歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-01-13

最後の女性たち・・・歴史の語り部

 12月25日

 

国境の町ノーンカイに来た。メコン川にかかる国境の橋(フレンドシップブリッジ1)をたくさんの車が行き来する。川岸にはラオスに送る建材を船に積みこむ労働者が上り下りしている。

 

 

 

●ND村

Kさんモーケンの成形

市街地から10分ほどの所にND村はある。Kさん(45歳)はこの村最後のポターになった。皮肉なことだが、周りのみんなが辞めたため、逆に注文がそれなりにあるという。現代的な貯金箱やタイスキの鍋も作る。忙しい時は引退したおばあさんをヘルパーに雇うのだと。この村も100年前、コラート(現在のナコンラチャシーマー)から移住してきた人たちによって開かれたという伝承を持つ。したがって、土器作り「タイ・コラート族」(Lefferts&Cort2000)の技術と共通する。ここで作っている水甕モーナムには高台が付かないことを記憶しておこう。

 

粘土採掘場

仕事場の傍らに木製の鋤(スコップ)があるのを見つけた。これは以前が学生たちと尋ねたマハサラカム県のモー村でみたものと同じだ。聞いてみると池(国有地)から粘土を掘るのに使うという。そこで採掘場所まで案内してもらった。周辺には青々とし、忙しく二期作の田植えの最中だった。

 

 

●KS村

  

この時期、イサーンの北部はウドンターニーを中心にサトウキビを満載したトレーラーが国道を埋め尽くす。巨大なプラントの煙突から白い煙が何本も立ち上る。 

ノンブアランプ―県の東端にあるKS村はコンケーンのWT村から分かれた村である。ここでも土器作りの多くの要素が共通する。水甕モーナムに地元の世界遺産バンチェン遺跡にちなんだベンガラ模様を取り入れて付加価値を高めている。面白いのは小型鍋モーケンがイサーンスタイルではなく、タイ中部スコータイスタイルなのである。世界遺産スコータイの町はここから西約300kmにある。村を走る国道はイサーンの北部とスコータイを結ぶ幹線道路である。村は物流拠点にあり、国道沿いの出店ではスコータイやダーンクウィアンなどタイ各地の焼き物を集め、販売している。10年前にできた窯は、スコータイから職人がきた職人が作った。モーケンも教えてもらったそうだ。

スコータイスタイルモーナム

人やモノが頻繁に移動するなかで、この村では鍋の形をイサーンスタイルからあこがれ意識の高いスコータイスタイルに変えたのだ。

 

 

 かつて訪ねたスコータイTR村は旧王都らしい装飾性の高いモーナムを作り、低コストの野焼きをしている。一方、コラート近郊にあるダーンクウィアンはタイ屈指の窯業地として知られるが、生産の効率化・量産化とともにコスト高が避けられなくなっている。確かに窯焼きの燃料消費はすさまじかった。年々卸価格が上昇しているそうだ。スコータイからの製品がおしゃれで安いからよく売れるよと。なるほど。

KS村の土器作りも風前のともしびである。いまは3~5軒に減った。Sさん(59歳)・Nさん(37)母娘いわく、いまはサトウキビの収穫と炭焼きが忙しいからまだ作らない。現金収入を得る

バンチェンスタイルモーナム

ための手段が優先される。粘土採掘場の池が、灌漑用貯水池に大規模に造成されてしまって粘土を掘るところがない。あと何年続くだろうか。

 

○NBKS村

ノンブアランプ―県を西の山間部に向けて走る。ここでも道路脇にはトラックが落としていたサトウキビが散乱する。

この村の土器作りは途絶えてしまった。Bさん(65歳)は2年前にやめた最後のポターだ。年取ったのと目が見えないのでやめたよ。以前は10人はいたね。3年前に一人になった。ひと月前に連れ添いを亡くしたばかりだという。

Bさんに移住してきた頃の話を聞く

Bさんは48年前、コンケーンのWT村から最初に移住してきた家族の一人だ。いま48歳の長男がおなかにいる時だったので記憶が定かである。3世帯は田を求めてここにたどり着いた。近くに粘土が取れる場所があったからここにしたよ。あとから続いて来た世帯もあったそうだ。おなかに赤ちゃんを抱え、まる3日間、100kmを歩いてここにたどり着いた。

 若いころ土器は1個2バーツだったよ。粘土は池で首まで水に浸かって掘った。ここにも木製の鋤があり、たまたまバンコクから帰ってきていた息子さんが使い方を説明してくれた。生粘土を使う伝統は故地と共通する。

 

 

 

 

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