歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2012-01-04

目からうろこが落ち、そして腑に落ちた!

D村の最終日。

 今日は村の北半と郊外で土器をつくっている人を訪ねる。

 人の話はできるだけたくさん聞いた方がよい。常々感じることだ。記憶は定かでないし、悪気はなくても適当に答えるもので、つじつまの合わないことは少なくない。それを物証で押さえながらストーリーを紡いでいく。何度も何度も検証を繰り返す。それが民族調査の醍醐味だ。
 以下はマニアックな話なのであまり気に留めないでほしい。

 この村のポターたちは今から26、27年前、役所の肝いりでバスに乗って先進地視察に出かけた。その先はなんとあのマハサラカム・バンモーだったのだ。2年前学生たちと訪ねた村である。ここから200km離れている。
 あるポターはそこで高台と蓋のついた新型モーナムをみた。綺麗だったと、その時の気持ちを語ってくれた。D村ではそれまで丸底で蓋のないモーウナムしか作っていなかった(需要は減ったが今でも作っている)。以来この村では新型水甕モーイオイの生産が始まった。
 さらに何年か後に、男性の蹴ロクロ作りの職人Pさんがこの村で作陶を始めた。これも役所の援助だった。彼女たちはPさんから花瓶や植木鉢作りを習い、モーイオイのパァ・ギャッなどを教えてもらった。彼の作陶の痕跡は今もお寺の一角に残っていた。
 実はパァ・ギャッの口作りがパァ・ベン平縁だったのだ。これ以来、お客さんの嗜好も加味し、飾りが無くてもパァ・ベンとしたり、デザインに敏感なポターは凹線紋風の口作りを始めたりと、バラエティーが増えてきた。
 このように一見バラバラに見えていたD村の土器の口縁部も、その歴史と製作者の概念から2種に大別することができた。
 消費者の嗜好に敏感なポターがいる一方で、かたくなにパァ・タマダ、パッコムしか作らないポターもいる。当初は年齢により分かれるのではないかと目論んだが、そんな単純ではなかった。技法に対する先取性、お客の動向に敏感かどうか。蓋に描く紋様へのこだわりなどとは対応関係がありそうだ。

 たかだか、これだけのことなのだが、私にとっては「腑に落ちる」大きな収穫だった。

 今年も村の人たちからたくさんのお土産をもらって帰ろうとしている。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 5年前にお世話(早朝から晩までの密着取材)になったNさん。若いころは韓国や台湾で働いた。以前いきなりハングルで挨拶されてびっくりした。今はゴムの収穫で毎日忙しい。土器は去年休んだけど今年は2月から作るよ!
ずいぶん痩せてしまったね、というとうれしそうにほほ笑んだ。
帰路20:30、ウボン空港からエアアジアに乗ってバンコクスワンナプーム空港へ。そのまま、23:55の深夜便で成田に帰るはずが、ブッキングを間違え1日早く着いた。仕方なく一晩空港で寝るはめに(10月は韓国で乗り遅れたが今度は1日早かった・・・・笑えない)。4月に来た時も空港で寝たので、いい場所はしっかり押さえた。お金があればバンコクに戻ったのだが、財布の中には100バーツ札1枚。風邪が悪化しだしたのとあわせ、ちょっと心細い夜だった。

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