6時に起きる。今日も朝日がまぶしい。
朝一、トングリスがアッタプーの県知事に調査許可の書類を出しに行ってくれる。ラオスの役所は正月は2日間休みだそうだ。知事も昨夜(朝)から酔っ払っていたとのこと。
しかし、庶民にとっては(ラオス暦では)1月の終わりごろ。季節暦ではソンクラーン(4月半ば)を新年の始まりとして大々的に祝うので、いまは特別な日でない。平穏だ。
昨日の情報はまちがいで、やっぱりS村へはセーコン川を船で渡り、かなり歩かないといけないらしい。意を決して、渡し場を探す。川を渡る前に一つの村に入る。
そこには不発弾注意の大きな看板。改めて自分の居場所を知る。ここはベトナム国境の町。35年あまり前、アメリカの爆撃にさらされたところだ。反米・反サイゴン政権勢力が、南ベトナム解放民族戦線(親米の日本ではベトコンとよばれた)を支援するためラオス・カンボジアに設けた物資の補給ルート(ホーチミン・ルート)にあたる。土器作りの聞き取りでも画期としての戦争や内戦時代の記憶は新しい。
このKK村で珍しいモーエンナムに出会った。見たこともない長胴丸底の水甕だ。そして、弥生土器のような球胴の土器モーサナン。乾燥させた煙草の葉を貯蔵する。ここでS村から来たというBさん(43)に会う。乾季の生業である煙草栽培の苗を買いに来たという。Bさんによれば、S村にはポターは100人以上いるという。そんなバカな!と思ったが、後になって意味がわかった。とにかく、見ないわけにはいかない、そう思わせる村だった。
渡し場で丸木船に乗る。マイ・タヴェンをくりぬいて舷側板と波切板をつけたもの。走行性はいいが、左右のバランスが悪い。座っていてもひっくり返りそうになる。川を渡ると岸には煙草畑。炎天下、船頭さんの娘フェンらの案内で30分あまり森を歩く。突如、放牧中の水牛の群れと出くわし、緊張が走る。 森を抜けると、広大な水田地帯。航空写真でみたように、ポツン、ポツンと家が点在する。典型的な散居村。
家は住居と倉からなるが、日本の散居村のように「屋敷」はない。田の中に家を建てたといった感じで、宅地と農地を区切るものはない。農地に立てた出作り小屋的なあり方である。
そして高床住居の床がやたら高い。籾は竹で編んだ大きな籠に入れて貯蔵する(写真左端)。右端は網んでいる最中のもの。 道はない。田の中を歩いたところが道だ。グリーンベルトは雨期に水が流れるところ。
田は雨季単作でうるち米主体。もち米主食のラオ族とはちがう。ここは少数民族Oi(Oy)の村。
3つの村があって、全体で550世帯2788人。村長のいる北の村は265世帯1403人。世帯当たりの耕地所有面積は小さい。 村長さんの家を訪ねると、新年のセンサス(人口調査)の最中で男たちが集まっている。奥ではまかない料理の最中。突然の来客を怪しまれるが、受け入れてくれる。一緒に昼食を食べながら、生業や土器作りの取材をする。
乾季はタバコ栽培と薪の採取が主な生業という。豚・鳥などの家畜飼育もある。電気はまだ来ていないが、村長の家では発電機があって、これでテレビをみる。耕運機を所有する世帯もある。 台所では竹の子と魚スープの調理中。途中で、唐辛子と塩とオタマ1杯分の味の素を投入。最後にレモングラス。ラオスの高床の住居ではどこの家にもこんな囲炉裏がある。ゴンサオの上で調理するが、土鍋を使う家はほとんどない。
土器作りは乾季の2〜3カ月だけやるよ。何人ポターがいるかって?女はほとんど作るよ・・・・(沈黙)
中の村のBさんが「100以上いる」といった意味がわかった 土製のモーエンナム水甕はどの家にも置いてあるのが見える。しかし、同時に最近入ったと思われる真新しいプラスチック製の濾過装置付き注水器も置かれている。この道具はこれから村で受け入れられていくのだろうか。
さっきの竹の子スープとうるちご飯で昼食を食べる。