歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2011-10-23

石の町シンポジウム


 10月22日・23日、千葉県富津市金谷で第3回「石の町シンポジウム」が開かれた。ここ金谷から切り出された「房州石」と呼ばれる凝灰岩は、江戸後期から船で江戸・関東一円運ばれ、各地の建築や基礎、敷石などに使用された。その石切り場の遺構群は、山体の景色を変えるほど大規模なもので、「鋸山」と呼ばれるように古くから名所となっていた。
 いま、石切りは途絶え、往時の面影はないが、「鋸山」は一部観光開発され、首都圏から日帰りできる景勝地として、ハイカーや山ガールで賑わっている。
 この町に熱い思いを抱く人たちが集まっているらしいことは仲間からうすうす聞いていた。だから、いつか訪ねてみたい場所だった。
 今回ようやくその機会を得て参加が実現した。おりしも高畠町での活動を始めたばかりで、これを手土産に参加し、私がひいきの石の町「たかはた」をアピールしてきた。
朝、特急が大雨で運休というハプニングに見舞われ、ひやひやしたが、町おこしのボランティアでこの町に引っ越してきたという美大卒の青年が車を飛ばして君津まで迎えに来てくれた。
 着くなり、常緑樹が繁る山並みを背景に棕櫚の木、金谷石の石塀がつらなる独特の景観が目に飛び込んできた。金谷石は「尺三」(実際は長さ80?サイズ)で切り出されているため、石材が細かい。一二八(1尺2寸×8寸)の1間が基本の高畠石をみなれているせいだろうか。風化が激しく、どこも目地にモルタルが詰められている。高畠の一二八を平積みしただけの石塀を紹介すると一様に驚きの声が聞こえた。しかし、その日の夜と早朝にまちなかを歩いてみると、ここでも裏庭や隣との境にはひっそりと数段平積みしただけのものや集積(ストック)が見られた。そして雨どいの水を貯めていた見慣れない石製品を見つけた。

 講演とシンポジウムの間に、恒例となっているらしい地元高校生による合唱とブラスバンドの演奏が行われた。会場をまきこんだパフォーマンで高校生たちに暖かい気持ちにさせてもらった。

 二日目は現地ツアー。大雨の余韻が残る山麓部の山の中に分け入って、泥岩を採集した石切り場の跡を見学した。その昔、切石を山から下ろす仕事は女性たちが担った。ねこ車のブレーキ痕で磨り減ったこの石敷き道を車力道というが、そこはいま山ガール(老若)たちの登山道となっている。時代の移り変わりをしみじみと感じる。

 山頂ちかくの石切り場からクラシックの音色が聞こえてくる。今日は毎年行われている鋸山コンサートの日だった。登山道をのぼってきた人たちは、突然大きな石切り場跡があらわれ、そこでクラシックコンサートと書道家によるパフォーマンスが行われていれば驚くだろう。切石に丸太を渡しただけの観客席でしばし腰をおろしていく。索道の起点や鍛冶小屋の遺構、10年数年前までは現役だったろう機械類が無造作に置かれ、時の流れを感じさせる舞台だった。

 ここには土地の歴史を掘り起こしながら、その遺産をしっかりと受け継いで、町の行く末を自分たちで考えて作っていこうという人たちがいる。全国に石の町はあまたある。しかし、金谷でみたようにそれらは当時の自然や社会、さらに現在に至る環境の違いが反映されてみな違う顔を見せる。高畠は高畠らしい、全国どこにもない「石の町」であることを確信した。それを顕在化させるのがこれからの仕事になるだろう。









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