紀州和歌山といえば徳川御三家のひとつ。
和歌山城は市中心部の独立丘に連立式の天守がそびえる。城のシンボルとなった天守は昭和33年に鉄筋コンクリート造で復元されたものである。当時の工事の様子をビデオでみることができるが、工事用足場の組み立てや門柱などをソリで引く様はもはや伝統技術・・・・と、唸ってしまう。
石垣がすばらしい!
豊臣秀長の城代として城の骨格を作ったのは桑山氏であった。文禄期ごろに本丸や天守郭の石垣群が作られた。丘陵部の石垣は結晶片岩(緑泥片岩)とよばれる緑色の片岩が用いられ、独特の景色である。少なくとも2段階はありそうだ。
次いで、関が原(慶長5年)のあと、加増されて甲府城からはいったのが浅野幸長だ。二ノ丸や大手門、岡口門など平地部で主要な郭や城門を整備した。元和5年には改易された福島正則に代わり、またまた加増され広島城に移った。約20年間、浅野は城の整備を大々的に行った。城内に石切り場がある片岩に代えて、友が島等から和泉砂岩の転石を本格的に利用するようになった。3段階ぐらいの変遷が読み取れる。
そして、いよいよ徳川の時代になる。家康の子、初代徳川頼宣が和歌山に入って紀州徳川家が成立する。このとき、最近整備された御橋廊下が架かる石垣が二ノ丸を拡張して作られた。大手門周辺もこの頃再整備された。
そして、明暦の大火後の復興、18世紀台の花崗斑岩(熊野石)を使う石垣など、これも少なくとも3期ぐらいはある。徳川の石垣ゆえ、公儀穴太たちが関与したのであろうか。
国の名勝に指定されている西の丸庭園。自然地形をうまく生かして作った桑山時代の石垣群を借景とし、結晶片岩の岩盤を池の中島や岩山にみたてる、人工と自然の調和を表現した見事な庭園である。
お城に隣接する「岡山」という緑泥片岩の岩山を歩くと、片岩の層理・節理を利用しならが石を切ったあとがいくつも見えてくる。
和歌山城の石垣をみたのは今回がはじめて。予想以上にマニアを楽しませてくれる。石垣を見る楽しみは人それぞれあろうが、私にとってはベスト3に入る感動の出会いだった。
本屋に入って参考図書を探したが、郷土コーナーは「たま駅長」が席巻していた。