世界遺産を目指す佐渡金銀山の委員会に行ってきた。今年度、日本の暫定リスト入りが確実視されている。以前は石見銀山とセットでという条件だったが、今年6月14日の文化審議会で単独登録の方向となった(追記:10月6日、日本政府は「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」の暫定リスト入りを決定)。
朝8時に出た現地見学は、やっぱり、どしゃぶり雨だった。
午前中、西三川の砂金山の遺跡(東西8km、南北3km)、鶴子(つるし)銀山の発掘調査、坑道掘りや露頭掘りの跡を見学した。最近、城石垣の石切丁場の調査で広い遺跡には慣れているつもりだったが、佐渡の鉱山遺跡の広がりや内容、時代幅のスケールは想像を超えていた。それだけに、調査や保存には難しい問題が山積している。砂金流しというと細々とやる原始的な方法と思いがちだが、近世〜明治初期に行われたそれは大規模に山を崩し、何キロも水路を開鑿、貯水池を作り、これを維持するだけでも多大な労働力を要する。周辺が金を含む熱水鉱床の風化・再堆積によってできた地層からなるため、このような方法を取っている。鉱脈のあるところでは露頭掘りや坑道掘りとなる。地層などの環境条件に適応して方法が選択されるというわけだ。
戦国末期から近世初期、戦国の世で稼ぎを得ていた雑兵たちは平和の世を迎えて新たな稼ぎ場を探していた。
彼らは各地のお城や城下町建設を働き場とし、佐渡のゴールドラッシュに沸いた。鉱石をすりつぶす臼を切り出した石切場には、城郭石垣の石切場と同じ矢穴列が群在する。城石垣作りが活況を呈した慶長や元和のころ、石切り職人たちはここでも活躍していたのだ。
5年前までは学生たちとよく佐渡に来ていた。合宿して窯跡の分布調査などもした。あのころはまだ金山遺跡しか脚光を浴びていなかった。しかし今は違う。関連遺産の見直しによって、膨大な資産が浮かび上がってきた(今は整理の真っ最中)。その後の変容には驚くばかりである。
文化遺産やその価値は時代が、社会が再発見していく。現代社会では価値相対主義の傾向が強い。だからこそ、文化遺産を現代に引き継ぐための文脈・ストーリーが必要となる。そして、それは研究によってのみ明らかになる。
世界遺産運動の功罪がいわれるが、佐渡は今、大きなムーブメントのなかにある。その中に身を置いて、自治体や地域のかたがたから教えをこおうと思う。