年)に完成しました。今では重要文化財になっています。明治になり移住してきた潜伏キリシタンの人々の末裔が守り伝えてきました。現在も土地・建物は教区が管理しており、信者の方が見学者への対応をしてくれます。
教会の表には「ルルド」と呼ばれる場所があり、フランスのピレネー山脈のふもとの町のルルドの洞窟に聖母マリアが出現した、という伝説があります。田平天主堂も信徒移住百周年を記念して、洞窟を作り、聖母マリア像と聖ベルナデッタの像を置き、信心の場としました。
一応観光地化はしていましたが、今でも教会の中ではミサが行われるなど、今なお人々の信仰の場としてその役割を果たしている場所です。
ミサを見学したりすることはできないらしく、観光と人々の暮らしはきちんと分けられている印象を受けました。厳かな雰囲気の教会でしたが、ステンドグラスがとても美しい教会でした。
午後は春日集落に行ってきました。この場所は最近世界遺産として登録された、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産として登録されている村の一つです。
潜伏キリシタンは日本独自の文化、日本独特の信仰の形を今に残しています。
平戸はオランダとの交易が盛んで、平戸は初期のキリスト教繁栄地でした。
のちに、キリスト教は禁教として厳しい弾圧を受けることになります。仏教や神道を受け入れつつ、キリスト教も信仰したことにより、日本独自の信仰が生まれていきました。
今も信仰を守り続ける人はいますが、後継者、文化の担い手がいないことが問題になっています。
ガイダンス施設には村のおじいさんやおばあさんが交代で詰め、来訪者に応えていました。お茶や漬物などでもてなしてくれます。このように交流ができるのはよそ者にとってはありがたいのですが、、、まだ、戸惑っているようにも見えました。農道への車の乗り入れ自粛を呼び掛けているということは、意に反して観光客が迷惑をかけていることが想像されます。
平戸のオランダ商館と幸橋(アーチ橋)をみて長崎に急ぎました。
今の出島は当時の風景を再現しているどうです!建物の外観だけでなく、中の外装や家具も当時使われていたものが置いてありました。まるで、今でも誰かがそこで生活しているようでした。鎖国で制限された海外との貿易の中、この出島は海外と日本を繋ぐ重要な架け橋になっていたのではなでしょうか。
また、オランダの人にとって出島はとても思い入れのある場所らしく、ナポレオンに占領され数年ほどオランダという国が消えていた中、世界で唯一この出島ではオランダの国旗が掲げられていたそうです。
次は軍艦島を目指します!