歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2012-12-13

佐藤ゼミスピーディー発表

お久しぶりのアイスが無性に食べたいパーカーです。

すっかり、寒くなり、雪も降り、風邪も流行に乗ってきました。

朝と夜が寒いので、みなさん風邪には気を付けましょう!

なぜなら、佐藤ゼミは前に週ごとに風邪をこじらせる人が連続したので…。

それなのにアイス食べたいとか言ってすみません。反省はしていませんが、言っとくだけ言っておきます。

 

さて、今回は、わたくしパーカーとstagさんと先々週の(もう先週の話なので)弁慶さんの史料の残りを発表しました。

なので、弁慶さんの発表は、先々週担当の人に任せます。

では、発表の内容の方に移ります。

まず、一コマ目のstagさんの発表は「大石田河岸における最上川差配」についてでした。

狙いは大石田河岸の利用方で、中でも最上川差配を重点的においたそうです。

大石田河岸は、最上川流域中部に位置し、上流には三難所を控えた中継河岸とされ、領主的運輸機構の中枢として発展した。

最上川船差配では、村役人が船肝煎を兼帯、他に船差と呼ばれる船問屋によって行われ、通船毎に取り立てた差配料、商荷運賃の十分の一庭銭の分配を行った。大石田河岸における川船差配は、村請の形で請け負われ、これに船方の代表として船差が加わる形となっている。

上記は、レジュメから一部抜粋してきました。

他に史料を読んで気になったワード「登荷物」

これが大石田から酒田を抜け大坂へ送られると説明にありましたが、船の航路を表すものなのか荷物自体をさすのか気になるところでした。

他には、古手ですね。”ふるて”と読むそうです。

中古品のことで古着も含まれるそうです。

廻船のことについては、知識が無いので毎回発表される度に勉強になっています。

 

次いで、私の発表です。

時間的に40~45分くらいしかなかったと記憶しています。

その中で急ぎ足で発表しました。

今回も義経関係で、テーマは「義経伝説と義経神社」です。

義経神社は、私の地元北海道平取町にある神社です。

平取は”らとり”と読みます。間違えてひらとりと読まれるので念を押しておきます。らとりです。大事なことなので二回言いました。

では、内容です。狙いは、義経伝説と義経神社の記述を重点的に調査しました。

義経伝説の記述では、義経が平泉を逃れ蝦夷に逃れたという記述と義経意外にも安倍氏と呼ばれる一族内でも敗戦後蝦夷に逃れるという逃げ道の手段があったようで、藤原泰衡も蝦夷に逃れようとして肥内群贄柵で討ち取られた。しかし、義経が蝦夷に逃れたという説は、裏付けがあるわけではないので、史実とはされていない。

義経神社では、創建説が諸説あり、一般的には1799年幕史近藤重蔵が蝦夷地探検で訪れ、義経がアイヌの人々に信仰されていることを知り、翌年に神田の仏工に彫らせた義経像を平取のハヨピラに寄進したのが始まりとされている。なお、この義経はアイヌの英雄神オキクルミと同一よ見られている記述が新井白石の『蝦夷志』などに記されている。

上記は、レジュメの一部を簡単にまとめたものです。

今回も決定づけるような史料を見つけてくることができず、調査対象が北海道なので書籍も山形の図書館では少ないことが仇となりました。

次回の発表は冬休み明けなので、現地に調査しに行ってきます。

では、長くなりましたが、ここでパーカーからの発表報告を終わらせていただきます。

画像は、stagさんの使った史料とわたしの蝦夷志の一部です。

 

ふじさん!パソコンは大事にしますよ!!

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