歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2010-12-23

窯と共存する土器づくり村

 朝一、アシスタントのUが合流。北タイのチェンマイから夜行バスで10時間かけてきた。バスの発達したタイの移動では驚くことではない(正月明けに、Mimはチェンマイからラオスのパクセーまでバスで来た。おそるべし・・・)。

 さっそく2号線を北上、1時間足らずでW.T村に着く。村長さんの家であいさつしていると、ポンポンと心地よい音が聞こえてきた。土器を叩く土器作り村特有の音だ。気がはやる。下見情報によると、この村は伝統的な土器作りのポターは少数で、いまは窯焼きに変わったという。
 
 1軒1軒訪ね歩き、話を聞いていく。
 この村も土鍋など伝統的な土器を作るのは女性だ。しかし、ここには電動ロクロで植木鉢を挽く男性2人がいて、叩き作りの女性ポターたちと共存している。タオと呼ばれる七輪作りもやっている。炭用、炭薪兼用があり、各家庭の必需品である。
 ロクロを挽くひとりは3年前にウボンから来た青年である。この村が大きく変貌するきっかけとなった「窯」を作りにおじいさんと一緒に来た。おじいさんは帰ったが、若者はここでの仕事のほうがいいと連れてきた奥さんとともに根付いた。
 もう一人は、この村の人で1年余り前から始めたという壮年の男性。人を雇って工房にしている。技術はまだまだ。植木鉢などを挽いている。ピッサヌロークから雇用した人に習ってはじめた。
 ロクロ工房では夫がいない女性など、ひとりで野焼きするのが難しい人たちを雇い、大量生産して窯焼きする。
 一方、昔ながらの土器を作る姉妹2人は成形だけして、穴窯を経営している末の妹に生のまま売る。窯は一度に700〜1,000個体が入り、12時間かけて焼く。
 これとは別に100個体ぐらい入る昇炎式窯(3個あるうち2個は壊れている)もあって、これを利用する人もいる。もっと小規模なポターは野焼きするし、窯焼きの家でも小さな蓋だけを野焼きすることもある。
 この村では、廃れかけた土器作りが、窯やロクロという新たな生産手段の導入と、売れる器種を作ることで再生した。イサーンの大動脈−2号線に近いことも味方した。この村で作っていない器種(擂鉢クロックなど)は他から買ってきて、一緒に売ることで品揃えを増やしている。また、50年前に100kmほど離れたノンブアランプー県K.S村に多くの世帯が移住したが、製品をこの土器作り村へ持って行って販売している。
 東北タイの土器作りは、生活の近代化のなかで多くが消滅し、残っている所も後継者がいないので早晩消える運命にある。ポターの娘たちや家族は社会の変化の波のなかで、より豊かな生活を求めて主体的に今の姿を選択している。
 W.Tは変貌する土器作り村の一つの姿をみせてくれた。「また、おいで!」とBさん(54)。今度来た時はどう変わっているのか。

 夜、コンケーンのセントラルプラザに繰り出した。この日は大学の卒業式。町中、白にオレンジのストライプの入った卒業式の服を着た学生であふれている。家族も来るのでホテルはどこもいっぱいらしい。タイの国立大学では国王や王女が直接ひとりひとりに卒業証書を手渡すそうだ。そのため全国で時期をずらしながら卒業式がある。
 レストラン街で日本の「8番らーめん」を見つけた。8番らーめんは石川県加賀市の国道8号線沿いにあった小さな店が発祥だ。私の実家から歩いて15分のところにあった。昭和42年創業で当時から大人気だったのを覚えている。野菜が大もりで子供には食べきれなかった。なつかしかったが、8番らーめんには入らず、タイスキの店「MK」にいった。いまや日本にも出店しているタイ人に大人気の店だ。野菜や麺やおでんや、なんでも鍋に突っ込んで食べる。店員さんがきびきびしていて、明るくて楽しい店なのである。









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