歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2012-01-23

四国の城と石切り場

先週末、四国の城と石切り場を歩いた。

 第9回全国城跡等石垣整備調査研究会が高松市で開かれた。前にも紹介した、文化財石垣保存技術協議会と共催である。今回は「石垣整備における記録と工法選択」がテーマで、現在文化庁が音頭を取って進めている「石垣整備のてびき」の主旨に則って議論が進められた。東日本大震災で被災した石垣の復旧もてびきの枠組みの中で進められていくが、個々の事例では難しい問題もみられ、これから合意形成をはかりながら進めていくことになる。

 近年は、石垣修理の現場で3Dレーザー計測や土木工学的な試験など、最新の技術が導入され普及し始めている。それはそれで結構なのだが、ともすると、客観化、記録のデジタル化という観点から、これまで経験的に積み上げられてきた人の技や知識の領域が省かれている現場を目にすることがある。

 石垣カルテや解体調査で膨大な図面や3次元データは残るものの、人がリアリティーのある体験や言語で語りつぐべきものが何も残らない、といった状況を危惧する。現代、身体化された技術(人の知と技の総体)の崩壊が叫ばれて久しい。「使えない客観的情報より、リアリティーのある主観的情報を大切に!」と叫ばざるを得ない。

 現地見学では天守台石垣の修復工事がおわり、一般公開となったばかりの高松城、そして、7世紀の古代山城(朝鮮式山城)−屋島城の石積み修復工事の現場を見学した。

 庵治の町は良質の花崗岩「庵治石」の産地として有名である。東の大谷、西の庵治、いま日本を代表する「石の町」として文化的景観の調査が行われているらしい。山体の姿を変えるほど大規模に掘削された石切り場を背景に、鋭い割面をもつ青肌の花崗岩とその製品が集積された町並みは、この地にしかない独特の景観である。この風景を殺風景な環境破壊の現場とみるか、文化的な景観として継承していこうと考えるかは、人の土地との関わり方や価値観によって大きく異なる。ここは早くから石の民具資料の収集、研究が行われ、石の民俗資料館もできている。石の町としてこれからも発展していくために住民たちがどんな選択をし、町づくり・景観形成をしていくのか注目していきたい。

 翌日は冷たい雨にぬれがら、さぬき市にある大串半島の凝灰岩丁場を踏査した。中世の石切り丁場を見学するのは初めて。平刃工具の痕跡が昨日削ったように見事に残っている。ここは近代のツルによる延べ石丁場と複合している。しかし両者は一部接点を持ちながら完全にはだぶらない。それはどうも工具の違いとそれによる掘削方法(工程)の違いが原因らしい。

 中央構造線上にある徳島城は結晶片岩の石垣が特徴的だ。たくさんの天下普請も手掛けた蜂須賀家の居城である。まちなかにあって市民が散策する都市公園となっている。山上には天正期や文禄・慶長前期とみられる古い石垣群がよく残っている。ここで注目されるのは、本丸の大きく孕んだ天正期石垣を「ふとんかご」とよばれる現代の土木工法で押さえている点である。金網の中に大量の石を入れた四角い構造物を積み上げて法面保護する工法である。担当者によれば応急措置という説明であった。
 石垣の崩落は人を巻き込む可能性がある。危険だからと言ってすべて解体して積み直せば、オリジナルはなくなってしまう。文化財としての石垣は消滅する。その点で見た目を問わなければ、最善の方法ともいえる。一方で、伝統的な石垣技術を再生し、継承するためには工事現場が必要である。このジレンマを調整しつつ、「石垣」(有形・無形の価値)を残していくためには、関係者だけでなく住民たちもまじえた粘り強い議論が必要になる。遺産をどう残し、どう消費(活用)するのか、それを考えるのが我々に課せられた責任であろう。

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